
はてなキーワード:ウォリアーとは
Perplexity Proのリサーチに同じプロンプトを入力したらこんな感じ
---
##フランク・キャンパーのマーセナリースクールと日本人参加者
フランク・キャンパー(Frank Camper)は元ベトナム戦争退役軍人で、1980年にアメリカ・アラバマ州に「ザ・マーセナリースクール」(The Mercenary School)を設立しました[1][2]。キャンパーはベトナム戦争時代にLRRP(Long Range Reconnaissance Patrol:長距離偵察部隊)に所属し、その後傭兵として活動した経歴を持っていました[1]。
この学校は、アラバマ州のウォリアー川沿いの77エーカーの土地に設置され、コンバット技術、サバイバル訓練、銃器訓練、白兵戦、体力訓練などを内容とする2週間のコースを350ドル(後に500ドル)で提供していました[2][3]。訓練は軍隊の制約を受けない過酷なもので、「食事も睡眠も自分で機会を作らなければならない」という方針のもと実施されていました[4]。
マーセナリースクールは『ソルジャー・オブ・フォーチュン』誌などの軍事専門誌に広告を掲載し、学生を募集していました[2][3]。学校には国際的な学生が集まり、アメリカ、カナダ、ドイツ、日本、スペイン、イスラエル、ノルウェー、フランスなど多くの国から参加者がありました[5]。
キャンパーは学校の設立目的として「アメリカ政府が多くの情報を得て、犯罪者やテロリストを阻止する成功的な作戦を開始できるようにすること」と「将来的にアメリカ政府のために働く可能性のある外国人を見つけ出し、証明すること」を挙げていました[2]。実際に、1981年から1986年まで、キャンパーと学校はアメリカ政府から約25,000ドルを受け取り、学生の情報を政府に提供していました[2]。
最も著名な日本人参加者は、ジャーナリストの落合信彦でした。落合は1982年頃にキャンパーと出会い、傭兵に関する書籍執筆のために取材を行いました[6]。この取材をもとに、1982年に『傭兵部隊 その栄光と孤独』が集英社から出版されました[7]。この本は1985年に集英社文庫として再版され、フランク・キャンパーのマーセナリースクールでの体験が詳細に記述されています[8][9]。
より詳細な日本人参加者の記録として、高橋和弘氏による著作があります。高橋氏は実際にマーセナリースクールに入学し、その体験を『USサバイバル・スクール 極限の野外生存術』として著しました[10][11]。同氏は、落合信彦の『傭兵部隊』の内容について実際の体験に基づく検証を行い、本に記述された内容と実際の状況との相違点を指摘しています[10][6]。
高橋和弘氏は他にも以下の関連書籍を翻訳・著述しています[11]:
###学校の閉鎖と影響
マーセナリースクールは1986年にキャンパーが逮捕されたことで閉校となりました[2]。キャンパーはテロリストの訓練を行ったという疑いや、1985年のカリフォルニア州での車両爆破事件に関与したとして14年の刑を受けました[12]。
1980年代の日本では、これらのアメリカの傭兵学校の影響を受けてサバイバルブームが起こりました[1]。アメリカで訓練を受けた日本人たちが帰国後、千葉県などに独自のサバイバルスクールを設立し、ラペリング、ランドナビゲーション、E&E(Escape and Evasion)などの訓練を提供していました[1]。これらの学校には自衛官も参加し、当時の軍事・サバイバル関連の文化に大きな影響を与えました[1]。
並木書房は軍事・戦争関連の専門出版社として知られており、元傭兵の高部正樹氏の著作『戦争ボランティア』(1995年)や『戦友 名もなき勇者たち』などを出版しています[13][14]。しかし、フランク・キャンパーのマーセナリースクールに関する日本人参加者の体験記が並木書房から出版されたという直接的な記録は、調査の範囲では確認できませんでした。
高部正樹氏は1980年代後半にアフガニスタンで傭兵活動を開始しており[15]、時期的にはマーセナリースクールの存続期間と重なりますが、同氏の著作では主にミャンマー、ボスニア・ヘルツェゴビナでの体験が中心となっており、アメリカの傭兵学校での訓練については言及されていません[16][17]。
フランク・キャンパーのマーセナリースクールは、1980年代のアメリカにおける民間軍事訓練の先駆けとして、また冷戦期の特殊な社会情勢を反映した施設として、軍事史上重要な位置を占めています。日本人参加者による記録は、当時の国際的な軍事訓練の実態と、それが日本の軍事・サバイバル文化に与えた影響を示す貴重な資料となっています。
フランク・キャンパーという元ベトナム退役兵が1980年代に傭兵学校を設立しました、並木書房から日本人の参加ルポが出ていたと思いますがその詳細を教えてください
エコー・イン・ジャパン:フランク・キャンパー、並木書房、そして傭兵の呼び声に応えた日本人
ご質問の内容は、単なる書籍の問い合わせにとどまらず、1980年代の日本における特異な文化的モーメントを映し出す歴史的アーティファクトである。この時代、日本では軍事、特に傭兵や特殊部隊といったロマンチックかつ危険な世界への大衆的関心が急激に高まった 1。この熱狂は、落合信彦氏のような作家が手がけた「スーパードキュメント」と呼ばれるノンフィクションによって大きく煽られた。特に、氏の著作『傭兵部隊』はフランク・キャンパーを大きく取り上げ、後の日本人参加者を含む当時の若者たちに強烈なインスピレーションを与えたのである 1。
本報告書は、ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」と完全に一致する一冊の本は存在しないものの、その記憶がフランク・キャンパー、高橋和弘、毛利元貞といった人物、並木書房による出版物、そしてキャンパーの学校とその「後継」組織という、相互に関連し合う魅力的なネットワークを指し示していることを明らかにする。その全貌は、一個人の参加報告よりもはるかに複雑で、示唆に富むものである。
この現象を解き明かす上で、並木書房の役割は極めて重要である。同社は単に受動的な出版社ではなく、日本の市場に向けて「傭兵」や「サバイバル」といった特定のサブジャンルを積極的に開拓・形成した「キュレーター」であった。まず、1990年に高橋和弘訳によるフランク・キャンパー自身の著書『ザ・マーセナリー』と『ザ・ラープ』を出版し、日本におけるキャンパーのブランドを確立した 9。同年、その翻訳者である高橋自身の体験記『USサバイバル・スクール』を刊行 14。これは、確立されたキャンパーのブランドと翻訳者の信頼性を利用して、新たな日本のオリジナル作品を市場に投入する戦略であった。翌年には、キャンパーが象徴する世界に直接繋がるもう一人の日本人、毛利元貞の『傭兵修行』を出版した 15。この一連の流れは、海外の著名な人物を輸入してブランド化し、次にそのブランドに連なる国内の物語を発掘・出版することで、ニッチな市場全体を掌握するという、並木書房の意図的な戦略を示している。
1.1. 論争の的となった経歴:兵士、情報提供者、そして神話の創造者
フランク・キャンパーの公的なペルソナと、彼が設立した傭兵学校の信頼性の核となっていたのは、その軍歴であった。彼は自身をベトナム戦争に従軍した第4歩兵師団の長距離偵察パトロール(LRRP)隊員であると主張し、そのエリートとしての経歴を喧伝した17。この物語は、後に日本で『ザ・ラープ 長距離偵察部隊』として翻訳・出版される自著『LRRP: The Professional』によって、さらに補強された10。
しかし、1985年に公開された公式の軍記録は、彼が歩兵およびトラック運転手として訓練を受けたと記しており、その経歴に疑問を投げかけた17。この矛盾は、1988年にキャンパー自身が上院小委員会の公聴会で証言したことにより、ある種の解決を見る。彼は、軍事情報部、CIA、ATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)、FBIとの「高度な機密指定を受けた経歴」を明らかにし、矛盾する記録は情報機関によるカバーストーリーであったと説明した 19。彼によれば、1970年から秘密情報提供者として活動し、アメリカ共産党(CPUSA)やアラバマ黒人解放戦線(Alabama Black Liberation Front)のような組織に潜入していたという17。この兵士と情報提供者という二重のアイデンティティこそが、彼の行動を理解する上での鍵となる。
1.2. マーセナリー・スクール(1980年-1986年):準軍事的事業の実態
1980年、キャンパーはアラバマ州ドロマイト近郊で「マーセナリー・スクール」を開校した。当初、実地訓練はフロリダで行われていたが、原子力発電所付近での不法侵入容疑による逮捕後、拠点をアラバマ州ジェファーソン郡のウォリアー川沿いにある77エーカーの森林地帯に移した17。
学校は『ソルジャー・オブ・フォーチュン』のような軍事雑誌で宣伝され、2週間のコース料金は350ドルから500ドルに設定されていた17。訓練内容は、体力トレーニング、銃器の取り扱い、白兵戦、ナイフ格闘術、サバイバル技術、ランドナビゲーション(地図判読)、E&E(脱出と回避)、爆発物、ブービートラップの設置など、多岐にわたった 1。機密解除されたCIAの文書には、司令部であった「バンカー」の様子や、実弾が飛び交う中で行われた「ライブ・ファイア」演習の生々しい記述が残されている 22。
キャンパーは学校設立の理念として、米国政府のための情報収集と、将来的な協力者となりうる外国人の資質を見極めることの2点を挙げていた 21。これは彼が担っていた情報提供者としての役割と一致する。しかし、批評家たちからは、この学校は単なる「大規模なペイントボール・ゲーム」に過ぎないと揶揄されてもいた17。
キャンパーの学校は、単に軍事技術を教える場にとどまらず、国際的なテロリズムや犯罪と深く結びついていた。
1984年から85年にかけて、4人のシーク教徒過激派がこの学校で訓練を受けた17。キャンパーは彼らに武器や爆発物の使用法、暗殺技術を指導した 21。彼は、当時インドのラジブ・ガンジー首相の訪米に合わせた暗殺計画を阻止するため、FBIと協力しておとり捜査を進めていたと主張している17。しかし、このおとり捜査の網をすり抜けた2人の訓練生が、キャンパーの学校から盗まれたとされる爆発物を使用し、1985年に329名の命を奪ったエア・インディア182便爆破事件を実行した 21。キャンパーは後に、容疑者全員を逮捕できなかったのは、自身が提供した情報が関係機関によって不適切に扱われたためだと非難した 21。
学校の終焉を決定づけたのは、1985年にキャンパーと3人の教官がカリフォルニア州の学校経営者から依頼を受け、元従業員の車に爆弾を仕掛けた事件であった 21。彼らは1986年5月に逮捕され、この逮捕がアラバマ州司法長官に、州の私立学校免許なしで運営されていた同校を閉鎖する法的根拠を与えた17。キャンパーは有罪判決を受け、14年の懲役刑を宣告されたが、実際には5年半服役し、1991年12月に釈放された17。
この一連の出来事は、マーセナリー・スクールが単に犯罪者が集う場であったという以上に、より複雑な本質を持っていたことを示唆している。キャンパーが公言していたように、この学校は米国政府のための情報収集を目的とした「ハニーポット(蜜の壺)」として構想され、運営されていた。その設計思想自体が、過激派や犯罪者を引き寄せるものであった。彼は実際に、ナイジェリアへの武器密輸計画やKKK関連のクーデター計画など、訓練生の違法行為を当局に通報し、逮捕に貢献している17。シーク教徒の事件に関するFBIの宣誓供述書にも、アラバマ州の「信頼できる情報源」からの通報があったことが記されている 22。
しかし、このモデルは致命的な欠陥を抱えていた。エア・インディア機爆破事件は、この「ハニーポット」戦略が破綻した最悪の事例である。キャンパーが教えた技術は、彼が仕掛けたおとり捜査の網をすり抜けたテロリストによって、悲劇的な形で実行されてしまった。したがって、この学校の遺産は単なる犯罪の歴史ではなく、国家による情報収集活動が民間委託され、危険な個人を「育てる」ことと「罠にかける」ことの境界線が曖昧になった結果、大惨事を引き起こした高リスクな秘密工作の失敗例として記憶されるべきである。学校の存在そのものが、ある種の秘密工作の一環であり、その破綻は、その機能から直接的にもたらされた必然的な帰結であった。
2.1. 直接的な回答:高橋和弘の『U.S. Survival School』
ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」に最も直接的に該当するのが、高橋和弘氏による著作である。高橋氏はアウトドアやサバイバル技術に造詣の深い日本のライター兼翻訳家であり、並木書房から出版されたキャンパーの著書の日本語訳も担当していた 9。
1990年、並木書房は彼のオリジナル著作『USサバイバル・スクール―極限の野外生存術』を出版した 14。この本こそが、ご質問の核心に触れる一次資料である。本書は、高橋氏自身がアメリカに渡り、8つの異なるサバイバルおよび軍事系スクールに参加した際の体験を綴った一人称のルポルタージュであり、その第3章が「傭兵学校―マーク・スクール(MS)」と題され、ユーザーが記憶する詳細な参加報告が記されている 14。
2.2. 決定的な繋がり:「マーク・スクール」と教官「ピート」
重要なのは、高橋氏が参加した「マーク・スクール(MS)」が、1986年に閉鎖されたキャンパーのアラバマの学校そのものではないという点である。調査によれば、この学校は、フランク・キャンパーの元アシスタント教官であった「ピート」という人物が新たに設立した「後継」の学校であったことが特定されている 2。この事実は、毛利元貞氏のWikipediaページの脚注において、高橋氏自身の著書『USサバイバル・スクール』を典拠として明記されている。「スペシャル・アサルト・スクール」とも呼ばれたこの後継学校は、ミシシッピ州に拠点を置いていた 2。
この事実関係を整理することで、ご質問者の記憶の謎が解ける。記憶は機能的には正しく、しかしキャンパーという著名な名前と、実際に日本人が報告した学校とを混同していたのである。その報告は、キャンパーの弟子が運営し、キャンパーを中心としたカタログを構築していた並木書房から出版された、「キャンパー・スタイル」の傭兵学校に関するものであった。つまり、ご質問者の記憶の核心は正しく、その背景には直接的な血脈が存在していた。1990年当時の読者にとって、キャンパー本人の学校と、その直系の後継者が運営する学校との区別は些細なものであり、体験の「精神」はキャンパーの遺産そのものの延長線上にあったのである。
この物語には、もう一人の重要な日本人が登場する。1964年生まれの毛利元貞氏である 2。彼もまた落合信彦の『傭兵部隊』に触発され、より実践的な経験を求めて自衛隊、そしてフランス外人部隊へと進んだが、いずれも脱走している 2。
彼の探求は、アメリカでピートが運営するミシシッピ州の「スペシャル・アサルト・スクール」へとたどり着く。しかし、彼は参加者としてではなく、その卓越した技能を認められ、同校の「教官」となった 2。1991年、並木書房は彼の体験をまとめた『傭兵修行―世界に冒険を求めて』を出版した 15。この本は、ジャーナリスト的な参加者として訪れた高橋氏の視点とは対照的に、組織のスタッフとして完全に内部に溶け込んだ日本人の視点から描かれた、ユニークで並行する報告となっている。
高橋氏と毛利氏の物語は、このアメリカのサブカルチャーに対する日本人の二つの異なる関与の形を象徴している。高橋氏は、体験し、記録することを目的とした「観察者・記録者」であり、その役割は本質的にジャーナリスティックであった 14。一方、毛利氏は、その世界を報告するだけでなく、自ら生きることを目指した「実践者・求道者」であり、その目標はプロフェッショナルになることであった 2。並木書房がほぼ同時期に両者の著作を出版したことは、同社が、体験談を読んで楽しみたい「 armchair enthusiast(安楽椅子探偵)」層(高橋の読者)と、自らもそうなりたいと夢見る層(毛利の読者)の両方を読者層として認識していたことを示唆している。二人の本は、日本の「傭兵ブーム」が内包するファンタジーの全スペクトラムに応えるものであった。
著者/翻訳者
年
関連性
Merc: The Professional
1990
キャンパー自身の傭兵としてのキャリアを語り、日本での彼のペルソナを確立した 9。
LRRP: The Professional
1990
ファイヤーエムブレム エンゲージをクリアした。
なんだかんだ楽しんで遊んだ。バトル面は最高。それ以外はひどい。特にシナリオは合わない。
FEは遊んだことなかったたので難易度はノーマルにした。プレイ時間は132時間ぐらい。
ストーリーは王道っぽい感じだけど、シナリオがあまりにも合わない。端的に言ってひどい。
UIも使いづらい。とっても使いづらい。
バトル面は最高。面白い。
その他思ったたこと。
仲間はヴァンドレ以外は一通り使ってみた。スキルはみんなだいたい悩んだら再移動か星玉だった。
----
これで終わり。晶石集めたり、オンラインだったりはやらない。ハードやルナもやらないかな。他のゲームやる。
禁呪や死者の宮殿でC.H.A.R.I.O.Tでアイテム集めをしたのもあってプレイ時間はゲームの記録で7日と18時間(186時間)ぐらいだった。
前評判で色々出てきてたけど、楽しめたとは思う。レベルキャップはあんまり面白くはないと思う。バフカは気にならなかった。
寄り道(死者の宮殿)が長すぎてストーリーあんまり覚えてないけど、Cルートは王道って感じだった。
難易度は3章あたりから厳しくなってきた。難易度設定に余裕があんまり無いような印象。
その他
カーテンコールやW.O.R.L.Dでの他ルートは一旦保留するつもり。
やるならイベントだけ見る目的でさくっとやりたいけど、それができないっぽいし、ドラクエやりたい。
今はなんかラブコメとかなろうとかウケ狙いの作品作ってるタイトルばっかりだけど、さすがに2012年投稿作となるとあるていど独自設定の創作興行バトル物をお出ししてきた。
第18回電撃小説大賞銀賞
読んでみて、うーん銀賞。といった感想。
いや、100ページでギブアップしたんですが。100ページで主人公タッグが二日過ごしたかな。
出会って、主人公を無理やり従わせて、学校いって、ヒロインの過去戦を見て、もっかい学校いって、主人公の初期ステ確認して、あとは世界や名前やゲームや金回りのを設定ペラペラペラとつまびからにしていって…
100ページ。
ここまで盛り上がる部分無し。
あ、ヒロインも金回りで束縛されやらなきゃいけない理由あるんすね。うん、そういう話まだ続くの?あーじゃあもういっか。
みたいな。
文章はね、読める。とても読める。クセもなくて読みやすい。グッド。
年収200万以下地下住民、1億以下地表中流住民、1億以上で天空住民。
地下住民は白髪赤目のアルビノ人種になるぐらい地下世界で進化してるし名前もカタカナでわかりやすいぞ!
主人公は中流行きの裏パスを買ったやつから奪い地上に出てすぐそばの屋敷に忍び込み即ヒロインに捕まったぞ!
ラノベなんてそんなもんでいーんだよ。主人公が高等教育も受けてない地下住民でもそういうキャラだっけ?とそこらの不良レベルに落ち着いても、中流以上の世界の先端技術やシステムを紹介されても頻繁に「地下で長に聞いたことがある」とかで物分りよくされてもいいんだよ。
そんなんでも、読めるんだよ。
無表情無関心キャラいいよね!ボクも大好きだ!
だからこそ二人ともたいして重要視してない学校にいかせるなんてことに尺を使わないで、もっと能動的に動いてほしかったよね。学校はヒロインが有名であるってところや過去片鱗を見せる程度で別に無くてもよかったなぁと。
せっかくの西遊記システムなんだからもっとヒロインに首輪をグイグイひっぱらして脅して競技や競技道具の店を回らせるとかで設定説明と交流を同時進行すればいいのに、第三の大人メインキャラクターがかなりでしゃばっちゃって、二人のキャラがうっすーーくなっちゃってる。ぼかんメールで脅すところはまあよかったよ。
その物語を円滑に回す操り大人となんか知らんが他人から奪って年収億り人になって天上に行きたいなるほど低知能な主人公がなんか喋ったり考えたりしてるうちにページが進んでいっちゃった結果、これ作者はキャラやゲームより経済格差や搾取構造とかに興味があって気持ちよくなってんな?と邪推を募らせていく。
そんなんを100ページかけて対人タッグ戦の「ウィザード&ウォーリアー・ウィズ・マネー」WWWMはヒロインの過去の一戦をビデオ観戦するだけなんだけど。
んーまぁ、面白くなりそうな気配がある設定ではある。インタビューにもあるけど、やっぱりMTGとかを連想するよね。
才能や属性は生まれつきでありつつスキル(カード)は生まれつき固有と金を出して買う汎用スキル(カード)があるってTCG部分を入れ込んでるよね。でも現実のプロの競技シーンでは全てのカードプールが前提で、金次第ってのは下々の一般享楽プレイヤーの視点だし。
属性でコストが増減するし反対属性もあるし、でも2属性持ちはレアだしとやや複雑な設定で、5枚のスキルで戦う公平な知略的部分と、鍛錬による基礎バフと生まれの属性制限の属人的部分があって面白そうではあるけど、どこに入れ込んで見ればいいのか短い描写ではわからなかった。
5枚スキルもプロなら公開しない秘匿に割くのが常道、とワールドトリガーでシールドやバッグワームにスロットさかれがちでショボーン…みたいな気持ち。
さらに興を削ぐのがスキル発動。額につけたハチマキの台座の溝にスキルカードを走らせる。
テイマーズ、いいよね。剣、いいよね。
うーんしかし、額のハチマキにカードを走らせる。どうイメージしても、カッコよくない。
描写を読んでも
「頭に巻きついた機械である。ハチマキのように巻かれているのだが、額の部分に台座の出っ張りがあり、細い線が引かれている」
よくてナルトの額当てをイメージしてみても「出っ張りがあり」となんだかレジのカード読み取り機のような外付け機器的やぼったさがある。
動作も、アイドルがするような横ピースを目の位置で走らせるやつを額でしたり、野球帽の鍔を回すように親指と人差し指でさっとする姿をイメージしてみたのだが…でもやっぱり額はないよ。
イラスト担当も苦労したのかあまり魅力的なデザインにはなっていない。耳に月と太陽のピアスをつけている設定もあって、結構頭部がごちゃごちゃしている。
そんなヒロイン、狂える二律背反の死神(ルナティック・ザ・デス)の!太陽と月の相反属性を唯一持つヒロインの!代名詞スキル「太陽と月の女神の気まぐれ」の効果とは!
そしてヒロインはなんと毎回これを有利に決めてくるのだ!
……
パルプンテで毎回良い効果でますよ。みたいな感じなんでしょうか。
いやーこれ、魅力的か?チート能力と解釈しても、魅力的なチートか?
互いの身体能力をランダムに変化させるユニークスキルヒロインです!
面白いのならそれを100ページ、全体の1/3までに描写してほしかった。
文体で2連敗したあとに読んだ作品で、読めるだけでありがてぇと読んだが流石に一章まるごとでこれはつまんない時間が長かった。
ガマン強い人やシステムにワクワクする人、徐々に盛り上がるのが好きな人なら余裕で読めると思う。
私には没入するための、ページをめくるための燃料が足りなかった。
でもこれから「友達の妹が俺にだけウザい」とか「義妹生活」とか売れる作品書いていくんですよね。わからんもんです。
お金がなくてもカードゲームで勝てる!? 第18回電撃小説大賞銀賞受賞『ウィザード&ウォーリアー・ウィズ・マネー』三河ごーすと先生インタビュー
強盗が話題で、俺の同級生もそういえばそんなことやってたなあ、と思ったから書くことにする。
強盗と言っても、勿論そんな殺しとかするグループじゃなくて、基本はどこの地元にもよくいる、中学生のスリグループだけど。
グループの人数は大体5~6人。その中の一人、仮にTとする。
彼らの集合場所は、近所のイオンのフードコートで、放課後、あるいは学校をサボって集まっては、誰を狙うかを話していた。
俺も、Tと遊んでたら、たまたまその集会に何度か出たことがある。うちにNARUTOを観に来ていたTと、その後遊びに行って…みたいな流れ。水曜が多かったかな。懐かしい。
基本的には、彼らは正義のグループというか、金持ち、悪い奴しか狙わない、という空気というか、決まりがあるらしかった。
Tはリトルシニアで全国に行くくらい身体能力が高くて、(月4000円ほどの月謝を親が払ってくれなくなってやめてしまったけど)
あと頭も普通に良かったので、ターゲットの家に侵入するときも、計画を立てる時も、中心となっていた。スリグループだが、流れでひったくり、置き引きもよくやっていたようで、
空き巣、ついでに強盗は彼らの中だとサブというか、遊びに近い感覚だったと思う。
スリは本当にみんな上手くて、試しにポッケに財布を入れてその辺歩いてみい、と言われて、30分後に帰ってきたら、本当にポケットから無くなっていて、技というのはあるんだなあ、と思った。
中でも、痩眼鏡の、Sは本当にスリが上手いらしく、昔はイジメられていたらしいのだが、スリの実力だけで一目置かれていた。
意外だったのは、、置き引きが意外とよく捕まってしまうらしい、みたいな話で、Tと同じ野球チームだったライト君(ずっと「ライト」と呼ばれていて、本名は知らない。多分右翼を守っていたからだと思う)が、
「置き引きはマジで3回パクられたわ。押し入り(強盗のことをグループ内ではそう言っていた。『押し』とも)の方がええな」みたいな話を、コーラを飲みながらしていたのは印象的だった。
押し入りの基本はストーキングだ。子供が外をうろついていても、何も思わないし、何より彼らはやはり、正義を大切にしていたので、
悪い奴しか狙いたくない、という思いが強いのも、手法と合致していた。現金を持って歩くようなら、スリ、もしチャンスがあれば強盗もする、ということで損のない計画だったと思う。
流石に俺は一度も参加しなかったが、近所の人間の噂とか、何時頃帰ってきたな、とか、犬の散歩でどこで見かけた、みたいな情報はいくつか話した覚えがある。
無免許で運転するのも、グループ内の一人が出来たらしいのだが、やはり地元の方が地の利があったのか、市外には俺の知る限り、出ていなかった。
ある日、Tに『増田のおかげで凄い儲かったわ!』と嬉しそうに言われ、イオンの中に入っていた駄菓子屋で、駄菓子と、遊戯王カードを10パック奢ってもらえたので、情報は役にたったらしい。
記憶が微妙にあいまいなのだが、ガムテープでババア縛った、というようなことも言っていた気がするので、多分強盗で得た金だったのだろう。
強盗の手順もいくつか聞いた気がするのだが、その時のパックで『ドリル・ウォリアー』を当てて、Tやライト君と一緒にハイタッチした方が、鮮明な記憶だ。
まあ、何にせよ、悪いヤツらではなかった。ライト君がけんかっ早いやつで、彼が始めた喧嘩に誘われることもあって、『家の包丁とか持ってった方がいいんかな?』と聞いたら、
「いや、刃物は捕まった時、鑑別超えて年少だし、ゴチャマンなった時危ないからバットにしとき」みたいなアドバイスもくれたし、(あ、でも刺す時は刃、縦にせんで横に構えて、ここ狙うんやで、みたいなのもちょっと教えてくれたが)
ただ、TやSが、俺が喧嘩なんて得意じゃないのを知っていて、彼ら二人が、俺が危ない喧嘩には参加しないように守ってくれていたと思う。
だから、ライト君とSがヤクザに捕まった、みたいな話を聞いた時は、本当にヒヤヒヤしたものだ。
悪人を選定して押し入りをしていたので、たまたまヤクザの本人か、愛人だかに当たってしまったらしくて、そんなのは一発で捕まった、という話だった。
結論から言うと、漫画みたいな話で、Tが事務所で指を落として、解決したらしい。
問題は3つあって、Tは緊張で間違えて人差し指を落としてしまったらしいということ、そして、その人差し指が人参を勢いよく切った時みたいに、
どこかへ飛んでいってしまって、事務所の中で失くしてしまったということ。
(ヤクザが子供に指を詰めさせたなんて、恥ずかしかったらしく、事務所の中でみんなで探して、医者も紹介してくれて、縫ってくれたとか)
Tの指は、動かなくなっていたが、まあくっついていた。そんなことより、ヤクザに気に入られすぎた、というのが問題らしかった。ゲソをつけないと収まらないと。
強盗団は、Tの就職をもって、解散になったらしい。だが、後から聞くと、大体少年の犯罪者グループは、そういう終わり方をするのが多いらしい。プロリーグに上がる、というようなもんだろうか。
その後、俺は普通に東京の大学に行って、その辺の企業に就職したが、ライト君やSとは、たまに連絡を取って飯を食いに行ったりしている。
みんな、大変そうだが、普通の企業に就職して、結婚もして、幸せそうに生きている。Tだけは、連絡が取れなくなったが、何とかシノギを見つけて、元気にやっているという噂を聞いた。
『スタンドバイミー』みたいだな、と思うし、今、ニュースで捕まっている強盗団の顔を見て、同じような懐かしい気持ちになっている人も、きっと多いのではないだろうか。
彼らにも人生があり、友人がいるのだろう。そんな名も知らない誰かの、思い出を呼び起こしているに、違いない。
Permalink |記事への反応(10) | 14:24