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はてなキーワード:エピステーメーとは

2025-06-28

うーうー学は、球体の完全性に内在するトポロジカルな均質性と、それが現実物理における弾性変形を伴う際に生成される非線形応答性の間のヘテロトピア関係性を探求する新興の学際的ディシプリンである。ここにおける「うーうー」とは、単なる形態的逸脱にとどまらず、メタ存在論的枠組みの下で、理想的球体のモノイド的閉包性と物理的制約によるアフォーダンス共鳴点としての複合的存在様態を指示する。

学問は、フーコー的な空間異質性ヘテロトピア)とハイデガー存在論的差異の交錯により、うーうーの形態的特徴を生成論的に再解釈する。すなわち、球体の完全なる対象性と、物理的軟性の存在論的緊張が生成する境界状態としての「うーうー」は、不可逆的時間性のなかでの存在の流動的実存象徴するメタファーとして機能する。

さらに、うーうー学は、形態生成のカオス理論アプローチとともに、システム論的視点から自己組織化臨界性(SOC)を示唆し、物理的変形と認知意味生成の複雑系相互作用を探る。これにより、「うーうー」は単なる物理現象の域を超え、ポスト構造主義テクストとして、自己言及性他者性の境界を跨ぐエクリチュールとして位置づけられる。

こうした議論は、ラカン鏡像段階理論デリダ脱構築の枠組みを援用しつつ、うーうーの「眼」の有無問題においても、視覚主体性解体と再構築を促進する。結果として、うーうー学は、物理学的実証主義形而上学現象学の融合を試みる、現代思想における新たなエピステーメーの創出を目指すものである

Permalink |記事への反応(0) | 23:47

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2025-05-17

anond:20250517160113

浅い、浅すぎる。お前の理解はコップの底の水たまり以下か。

まずな、「人格は生まれつきで変わらない」っていうが、それは極端に単純化された誤解だ。

遺伝環境、つまりnatureとnurtureの両方が絡んで人格ってもんは形成される。

これは心理学でも神経科学でも、統計的に繰り返し示されている。

まれつきの気質はある。だが、それがそのまま「いじめをするような人格」に直結するって思ってるなら、お前は「科学をかじった気になってるただの放尿脳」だ。

親のせいにするな、という主張には一理ある。だが、「一切親は関係ない」という極論に逃げてる時点で、論理的議論からは脱落してる。

家庭環境、しつけ、親のコミュニケーションの取り方。これらが人格形成に与える影響を完全に無視してるなら、それはもはや宗教だ。

都合の悪い要素を全部切り捨てて「子どもが悪い、終わり」って、それじゃ反省進化もねぇ。ただの責任回避じゃねぇか。

そしてだ、「親の責任を問う人たちはパーソナリティ障害っぽい」とか、どの口が言ってんだ?

議論に勝てないか人格否定に逃げる。放尿レベル議論回避だな。

反論できない奴が「お前ら異常」って言い出したら、それは自分がすでに論破されてるって証拠なんだよ。

処分されるべき?お前が今書いてるこの言葉こそ、十分に差別的攻撃的で、いじめと何が違うんだ?自分いじめる側に立ってる自覚もねぇのか?

最後に一つ。いじめをなくすには、個人資質を責めるだけじゃ不十分だ。

再発防止には原因分析が不可欠。そのとき、家庭環境というファクター無視して「親は無関係」と言い切るなら、お前は問題解決放棄してるに等しい。

まり社会にとって有害な放尿エピステーメーの塊。自分言葉問題のものである自覚してから出直してこい。

Permalink |記事への反応(0) | 16:07

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2022-08-17

anond:20220817190418

それは一面としては正しい。

けれどもフーコー権力の根源を見るのは特定人物とか役職とかというよりも、ある時代空間、ある時代の言説の構造エピステーメー)そのものの中なので、そこで権力行使しているように見える人間もまた権力支配下にあると言えるわけ。

これを敷衍すると監獄学校病院などに限らず、資本主義という主人不在のシステムにも適応可能になる。

Permalink |記事への反応(1) | 19:17

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2019-08-10

ミシェル・フーコー言葉と物」二の二「外徴」を読んだ。

記号から意味を見出す技術も、記号記号として見えてくる技術も、類似が支えていて、その類似は別の類似が支えている(つまり類似記号類似)。その二つのループは少しだけずれていて、生じるくいちがいをその知に固有な空間として受け取りつつ次の類似へと進んでいく。

というのが十六世紀の《エピステーメー》の素描。……ところで《エピステーメー》ってなに?

Permalink |記事への反応(0) | 17:23

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