
はてなキーワード:エシカルとは
「へぇ、こういうのが貴方の言う『エシカル』なんですね。高尚すぎて私にはとても理解できないですね」
とでも笑顔で言えばいい話。
お前らは、財布を選ぶときにエシカルだの美しさだの、そんなチャチな理由で選んでるのか!?
甘ったれるな!!
牛革財布の魅力はそんなもんではない!!!
考えても見ろ、今の世の中のことをもっと。
もしも、これから戦争が始まって、世界中に核が落ちて、突然、世紀末救世主伝説マッドマックスの世界になったときのことを。
そうだ。
生き延びる唯一の切り札が牛革財布なんだぞ。
まず肝に銘じろ。
牛革は「食料」なんだ。
野菜の栽培も家畜の飼育も無理な世界で、飢えをしのぐ最後のリソースがここにある。
財布をかじれば、噛みしめる豊かなタンパク質、ミネラル、コラーゲンが染み出してくる。
口に入れたその瞬間、財布に刻まれた刻印よりも確かな“生命印”を感じるはずだ。
次に、牛革財布は加工が進んでいても“ナチュラル”な食感を残している。
噛めば噛むほどほのかな渋みと深いコクが口内に広がる。
財布の縁に残る糸くずや裏地も、繊維質としての食物繊維だ。
咀嚼するほどに満腹中枢が刺激され、腐敗しにくい乾物として長期保存にも耐える。
だが牛革は違う。
放射線も耐え抜く厚みとハリがあり、雨にも泥にも負けない。
まさに世界が終わっても財布一つで飢え知らず。
お前らが今、デザインやブランドを気に入ってるあのしなやかな手触りも、世紀末では“食べ頃”のサインだ。
柔らかすぎず硬すぎず、最適な焼き加減のステーキ肉を口の中で思い描け。
核ミサイルの閃光が消えた直後、財布を火に炙れば表面がパリッと香ばしく、内部はじんわりジューシーな“廃墟グルメ”に早変わりだ。
だが財布をかじるたびに、自分がかつてこの文明で戦ってきた証を噛み締める。
希望も絶望も一緒に噛み砕いて、次の一口を目指せば、生きる糧になる。
だから聞け。
その財布を持って砂塵の廃墟を歩け。
汚れや傷はそこそこあり見た目は良くないが十分実用に耐える。
しかし仲間内ではデスマスクなんてエシカルではない、人の皮革の財布にすべきだと文句を言われる。
その意見には同意だがわざわざ使えるものを買い替える方が無駄ではないか。
そう言っても他の者の示しにならない、みたいなことを言われて聞く耳を持たない。
このままだとあと10年くらいはまだ使えそうだがさっさと買い替えるべきだろうか。でないとずっと嫌味を言われ続ける。
おぬしらは勘違いしている
なんとなくわかると思うが、あれは「田舎批判をすることで、自分が都会に住んでいる実感を得る」ことが目的のキチガイどもじゃ
というか、イノシシやらシカやら、他にもぶっ殺されてるのに、何故クマだけ騒ぐのか考えてみろ
もちろんクマほど大々的にニュースとかで取り扱われていないというのもあるが、それだけじゃあない
あのキチガイどもは、自分たちがエコでエシカルでサステナブルで安全な生活をしてると自覚したい化け物であり、クマが実際に人を殺す猛獣であるからこそ、クマが人間に処理されてたのでは面白くないんじゃよ
田舎にはずっとクマで困っててもらいたい、これが奴らキチガイどもの本心じゃ
自分で気づいてるかどうかは知らぬがな
なんせ本人たちは良いことしてると思っとるから
仮にクマを殺さず、クマが人間に被害を与えないシステムや生活を確立したとしよう
おそらく、いや、奴らは必ず批判してくる
🟢 ナッパ本革とは?
✅ 特徴
生後間もない子牛などの皮を使う
柔らかく、しっとりした質感
✅ 加工
染料仕上げで自然な色味・風合い
厚みが薄くしなやか
🟢 なぜ高級なの?
✅ 原料の皮自体が希少
✅ 加工に手間とコストがかかる
✅ 仕上がりがとても上質で「しっとり感」「高級感」がある
「カーフ」と呼ばれる生後6か月以内の子牛の皮は、非常にきめ細かく柔らかい質感が特徴で、高級な本革製品(特に自動車の高級シートや高級バッグ等)に多く使われています。このカーフレザーは、赤ちゃんの肌のような滑らかさとしっとりした手触りのために重宝されてきました。
倫理面については、カーフレザーの多くが食肉産業の副産物として利用されているとはいえ、実際には子牛の命が失われていることに変わりはありません。また、世界の一部地域では動物福祉への配慮が十分でない場合もあります。
シンプルにだめだろこれ
おまえの息子や娘の生皮がはがれるのを見てられるのかよ
オシャレでエシカルなブランドとして知られるAēsop(イソップ)。香りもデザインも最高。でも、一つだけどうしても納得できないことがある。
ギフト包装がない。
いや、正確には「ギフト包装がないわけではない」が、いわゆる「高級感のあるラッピング」は皆無で、ただの布袋(ズタ袋みたいなやつ)に入れて渡される。
イソップのスタッフは言う。「環境のためです」「エシカルな理念を大切にしています」と。
イソップのボトルを開けたときの香りやデザインに感動するのと同じで、包装を開ける瞬間のときめきって大事やん?
なのに、イソップのギフト包装は「ただの袋」。それどころか、たまに紙袋すらつけてもらえん。まるで「お前の大切な人に渡すプレゼントなんて、これで十分だろ?」と言わんばかりの無骨さ。
いや、違うんよ。俺はプレゼントをあげる相手に「特別感」を届けたいんよ。
エシカルが大事なのはわかる。けど、エシカルって「個人の楽しみや文化を削ること」なん?
世間の「エシカル至上主義」には、どこかモヤモヤした違和感がある。
「過剰包装はやめよう」という理念は素晴らしい。でも、「プレゼントを贈る文化」まで薄めるのは違うやろ。
この物語は、三匹の子ぶたがそれぞれ異なるコンセプトのカフェを開き、流行りの波に翻弄される姿を描いています。長男は手軽さ重視の「インスタントコーヒースタンド」、次男は「クラフトカフェ」、そして末っ子はこだわり抜いた「完全予約制・サステナブルカフェ」をオープンしました。
最初に話題をさらったのは長男のカフェ。SNSに「コスパ最高」と書かれ、学生や若者が殺到します。しかし、すぐに「味が薄い」「マグカップが使い捨て」などの批判コメントが相次ぎ、長男は意気消沈。次男のカフェはオシャレな内装と手作りスイーツで一時的にブームになりましたが、「量が少ない」「値段が高すぎ」と評判が悪化し、結局閉店。
末っ子のカフェは、初めから「来たい人だけどうぞ」という姿勢を貫き、完全予約制で地道に運営を続けました。やがて有名グルメ雑誌に取り上げられ、「本物志向のカフェ」として話題に。長男と次男は羨ましさ半分で訪れましたが、店内で飛び交う「オーガニック」「エシカル」といった会話に圧倒され、居心地の悪さを感じます。
そこへ現れたのが、近所の狼です。狼は「カフェなんて誰も覚えていない」と笑いながら、自分の大手チェーンカフェを自慢しました。それを聞いた三匹の子ぶたは、「結局、流行りよりも自分が楽しめる方がいい」と気づき、それぞれ新しい道を歩み始めました。
この物語の教訓は、「流行は風のようなもの。本当に満たされるのは、好きなことを続ける覚悟があるかどうか。」です。
ℋ𝒶𝓅𝓅𝓎 ℰ𝓃𝒹.
「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌いの多数決でしかないのではないかという結論に至った。
この服はなぜ良いのか?
着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快の問題だ。
かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快の問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。
安いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快の問題だ。
高いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断が快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快の問題だ。
もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。
いずれの評価軸も快不快、好き嫌いの問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。
いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則を所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから、感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。
ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在の説明がつかない。
ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間は多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威と大衆の意見は必ずしも一致しない。それなのに権威の意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。
謎すぎる。
世界共通の自然法則に支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的な感覚があるのだろうか。
それはまああるか。
様々なノイズを除去しながら、そういった本質的なものを見極めて評価の対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。
ただ人類の共通の感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。
アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?
宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?
多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断の基準を提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間が権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。
論理的に分析してみた所でそれが良いか悪いかは論理ではなく基準の問題なので、共感の方が重要に思える。
基準に沿った判断は合理的にやっていけるけども、基準そのものの妥当性はより上位の基準でしか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。
これなら原則として良い悪いが好き嫌いの多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。
哲学の世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。