
はてなキーワード:オイラーの公式とは
掛け算の概念(倍数を扱う)
小数的な考え方の萌芽
円周率(近似値として3.16)
20進法の完成された記数法
公理を置いて、そこから論理的に定理を導く証明中心の純粋数学の発展
当時、「すべての量は整数比で表せる」(万物は数である)と信じられていた。
しかし √2 が有理数ではない(整数の比で表せない)ことが分かり、この哲学が崩壊。
『直角二等辺三角形の対角線の長さ』が整数比で表せないことを証明したとされる。
証明したのは学派の弟子 ヒッパソスとされ、伝承ではこの発見により処罰されたとも言われるほどの衝撃。
アルキメデスによる面積・体積の“求積法”の発達。
負数を“数として扱った”最古の事例『九章算術』
十進位取り記数法
負数の萌芽的扱い
独自に代数学(al-jabr)を発明。文章による代数。ここで初めて“代数学”が独立した数学分野となる。
商、余り、桁処理などの方法が整理(現代の学校で習う割り算の形がほぼできあがる)
xに相当する未知数記号を使用した代数(文字ではなく語句の略号)
sinx,cosx,tanx などの三角関数の無限級数展開を発見。
これは数学史上きわめて重要な成果で、近代的な無限級数の起源はインドである と言われる。
● 1500年〜
負数の受容が進む。
● 1545年頃(カルダノ)
虚数の登場。
三次方程式の解を求める過程で √−1 に相当する量が突然登場。
しかしカルダノ自身は「意味不明の数」とし、虚数が数学的対象であるとは認めていなかった。
● 1557年頃(レコード)
等号記号「=」を発明。等価を等式として“視覚的に書く”文化が誕生。
● 1572年頃(ボンベッリ)
カルダノの式の中に出る「意味不明の数」を整理し、虚数を使って正しい実数解が出ることを示した。
● 1585年頃(ステヴィン)
● 1591年頃(ヴィエト)
● 1614年頃(ネイピア)
● 1637年頃(デカルト)
今日では当たり前の「座標平面」「方程式で曲線を表す」が、ここで生まれた。
物理現象をy=f(x)で表すという現代の方法は、すべてデカルトから始まった。
大数の法則(試行回数を増やすと平均が安定する法則)を初めて証明
● 1748年頃(オイラー)
√−1 を i と書く記法を導入。
オイラーの公式「e^{ix} =cos x + isin x」を提示し、虚数を解析学に自然に組み込んだ。
微積分の計算技法の体系化(積分論・無限級数・微分方程式の基礎を構築)
多くの記号体系(e,π,sin,cos,fなど)を整理・普及
グラフ理論(もの[頂点]と、それらを結ぶ関係[辺]を使って、複雑な構造やつながりを数学的に研究する分野)の誕生
ーーーーーーーー
一旦ここまで。
続きは詳しい人にまかせた。
6年前に地方の機械科を卒業した。地元の進学校に落ちたのと仲良い友達が行くから高専に入った
大学と高校が合わさった画期的な学校という説明をよく見るが、実情は底辺大学の工学部と同じだと思う。優秀なやつは旧帝に編入してトップ層と張り合ったりするし、ダメなやつは学んだことを何も覚えてないまま就職(ないしは退学)したりする。どっちも極端な例だが、これらの層が混ざりあってるのが実情(ダメな層が大半)。底辺大学でもこれは変わらないと思う。
学力レベルとして、5年生(大学2年)でもだいたい以下を理解してない(導出ができない・何のためにあるかわからない)のが6割ぐらい。もちろん全部習ったことあるし専門科目の授業でめちゃくちゃ使う。
2.オイラーの公式
3.微分方程式
学校はあくまで個人が学ぶ場であって、周りの質よりは教員の質が大事という意見もあるが、教員の質も差が酷いと感じた。博士課程を取った人しか高専で教員として教えることは出来ないことから、とりあえず博士課程に行った人の受け皿になってるように感じる。もちろん今でも人格的に尊敬している素晴らしい先生もいる。しかし、教えられながら「本当に理解して教えているのだろうか…?」と疑問に思う教員がいるのも事実。
普通に高校に行って、大学、大学院に進む人間との情報格差が酷すぎる。高専生は大企業に簡単に入ることが出来る、と宣っているが総合職と技能職の説明をろくにされた覚えがない。もちろん入る直前には扱いが違うことを知ると思うが、進学か就職かを決めなければならないタイミングでこの事実を学校から教えて貰った記憶は無い。もう勉強したくないから就職する自分より優秀な同期もいた。地方の進学校に進めば少なくともMARCH程度は行けていたであろう同期がだ。総合職と技能職でつける仕事、給料に差があるとは知らなかった。
それは必然ではなくて偶然の要素が大きいでしょ。
より高位にあることの結果というわけではない。
どっちも「美しい」と言われてるけど、
宇宙際タイヒミュラー理論がもし真だと
生まれるだろうけど、あれを美しいと言う人は
たぶんいないでしょ。
この季節、満開になった桜とともに、俺にはたまらなく嬉しい事がもう一つある。
今年も新人が入ってきた。
子供の頃に大好きで、もうとっくの昔に連載が終了したマンガ。大人になってふと本屋に立ち寄ると、そのスピンオフとか続編だとかが発行されていることに気がついた、そんな感じに似ている喜びだ。
何より、動きづらそうなス―ツで固めた彼女の目には、仕事への熱意があふれていた。
そんな様を見て、ベテラン社員のオバちゃんは俺をひやかした。「念願の秘書が出来ましたね(笑)」。
諸君に紹介しよう。俺の秘書。彼女は、蒼井そらを地味にしたような印象の女の子だ。
理系の常識にもれず口下手な蒼井そらは、会話の冒頭を必ず「あ」から始める。
俺「この関数の計算量はわかるよね?」「あ、まず、はじめのアルゴリズムのオーダーがlogNですから…」みたいに。
そして緊張すると、1オクターブ声が高くなる。
俺「うん。よく出来たね。ところでお昼ごはんどうする?」「あ⤴、今日はお弁当用意してきてないです。」
はじめの時はガチガチに緊張していたが(お互い)、近頃、肩の力が抜けてきたのか、笑顔が見られるようになった。
あかん。
俺の頭に警告ランプが灯る。beep音が鳴り響く。
参った。いい年してこんな気持ちになるなんて、思っても見なかった。
この歳まで仕事一筋で生きてきた俺。
だから、俺のディスプレイを覗きこんだ彼女の香水が昨日と違うことに気づいても、
(フ、俺にとって社員は目的達成のためのコマに過ぎない。会社の成長とユーザーの笑顔こそが、俺の全てだ。)と頭のなかで唱えてやり過ごし、
俺のコンビニ弁当に野菜が少ないのを見越した彼女が、手持ちの手作り弁当からトマトをひょいと寄越して「あ、私、実はトマト苦手なんです。母に食べろって言われてるのでしかたなく入れてるんです」と言ってニッコリ笑った時も、
「うん、それなら貰うよ。ありがとう」(全ての親はいつだって自分の子どもを心配しているものである。これは子孫繁栄のために全ての動物に見られる特徴である)などと念じ、
議論が白熱して夜遅くなって、車で送ろう、と言った時も、
「あ⤴、まだ終電ギリギリ間に合います。陸上部だったんで、足には自信があるんです、ダイジョブですよ」って固辞した時も、
(車を使うと地球温暖化を推し進める怖れがあるからな。賢明な判断じゃないか。だから俺が特別嫌われてるわけではない。嫌われているわけではない。嫌われているわけではない…)
などと呟いて事なきを得た。
でも歯車が致命的にズレて、万が一にも、彼女と交際して、最悪、結婚する、という事態になったら、目も当てられないことになる。
社員を招いて結婚パーティーを開かなくちゃならないし、取引先にも知れてしまうかもしれない。
悪いうわさが立つかもしれない。「あー、あそこの会社の社長、蒼井そら似の新人に手を出したんですってよー」。ぐうの音も出ない。
会議で司会進行役の社員が、「以上です。『パワハラ』さんはなにかご意見ありますか? アッ」などと、呼び名を間違ってしまうかもしれない。
それだけは避けたい。
だから駄目だ。手を出しちゃ駄目だ。
明日も彼女は俺のそばに来る。それは避けようのない事態だ(いや、無理言えば避けられるけども)。
土日を一緒に過ごすのはアウトか。
食事くらいはいいのか。でもそれで我慢できるのか。全てが未知の領域だ。真っ暗闇のなか目隠しをされて歩く。吹き上げてくる風を感じる。両脇は崖だ。
ああ。
こんな気持になったのは小学生以来かもしれない。
放課後の教室、誰もいなくなった教室に、隣の席に座っていた長い髪の女の子を呼び出して告白したとき以来だ。春の風が窓から入りこんで、彼女の髪が揺れる。ニッコリと微笑む。そして言う。『NO』。
俺はモテナイ。俺はモテナイ。かの事件以来、オイラーの公式以上にシンプルな事実は、俺の心の碑文に深く刻み込まれていた。wikipediaで調べたところによると、およそ1500年前に気の利いたインド人が、どんな数も割れない数『0』を生み出したそうだが、そんな彼も、1500年後にとある日本人(俺)がモテナイ、ってことには気が付かなかったと思う。同じくwikipediaで今調べたところによると『-1』のルートをとった数に『虚数』という意味が与えられたのはおよそ500年前だそうだが、俺は500年たってもモテナイ以上の意味を持つことはないだろう。
別に上手くないな。
…とにかく俺は、逃げた。
コミュニケーション能力を磨くとか、目の前の人間をちゃんと向き合う、といった人間として必要な努力に背中を向けたクズに成り下がった。
マフラーで結ばれた同学年の男女が公園のベンチで自販機のスープをすすっている時に、俺は、
ろくに暖房も効かない部室で、部費で買ってもらった貴重なコンピュータのモニタを、同志たちと肩を寄せあって睨みつけていた。
恋愛映画を見ている恋人が、映画が終わった後、ホテルで相手の服を脱がすその手順を考えている時に、俺は、
メモリの限られた計算機上で、いかに効率的に破綻なくプログラムを組み上げるかに没頭していた。
そうだ。誰に否定されても、変わらない事実がもう一つあった。
俺は、プログラミングが好きだ。
俺の心の碑文の裏には、それがきっと刻まれている。
無意識のうちに好きになったプログラミングを嫌いになるなんて、絶対に出きっこない。
CG系はほとんど知らないからそれだけじゃ何が問題になってるのかわからん。
とりあえずそのsubdivという操作の定義(あるいは仕様)があるはずなので、それを丹念に追うしかないんじゃない?
原理的にあり得る立体(1次元、2次元も含む)分割を全て網羅しているかもしれないし、制限があるかもしれない。
以下は勘で一般論を話すよ。
http://www.den.rcast.u-tokyo.ac.jp/~suzuki/class/dcomputing/doc/solidcad.pdf
の35ページに、(拡張)オイラー操作は空間の基底を構成すると書いてある。
基底というのはベクトル空間の線形独立なベクトルの集まり(3次元ならe_x, e_y, e_zとか)で、
イメージとしては何らかの意味での「最小構成要素」と思えばよい。
ここでは「立体を分割する」という操作の基底(最小構成要素)を構成できるか、という話で、
簡単のために、拡張なしのオイラーの公式v-e+f=2で考えると、位相的に正しい立体は全てこの公式を満たすわけで、
逆に、(位相的に区別できない)立体を(v,e,f)の3要素で識別できるということだろう(たぶん。証明はしてない)。
そうすると、「立体に(subdivなどの)何らかの操作を加えて別の立体を作る」という操作は、(v,e,f)の値を変更する
という意味になるわけだ。
そのような操作は明らかに「vを1増やす操作」、「eを1増やす操作」、「fを1増やす操作」の組み合わせとして表現できる。
これが「操作の基底」だ。
しかし、操作は必ずオイラーの公式を満たすように実行しなければならないので、基底は3つではなく2つになる。
(3次元空間に拘束が一つ入って平面(2次元多様体)になるようなもん)
つまり、2つの基底操作を実装すれば、他の任意の操作はその組み合わせとして実行できるようになるということ。
基底は任意に回転してよいので、上記資料の35ページでは各基底は「単一の要素を1増やす操作」にはなっていない。
これは物理的に自然な操作が必ずしも「単一の要素を1増やす操作」ではないからだろうね。
というわけでともかく「基底操作を実装しろ」ということだろう。
組み合わせの「マクロ操作」としてどういうものを用意するかはCADソフトなりの定石があるだろう。
対応付けを求めているのはオイラーの公式について。複素数については
って既に書いたでしょう?
これの証明したらいいじゃん。
うん。そこまでの証明は追った。この時点で既にむずむずするが誤りは発見できなかった。で,更にxにπを代入すると気持ち悪さがロケットで突き抜ける。
これの意味がわからないので解説してほしい。
われわれ(と複数人称を使うことを許して欲しい)が数学に初めて触れるとき,そこに示されている記号は現実と対応するものとして把握されるでしょう。2はりんご2個,和算は合計,負数は借金の額などなど。だんだん抽象度が高まっていっても,現実世界とどこかで対応していることを期待してしまう。虚数のように一見ありえないような概念であっても,それが例えば電磁気学で使用されているさまを見ると安心する。数学は現実世界をモデル化したものであり,数学で真と証明されたことは現実においても真となる。そういう素朴な期待がある。
でも現代的な解釈はそうじゃないらしい。正当と仮定された公準から,正当と仮定された推論規則にのっとった操作を有限回数くりかえすことで,任意の命題の真理値を導出するゲーム。別にこの公準が現実世界と対応している必要はないし,推論規則も常識と一致する必要はない。もちろんゲームとしての出来の良し悪しはある。ある命題について真と偽の両方を導出できてしまうことを許すような公準・推論規則は矛盾をはらむ「悪いゲーム」だし,多くの命題について真とも偽とも導出できないようなゲームはつまらない。われわれのもつ数学もこうしたゲームのひとつで,わりと現実に似せて公準と推論規則を定めてはあるが,常に現実と対応することを保証するものではない。ゲームの品質についても実は無保証で,矛盾があるかもしれないし証明不可能な命題をもっているかもしれない(とゲーデルが言ってる)。
私に与えられた公準と推論規則からオイラーの公式が真と証明できた。よろしい。でもその公式が現実世界の何ごとかを示しているものと信じて対応づけを探すことには根拠がない。どうの剣とかわの盾を使ってスライムベスを倒せたというのと同じ。ただ上に述べたように私は素朴な信仰を捨てきれないので,対応づけを求めてむずむず感がとまらないのであるなあと。理系マジヤバイ。
文系だけど数学がわからなくて馬鹿にされるのは悔しいのでがんばって三角法に関するオイラーの公式の証明を読んでみた。
こいつに x=π を代入するとcos(π)=-1,sin(π)=0 よりいわゆるオイラーの公式
e^(iπ) + 1 = 0
が導かれる。OK。証明に間違いを見つけることはできない。でも非常に気持ちが悪い。なんだこれ。なぜこんなことが許されるのか。前提も推論も正しいはずなのに結論に納得がいかない。あーむずむずするぅ。理系の連中はこれ見てあーそうだよねーとカジュアルに受け入れられるのか。このむずむず感は数学を推論ゲームでなく世界の射影としてとらえようとしているからだとわかってはいるんだが。