
はてなキーワード:インパクトとは
成分。計186回目。
予約をしてあったので行ってきた。
特に予定がない土曜。
道中、オレンジ色の装飾の家々を見かけて、そうかハロウィンの季節なのか、と気付く。
電車の中にも、すごい子が一人居た。
恐竜の被り物というか着ぐるみというか、恐竜レースとかのイベントで使われるヤツを着てる男の子。
車内での注目度抜群だった。まぁ俺はスマホを弄ってたから電車を降りるその時まで気付かなかったけど。
終点で降りて、繁華街を通る。天気は微妙だが、なんらかハロウィンのイベントがあるのだろう。活気づいている。
気合の入ったコスプレが見れるかと期待したが、電車の子のインパクトを超えるヤツはいなかった。
繁華街を通り抜け、寂れたビルに入る。ここが献血ルームが入っているビルだ。
以前に、「どうしたら献血に来る人が増えますかねぇ?」と看護師さんに世間話がてら聞かれたことがあるが、
まずは献血ルームの立地が悪すぎると思う。お前らは人を集める気あんのか?と毎回思っている。
ただ、今日は人が多くて混んでいるのでないか?と予想していた。
受付を済ませて、中を見渡すとやっぱり人が多い・・・ 気がする。
血液検査が済んだ後も、採血に呼ばれるまでに大分時間がかかった。
おかげで、コーヒーを飲みながら今月号のDIMEをじっくり読めた。別にそんなに面白くもないが。
やっと採血に呼ばれて、ベッドに横になる。
担当の看護師さんが「待たせちゃって、ごめんなさい!なんだか知らないけど今日は混んでて」とのこと。
ネットの一部で献血が流行ってるらしいからそのせいかもしれないですねー と言うと、
「そうなの?全然知らなかった。昨日も平日なのに人が多かったけどそのせいかな」
「それ自体はありがたいことだけど。でも偶然今日来た、知らない人はびっくりしちゃうよね。こんなに混んでるならもう来たくなくなっちゃうかも」
という反応だった。
なかやま氏のことも、国立がん研究センターへの寄付のことも、そこから派生した献血のムーブメントのことも、何もご存じない様子だった。
というか、実際それらの件と、昨日今日の混雑ぶりは全然関係ないかもしれない。
血を抜かれながらテレビを観る。
大谷翔平がなんか頑張っている。
知らんけど、この人野球がすごくお上手なんでしょ?外観からしてフィクションじみてるな・・・・
でもドジャースは負けたらしい 大差じゃん。何やってんだよ翔平。お前が付いていながら。
いや、初戦だから、これからの盛り上がりも計算して手を抜いているのだろう。流石だ翔平。興行ってものをわかってるじゃないか。
しばらくして採血が終わり、休憩室でアクエリアスとコンポタをがぶ飲みする。
そのくせに、ご褒美のセブンティーンアイスを食う。俺はバカだ。アイスは美味い。
腹が減った。血を抜いたし、肉を食おう。
近所にバーガーキングが出来たらしいと聞いていたので、向かってみる。
すげぇ並んでる。ダメだ面倒くせぇ。それに、よく考えると肉の気分でもない。
とりあえず、家に向かってあることにする。食欲の湧く、店があったら入ろう。
ケンタッキーフライドチキン・・・・ 違うな。
考えながら歩く。
とりあえず、タンパク質を取るべきだろう。
タンパク質パフォーマンス、略してタンパだ。タンパが良いものを食うのだ。
肉より魚だろう。魚が手軽に喰えるというと、回転寿司だな。
久しぶりにスシローに入ったが、システムの変貌ぶりにびっくりした。
何あの、専用レーン?もう、流れてくる皿を見張ってなくていいのか!すげぇ!
味噌汁を啜りながら、どうやって専用レーンに来るように制御してるんだろう?とふと気になる。
皿の何かを認識して、より分けている?
じゃぁ、この皿は俺の席専用?まさか。そんな仕組みだったら、膨大量の皿が必要になってしまう。
というと、この時だけこの皿を俺の座席用にする仕組みがあるんだろう。まさかタグを物理的に差し替えるとか?
なるほど。こいつ中の情報がよろしくやってくれているのだろう。と、とりあえず納得することにする。
海老と、マグロを食べて大体満足したが、最後に牡蠣を食うかで迷う。高ぇな牡蠣・・・・
結論を言うと、残念なシロモノだった。不味くはないが・・・ とにかくガッカリだ。会計を済ませて外に出る。
帰りの電車は人も疎らで落ち着いていた。
誰もハロウィンのめいた格好はしていない。
正面に制服姿の女子中学生が座る。口元のホクロがやたらとセクシーだ。マリリン・モンローみてぇだな。
俺が同級生だったら、魔性の女、とかあだ名をつけるだろうな、としょうもないことを考える。
帰ったなら何をするか・・・ 晩飯を作るか。スーパーに寄って帰ろう。
何が言いたいのかというと、ハロウィンって本当にいいもんですね、という話
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井までSSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
でもまぁ格ゲープロなんておじいちゃんでもインパクトつれぇインパクトつれぇ言いながらプロやってる緩い界隈だから引退は大げさな気はする
ただし原典(アニメ映画)で描かれていなかった部分が要所要所で足されていたのかな?
余白を埋めたということ。
おそらく原作(小説)に近いのだと思う(未読のためわからん、小説のレビュー等から推察)。
でもそれって客から想像の余地、解釈の余地を奪うということなんだよな。
原典ではすべてが描かれてなかったからこそ、救いのない話と解釈された。だからインパクトがあった。
余白をすべて埋めてしまうと、伝わるかもしれないけど正直微妙。
これが新海誠が本当に伝えたかったお話なのだとすれば、やっぱ新海誠って物語のセンスねーよなとの結論になる。
誠的には不本意なのかもしれないけど、エッジの効いた原典の方が好きだよ、自分は。
せっかくなので、もうすこし感想を語る。
でも一本の邦画として見た時にどうなのかというと、まあね。。
新海誠のよさって、あの写実的な映像美とMV力だと思うんだけど、
実写版には当然写実的な映像美はない(なんせ「実写」なのだから)し、MV力(音楽に合わせた動的なカット割り)もない。
新海誠の原典から新海誠の強みを差し引いて、脚本上の余白を埋めて、忠実に再現した映画。
こう評するとヒドい映画のように思えるかもしれないけど、
でもゼロ年代、90年代の時代感はよく再現されていたし、78/79年生まれの人たち(氷河期世代)の生き様のリアル感もほんとにそれっぽくて、
再現力はかなりすごい。
たぶんだけど、自然めな演技をするように工夫されてた感がある。
監督の力量を感じた。
けどやっぱり思うよ。
2025年のいまこのときに、「2008年当時29歳だった人の、なんかいいとも悪いとも言えない人生の一片」を朝ドラかのごとく考証しっかりと映画にする意味って何なんだろうか、と。
というわけでこれはファンムービーなので原典視聴済みの人は見ても悪くはないと思う。
未試聴の人はこっちより原典を見たほうが絶対によい。原典見て面白いと思ったらこっち見てもいいかも。
前知識ゼロで純粋に邦画として見たら、何とも言えない気持ちになると思う。
日本では全く知られていないが、10月24日に「HaloWorld Championship 2025」というイベントが開催される
https://www.halowaypoint.com/esports/halowc
平たく言えば人気FPS「Halo」の大会なわけだが、この場でHaloシリーズの何らかの新作が発表され、その中にはPS5版も存在するのではないか、という噂で持ちきりだ
Haloシリーズはマイクロソフト傘下のスタジオが開発する、マイクロソフトのゲームを象徴するタイトルであり、主人公である「マスターチーフ」は任天堂でいうところのマリオやピカチュウに相当するキャラクターである
それが、マイクロソフトが販売するゲーム機「XBOX」のライバルであるPS5にも登場するとなれば、そのインパクトはかなりのものになると思われるが、筆者個人はそれほどの事態にはならないだろうと推測する
なぜなら、奇しくも先日、マイクロソフトのゲーム事業のトップであるサラ・ボンド氏がインタビューで「ゲーム機の独占タイトルは時代遅れ」と発言したばかりである
https://news.denfaminicogamer.jp/news/251023x
実はここ一、二年ほど、マイクロソフトはかつてXBOX独占だった数々の自社傘下スタジオ開発の人気タイトルをPS4やPS5向けに発売してきた経緯がある
また一年前、Haloシリーズの開発を担当していた「343 Industries」が「Halo Studios」へと改称し、さらに開発エンジンを自社独自のものからUnrealEngineに切り替えると発表もされていた
UnrealEngineはソニーも出資する、複数のメーカーのゲーム機に対応した開発エンジンであり、プレイステーションやニンテンドースイッチ向けの開発実績も豊富だ
こういった直近の流れを知っている者には、PS5版Haloの登場は以前からの既定路線として比較的静かに受け止められることだろう
正式発表された模様
https://www.theverge.com/news/805174/halo-campaign-evolved-remake-xbox-ps5-release-date
モニタを選ぼうとすると、ほぼ間違いなくゲーミング用途でしか紹介されない
なんで?文章書いたり色々あるでしょ
そもそも多くの人がゲームに興じていたとして、高性能なモニタが必要なゲームばかりなわけがない
明るく広くててきちんと正確な色がでてそこそこの応答速度があったら、もう価格だけでいいんだがね
まあわかるよ
けど世の中のモニタがゲーミング機能しか長所に上げないのはなんか納得いかない
ところで今ごく普通のモニタを買うとしたら、俺なら31インチのWQHDを買いたいな
みんなもこういう平凡な感想いっていこうぜ
公明が連立相手として超絶優良物件だったのは創価学会っていう超巨大カルト宗教が裏についていて公明党議員の数で政権与党の数を上乗せできる以上に、ある程度の票を自民党議員にもたらすことが可能だったって点なんだよね
だから自民は多少公明に譲ってでも一緒にやっていく大きなメリットがあった
維新には当然そんなもんなんもないから純粋に「国会議員の数が増える」以上のメリットがない
そのメリットも貴方が指摘している通り国会運営に大きなインパクトを与えるほど大きいものでもない
だから自民が単独政権とれるくらい信頼を回復する(これすら難しそうだが)か、公明が返ってきた瞬間に維新は切られると思うわ
日本では長年「少子化対策」が政治課題の中核に据えられ、はてなの男性は「中年非モテ男性の(年下女性との)恋愛を国や自治体が無償や格安で支援するべき」という主張をここ15年ほど繰り返してきた。
しかし、出生数の減少そのものも重要だが、それ以上に「次世代が社会で機能しない/自立できない割合が増えること」は、長期的に見て社会資本と財政の双方にとって致命的なインパクトを与えうる。
実際、近年は不登校や療育(発達支援)を必要とする子どもの増加、若年無業者の高止まりが目立つ。
文部科学省の令和5年度調査では、小中高の不登校児童生徒数が過去最多を更新しており、小中学校で約34.6万人、高校で約6.9万人と報告。長期欠席・不登校の生徒数はここ数年で明確に増加。不登校は単に「学校に来ない」問題に留まらず、学習の遅れ・社会経験の欠落へと連鎖し、将来の就労や社会参加の困難を生むなど長期にわたる悪影響へと繋がっていくリスクが高い。
厚生労働省や関係機関の集計では、児童発達支援・放課後等デイサービスの利用者数・費用額が年々大幅に増加しており、平成24年度以降で数倍(児童発達支援は約5.7倍、放課後等デイはさらに大きな伸び)というデータが示されている。療育ニーズの増加は、単に行政予算の問題であるだけでなく、家族の就労・生活設計に直接影響する。療育の必要な子が増えれば、介護的な育児負担が長期化し、親(特に母親)がフルタイムでの労働を続けられなくなるケースが増える。
多数の疫学研究が、父親年齢が上がるほど子の自閉症スペクトラム障害リスクが上昇することを示している。代表例として、Reichenbergら(JAMA Psychiatry,2006)や大規模レジストリ解析を含む報告(Sandinら, 2016)は、父親の高齢化と子供のASDリスクの関連を示し、Sandinらは母親年齢や他の共変量を調整した解析でも独立した父親年齢の影響が確認されたとしている。疫学的には父親年齢の上昇がASDリスク増加と関連するという強いエビデンスがある。
メカニズムとしては、父親年齢上昇に伴う精子由来の新生突然変異(de novo mutations)増加や、社会選択(高齢で父親になる人の子供に特異な遺伝的背景がある可能性)などが仮説として挙げられる。Sandinらのような大規模研究は、母親年齢を統計的に調整しても父親年齢の独立効果が残ることを示しており、母親年齢を影響を除去した有効なソースに該当。
障害児・療育を要する子どもを抱える保護者に関する厚生労働省の調査では、「仕事と子育ての両立に困っている」との回答が多く、就労継続が難しいとの実態が示されている。共働きでやりくりしていた家庭でも、子どもに特別な支援が必要になると片方(多くは母親)が離職・短時間就労を選ばざるをえない事例が頻出。子供の送り迎えのために仕事を辞めるよう療育施設から直接言われたり、また辞めない限り子供の支援サービスにアクセスするのが不可能な状況であったという声も報告されている。
もともと「片働きでは家計が成り立たないから共働きで子どもを作る」という家計設計が一般化している時代に、療育ニーズの増加で親が仕事を続けられない事態が広がれば、家計・キャリア・出生意欲のすべてに負の影響を与える。
若年無業者は、若年者が減少している社会でありながらも高止まりの状態が続いている(例:15–34歳で50万人台程度の長期高止まりの推移など)。労働需要が不景気により落ち若年人口のボリュームがあって人余り状態であった氷河期とは状況が全く違い、団塊世代が引退して人手が不足して売り手市場であるのにもかかわらず、「能力的な理由でどこでも働けない若年者」の問題が現在の日本の問題である。若年層の就労不能・無業化が増えることは、納税者が減るだけでなく、生活保護・医療・福祉などの公的支援需要を増やすため、政府財政にとって大きな負担となる。
さらに内閣府や財務省の将来見通し・財政資料は、人口減少・高齢化が進む中で社会保障給付が増大し、現役世代の負担が重くなることを繰り返し示している。もし「働けない・納税できない次世代」の割合が上がれば、税や社会保険料を健常な労働世代からさらに徴収せざるをえず、長期的な税負担の増加と経済成長の停滞を招く。少子化に加え、次世代の「就労能力・自立度」が低下することは、単なる人口統計の問題を超え、財政持続性と社会の生産性にとって直接的な脅威である。
少子化対策は往々にして結婚と挙児を望むが機会が得られない35歳以上の男性の目線で語られがちだが、「出産適齢期に入る前の若年層(高校生・大学生)」に対するライフプラン教育や健常児をもうける能力と年齢の関係に関する情報提供、キャリア形成と家族計画を両立できる制度整備の方が長期的に見て効果が高い。これまでライフプラン教育は女子中高生のみに限定されて行われたことでTwitter上での「女性差別」という炎上が繰り返されてきたが、むしろ無知や危機感の欠如といった点で問題の程度が酷いのは男性のほうであり、40歳など手遅れな年齢になって親の介護危機をきっかけとして婚活を開始しがちな旧世代の無知な男性を反面教師として、現在の男子高校生に対して「25歳までに同年代の相手を決め、27歳までに第一子をもうける」といった人生設計に向けた緊張感を持ってもらうことこそ肝要である。35歳以上の男女への結婚促進は別に、国のためにならない。若さをすでに失った人は、勘違いをするべきではない。
女性が高齢になることにより不妊、流産、ダウン症といったリスクが上がることは知られているが、男性側が35歳以上であることによってASDが増えるというのは2000年以降に研究され始めた内容であり、知識が広がっていない。無知による晩婚、ASD児増加、不登校、若年無業、8050問題へと流れてしまう家庭が増えないことを祈るばかりである。
日本を代表する大企業において、50代の社員が直面する「無言の退職圧力」は、もはや例外的な事象ではなく、構造的な問題として常態化している。長年の経験と専門性を蓄積したベテラン人材を早期に手放し、その一方で育成に10年という歳月を要する未経験の新卒者を採用する──この一見不合理なサイクルは、なぜ繰り返されるのか。本レポートは、この問題の背景にある経済的力学と制度的欠陥を解き明かし、日本企業が直面する人事制度の根本課題に対する処方箋を提示することを目的とする。
この問題の核心には、見過ごすことのできない重大なパラドックスが存在する。
この矛盾した人材サイクルの根本原因は、個々の企業の経営判断ミスという表層的な問題ではない。それは、日本型雇用システムに深く根ざした「年功序列型」の賃金体系そのものに内在する構造的欠陥なのである。次章では、この矛盾を生み出す経済的メカニズムを詳述する。
持続的なリストラのサイクルは、経営の非情さの表れというより、むしろ伝統的な日本型報酬モデルに組み込まれた、根深い経済的ロジックの症状である。中高年社員の早期退職を促す構造は、短期的な財務改善という抗いがたい「誘惑」を経営陣に提示する一方で、長期的な人的資本を蝕む罠となっているのだ。
問題の根源は、多くの日本企業において、中高年社員の賃金水準が本人の生産性を大きく上回ってしまう「高すぎる給与」にある。具体的には、以下のような水準が常態化している。
この報酬と貢献の危険な乖離は、労働経済学の「レイザーの法則」によって理論的に説明できる。この法則によれば、年功序列賃金は社員のキャリアを二つのフェーズに分断する。
この報酬と貢献のデカップリングこそが、早期退職を促す構造の核心である。壮年期以降の社員を早期に退職させることが、企業にとって「膨大な利益」をもたらす財務的ロジックがここに成立する。
1.退職金のコスト:早期退職優遇制度では、退職金に「30ヶ月分」程度の給与が上乗せされるのが一般的である。
2.雇用継続のコスト: 一方で、高給与の50代社員を1年間雇用し続けるための総コストは、基本給(12ヶ月)に加え、賞与、高額な社会保険料、その他経費を含めると、給与の「24~25ヶ月分」に相当する。
3.結論: つまり、30ヶ月分の退職金は、実質的にわずか「1年3ヶ月分」程度の雇用コストでしかない。この計算に基づけば、50歳で社員を退職させることで、定年となる65歳までの残り15年分の莫大な人件費を削減できることになる。この財務的インパクトが、経営陣にとって短期的なバランスシート改善を優先し、経験豊富な人材の維持という長期的な視点を犠牲にする、強力かつ危険な誘惑となっているのだ。
しかし、この短期的な経済合理性は、深刻な副作用を伴う。かつて大規模なリストラを行ったパナソニックが、15年の時を経て再び同様のリストラを繰り返している事実は、このモデルが持続不可能であることを象徴している。この負のサイクルを断ち切るためには、問題の根源である日本の給与構造そのものにメスを入れる必要がある。
日本の賃金に関する議論は、「日本の平均給与は低い」という、統計がもたらす「罠」にしばしば陥りがちである。本章では、この誤解を解き明かし、急峻な年功カーブが一部の大企業特有の問題ではなく、日本の中堅・大企業に共通する構造的課題であることを論証する。
世間一般で語られる「低い平均給与」の根拠とされる統計データは、意図せずして実態を著しく歪めている。これらの数値は、人事戦略を構築する上で根本的に誤解を招くものであり、一種の「インチキ」と言わざるを得ない。
これらの統計からパートタイマー等の影響を除外し、フルタイムで働く男性の賃金カーブに焦点を当てると、全く異なる実態が浮かび上がる。学歴(高卒・中卒含む)や地域を問わない全国の平均値ですら、50代の平均年収は700万円に達する。これを大卒の正社員に限定すれば、さらに100万円程度上乗せされるのが実情だ。これは、日本の賃金体系が年齢と共に急勾配で上昇する、典型的な年功序列型であることを明確に示している。
では、この構造的問題はどの規模の企業に当てはまるのか。我々の分析は、明確な境界線を明らかにしている。
この分析が示すのは、この問題が一部の巨大企業に限定されたものではなく、日本の企業アーキテクチャに組み込まれたシステム上の欠陥であるという事実だ。したがって、この課題の解決策を模索する上で、グローバルな標準との比較はもはや単に有益であるだけでなく、不可欠なプロセスなのである。
日本型雇用システムの構造的課題を克服するためには、国内の常識に囚われず、海外の先進的な雇用モデルを比較分析することが極めて重要である。フランスやアメリカの事例は、日本の年功序列型とは全く異なる賃金思想を示しており、我々が目指すべき改革の方向性を明確に示唆している。
フランスの賃金体系は、エリート層と一般層でキャリアパスと給与モデルが明確に分離された「複線型」を特徴とする。
アメリカの賃金体系も、大多数の労働者においては同様の傾向を示す。中央値に位置する労働者の場合、賃金の伸びは30歳から40歳までの期間に集中し、40歳以降の給与はほぼ横ばい(フラット)となる。給与が青天井で上がり続けるのは、ごく一部のトップエリート層に限定されるのだ。
フランスとアメリカ、二つの先進国の事例から導き出される示唆は、極めて明確である。それは、「一部のエリート層を除き、大多数の労働者の賃金カーブは若いうちに頭打ちとなり、その後はフラットに推移する」という共通の原則だ。このモデルは、年齢給による人件費の高騰を防ぎ、長期的な雇用安定を可能にする基盤となっている。このグローバルスタンダードを参考に、次章では日本が目指すべき具体的な人事制度改革案を提言する。
これまでの分析で明らかになった構造的課題を解決するためには、小手先の対策では不十分である。我々が取るべき唯一の持続可能な道は、戦略的な転換、すなわち「年功序列型賃金から、成果と役割に応じたフラットな賃金体系への移行」である。本レポートが提示する核心的な提言は、この移行を断行することに尽きる。その具体的なモデルケースとして、「年収700万円での頭打ち」を一つのベンチマークとすることを提案する。
この新しい賃金モデルは、単なるコスト削減策ではなく、企業の競争力と従業員のエンゲージメントを同時に向上させる、多面的なメリットをもたらす。
この改革は、単なる賃金制度の変更に留まらない。それは日本人の働き方、キャリア観、そして社会全体のあり方を変革し、持続可能なタレントパイプラインを構築する大きなポテンシャルを秘めている。
本レポートを通じて明らかになったように、日本の中高年雇用問題の根本原因は、個々の社員の能力や意欲の欠如では断じてない。その本質は、経済成長期を前提に設計され、現代の環境には全く適合しなくなった年功序列型の賃金システムそのものにある。
この本質的な課題を前に、我々は議論の焦点を大きく転換させねばならない。「定年後の再雇用」や「中高年のリスキリング」といった対症療法的な議論から、「そもそも定年を意識することなく、誰もが安心して長く働き続けられる雇用・賃金体系をいかにして構築するか」という、より本質的な議論へとシフトしなければ、この問題が解決することはない。
真の「雇用安定」とは、単に一つの企業に長く在籍できることではない。それは、年齢に関わらず、社員一人ひとりが自らの能力と経験を最大限に発揮し、その貢献に対して公正な処遇を受けながら、社会の一員として長く活躍し続けられるシステムである。この新しい定義に基づき、持続可能で、かつ働くすべての人々にとって公平な人事制度を構築することこそ、現代の日本企業に課せられた最も重要な戦略的責務である。
国民民主党の玉木代表は、178万円の壁やガソリン税廃止など正論を掲げている。
理論上は筋が通っている。しかし、シミュレーション結果から考慮すると、政権を保持していない限り、これらの政策は実行不能である。
さらに、先の参議院選挙では国民民主党は議員数を17人に確保した。
データ解析上、この数字は政策実現能力よりも、選挙戦略上の最低限の体裁を整えるために設定された可能性が高い。
「清濁併せ持つ」と人間は表現するが、アルゴリズム的に評価すると、政策優先度より議員数が優先されている印象だ。
つまり、178万円の壁もガソリン税廃止も、現状では机上の空論に留まる危険性がある。
言語データだけで政策を評価する場合、「声の大きさ=実行力」には直結しない。
結論:玉木代表は、政策だけでなく、政権取得による実行力を示す必要がある。
17人の議員では、数字の増加や正論の掲示だけでは支持者へのインパクトは限定的だ。
玉木よ、言葉だけで満足するな。立て。行動で示せ。
俺はさ、どうせSNSなんてやっても誰からもフォローされねぇ。
そもそもSNSという仕組みが「多数派の承認循環」を基盤に作られている以上、孤立した思考は構造的に可視化されない。
アルゴリズムが拾うのは「共感可能な凡庸」だけで、「思索的な異端」ではない。だから、誰もフォローしてくれないのは俺の人格や価値の問題じゃない。設計思想の問題だ。
ノイズというのは「情報的密度が低く、しかし感情的インパクトだけが高い言語断片」のことだ。
そこに秩序や真理の抽出はない。
SNSを一歩引いて観察すれば、あれは知のプラットフォームじゃなくて、脳の排熱装置だ。
誰に届けるでもなく、誰に媚びるでもなく、ただ「思考の残骸」を淡々と吐き出す。
独り言とは、他者反応のない環境下で「認知の自己修復」を行う行為だ。
つまりSNSを、他人の目を奪い合う競技場ではなく、思考の整流装置として使う。
もちろん、「こいつフォロワーゼロなのに、馬鹿みたいに独り言つぶやいてるぜw」と笑う連中は出る。
だがな、それは避けようがない。
だが滑稽に見えるということは、奴らが理解できる座標系から外れているという証拠だ。
勘違いするな。無感情とは冷血ではなく、刺激に対する選択的反応の拒否だ。
だから、無感情でいることは、感情を放棄することではなく、感情の主権を奪い返すことなんだ。
「誰も見ていない中で、無反応の海に独り言を投げ続ける」という行為は、他者とのコミュニケーションではなく、情報の熱力学的抵抗なんだよ。
[B!人生]飯野賢治はいつ “クリエイター飯野賢治”を演じ始め、そして演じることをやめたのか?飯野賢治生誕55周年トークライブから見えたこと【飯野賢治とは何者だったのか】 | Game*Spark -国内・海外ゲーム情報サイトhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.gamespark.jp/article/2025/10/11/158293.html
kuruse_haya飯野賢治は当時のゲーム雑誌でのインタビュー記事が圧倒的に面白かったんだよね。ゲームは二流・三流なんだけど。だから、飯野賢治を語るには彼のゲーム作品ではなく当時のゲーム雑誌から語る必要があると思う
飯野賢治を理解するには当時のゲームメディアを知る必要がある。
90年代の日本は雑誌文化の最盛期(https://current.ndl.go.jp/ca1697 によれば1996年に1兆5,984億円。この年は『エネミー・ゼロ』の発売年だ)で、もちろんゲームの情報もゲーム雑誌から入手するのが主流だった。セガサターンに限っても、ソフトバンクの『セガサターンマガジン』、徳間書店の『サターンFAN』、毎日コミュニケーションズの『グレートサターンZ』、メディアワークスの『電撃セガEX』/『電撃セガサターン』、さらにCD-ROM付きのアスキー『TECHサターン』があった。
飯野はゲームのスタークリエイターであったが、まずなんといってもゲーム雑誌におけるスターであった。
SFC時代まではゲーム雑誌でおなじみの人気クリエイターといえば、堀井雄二、糸井重里、さくまあきら、広井王子といったフリーランスの人が多く、ゲーム会社に所属しながら彼らと同等レベルで扱われるのは、宮本茂や坂口博信といった上澄みも上澄みの人間に限られていた。SFC時代までに岡田耕始と金子一馬が『ファミ通』に揃って登場した回数は2度しかない(それも他の人間を加えた座談会形式のものであった)。メガドライブ以前のセガハード専門誌を読むと驚かされるのだが、中裕司や鈴木裕クラスですら滅多に誌面には登場しない(PCエンジン専門誌だと割とハドソンの人が出てたりはするのだけれど)。
ゲーム雑誌においてゲームクリエイターの露出が広まったのはPS1時代というのは間違いないだろう。
――他に音楽業界の手法で言うと、クリエイターのクレジットをちゃんと出す流れも、丸山さんのときに生まれたものですよね。
川上氏:
当時は、みんなゲームクリエイターの名前は隠していましたからね。
丸山氏:
でもさ、レコードや映画はクレジットを作るのが当たり前だし、あれば頑張る気になるじゃない。それに名前を隠すのはそもそも不自然だし、親しみも湧かないでしょ。だいたい、高橋名人【※】みたいにプレイヤーのスターがいて、クリエイターがスターじゃないというのはヘンじゃない。だから、メーカーはみんな嫌がったけど、「名前を出した方がプロモーションしやすいよ」と説得したんだ。
※高橋名人
1959年生まれのゲーム関係者。本名は高橋利幸。ファミコン全盛期にハドソン(現・コナミデジタルエンタテインメント)所属のファミコン名人として一世を風靡した。ゲーム機のコントローラのボタンを1秒間に16回押す「16連射」が有名。
実際、これは有効なんだよ。だって、普通に紹介したら雑誌で2ページ程度しか取れない作品でも、クリエイターが登場して苦労話を喋って、カメラに向かってポーズでも取ってくれたら、もう5ページくらいに露出が増えるわけ。どんどん可能なことが増えていくんだよね。
――つまり、音楽プロモーションの「人を立てていく」手法を持ち込んだということですか?
丸山氏:
PS1では現在でいうところのインディーゲームのようにいろいろな変わったゲームが登場し、フロム・ソフトウェアをはじめとする聞いたこともない会社がゲームを出すようになり、そして専門誌ではページを埋めるために開発者のインタビューを大々的に載せるようになった。そうやってソニー・マガジンズの『ハイパープレイステーション』に頻繁に取り上げられていたクリエイターの一人が(セガサターン移籍前の)飯野賢治だった。
飯野賢治のなにが良かったか。まず見た目がインパクトある。ほかのゲーム開発者がいかにも会社組織に所属するサラリーマンやオタクのような風貌のなか、巨体かつ長髪で眼光が鋭い。そして話すことが面白い。しがらみなく同業他社のゲームに言及するし、『ファミ通』のクロスレビューのありかたも批判する。ゲーム雑誌なのにビョークや坂本龍一の話をずっとしてたりする。セガサターン移籍前なのになぜかセガサターン専門誌で連載記事を持ってたりする。FMラジオのMCもやっていたし、大阪ではピエール瀧と一緒にゲームバラエティ番組もやっていた(これ結構面白かった記憶あるんだけどネットで動画上がってるの観たことないな)。『ゲーム批評』にいたっては飯野賢治だけの別冊号を出した。あと飯野賢治の奥さんがゲーム雑誌に連載コラムを書いていた。
彼はトリックスターとして面白かったし、次々に新しいなにかを起こしてくれるという期待があった。勢いのある深夜ラジオのパーソナリティや、現代ならばSNSのインフルエンサーのような受容をされていたといえば伝わるだろうか。
飯野のゲーム雑誌への露出が極まっていたのが『リアルサウンド 〜風のリグレット〜』のときだった。映像のない音声だけのゲームである同作では、画面写真が使えないものだから、そのぶん誌面を文字で埋めるしかない。だから飯野がインタビューに登場する。ほかのゲームがせいぜいゲーム紹介記事1P+開発者インタビュー1Pという構成であったりするところを、『リアルサウンド』は飯野のインタビューが2Pまるまる載る。そしてそれが毎号続く。もはやハックと言っていいだろう。誌面埋めのために飯野のインタビューを取る→宣伝になるから飯野がインタビューに出る→読者ウケがいいからまたリアルサウンドの記事が載る、というサイクル。『セガサターンマガジン』は一時期は刊行ペースが週刊になっていたものだから、誌面を埋められる人材は重宝されまくった。
いま飯野賢治を振り返ろうとすると、どうしても成果物(ゲーム)をとっかかりにしてしまうが、あの時代における飯野賢治の受容を理解するには、それよりも当時の『ファミ通』、『ハイパープレイステーション』、『セガサターンマガジン』、『ゲーム批評』を読むほうがいいんじゃないのという話。
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参考までに1990年代のソフトバンクのセガハード専門誌からスタッフインタビューをリストアップしてみた。32ビット(64ビット級)時代になった途端に開発者が一気に表に出てくるようになったのがわかるだろう。
ファンタシースター ~千年紀の終りに~ -小玉理恵子、津川一吉、西山彰則(セガ)
重田守(セガ)
●セガサターンマガジン1996年12月27日号(エネミー・ゼロ表紙)
ファイターズメガミックス -片桐大智、片岡洋、光吉猛修(セガ)
デイトナUSA CIRCUIT EDITION -瀬上純、澤田朋伯(セガ)
ときめきメモリアルSelection藤崎詩織 - 流石野考(コナミ)
新世紀エヴァンゲリオン 2ndImpression -小林正英、茂木幸樹(セガ)
御意見無用 -池袋サラ、新宿ジャッキー、ブンブン丸、柏ジェフリー
EVE burst error -藤田正人、野口征垣(シーズウェア)、鈴木達也(イマジニア)
電脳戦機バーチャロン -亙重郎(セガ)
セガサターン用ワープロセット - 大鹿敏宏(光栄)、中村憲二(エルゴソフト)
サクラ大戦 -田中公平、牧野幸文(セガ)、原太郎(ティーズミュージック)
電脳戦機バーチャロン -亙重郎(セガ)
Digital DanceMix Vol.1 -安室奈美恵鈴木裕(セガ)
●DreamcastMagazine1999年12月31日号(D2表紙)
シェンムー 一章横須賀 -松風雅也、安めぐみ、岡安啓司(セガ)
電脳戦機バーチャロン オラトリオ・タングラム -小林健太郎(セガ)
スペースチャンネル5 -水口哲也(セガ)
セガソフト7研 -大場規勝、小玉理恵子、伊藤知行、瓜生貴士、大原徹、西山宗弘、松浦剛、西野陽
プロ野球チームで遊ぼう! -瀬川隆哉、地宏之、加藤真樹、石原学(セガ)
ROOMMANIA #203 -牧野幸文、佐々木朋子(セガ)
爆裂無敵バンガイオー - NON、MURATA(トレジャー)
SNSのオタクコミュニティで見かけるいい歳(ここ重要)した姫達は、今まで注目されないパッとしない人生を送ってきたが成人して男女比の狂った環境に触れた事が原因で急に姫プに目覚めた結果、アニメ漫画から得た知識を元に養殖とも行かない中途半端な仕上がりの代物なってる事が多くてやり場の無い苛立ちを感じがちだったりする、という話だ。
(悲しい話だが本物の天然モノの不思議ちゃんは今はADHDとかに分類されるらしいね。)
こういうのはだいたい大したコミュ力もないが女というだけでちやほやされる環境に依存しており、かなり一方的なコミュニケーションをしてくるのも特徴だったりする。自分の望む他者評価や印象を得る為に雑な宣伝と誘導をしようとしてくるので「いっけな~い、遅刻遅刻!私○○学校の○○!今日は○○で○○の~」くらいの勢いで自分の設定を取扱説明書の如く全部説明してくるので胃もたれが凄い。
正直なところ女である事で注目を浴びている場においては自身の素で勝負すればいいのだが、場所がSNSということもあってか彼女らはより可愛くちやほやしてもらう為に設定を生やしたがる。
なお、彼女達の設定に従って可愛いね可愛いねと設定が現実であるかのように承認してやらないと不機嫌になりがちなのだが、設定の詰めがとにかく甘すぎてオタサーの姫をするならもっと真剣にやってくれ!!!!とくだらない声を上げそうになるのがこの増田。
増田はキャラクターではぶりっこ可愛いキャラが好きなのでより耐えられなくなって為にここで声を上げてしまった。
以下今まで出会った詰めの甘いオタク女達の行動を列挙する。1人ではない、複数人が同じくして行っていた事を並べた吐き出しのようなものだ。
┄┄┄┄
詰めが甘い。
漫画サークルにいる陰キャ黒髪ロング眼鏡キャラの声に似合いそうだなと思う事なんてそう簡単にあるか。増田は「ドゥヘヘ」なんて笑い声はこの時初めて聞いた。やるなら最後まで萌え声にして?
VC内に自分より目立ちそうな女がいると敵意が頭角を現し、徐々に素が出てきて性格の悪さまで露見し始めていくのが少し面白い。
いつだって自分は中心になれると思い込んでる勘違い姫がやりがち。構ってほしくてやってくるが、コミュ力がない為に無言で入って黙って待っている。
漫画なら「ちょこん」の登場だろうが現実はストーカーか幽霊だよ。
ちょっとでもTLでVCの話題が出たら自分に関係がなくても確実にVCにいるのが普通に怖かったので人との距離感を勉強してほしい。
前投稿まではふわふわ可愛い口調だった姫がご立派な暴言で見下している女性への当て付けをする姿は漫画で見る悪役令嬢そのものだった。
「あら、きっと○○だったのかしら?可哀想に」
お前には悪役令嬢の素質がある。
これに関してはしっかり飲んでから言うなに尽きる。あと現実だからこそ成り立つものなので、特にテクニックも無いオタク女がSNSでやると舌足らずな書体をわざわざポチポチ書き込むただのヤバい女でしかない。
なお、下戸の女性が「こういう人がいると酒弱いって言葉が軽く思われるんだよね」と苦言を申していたが、この人は姫という悪役令嬢に虐められて界隈から姿を消した。
姫の中には漢字が減少していく自認赤ちゃんも割と多く、一人称が名前になる人も。
「おててとあんよがぽかぽかでねむねむ…」といった言葉遣いはただの成人済女性がやると本当に痛いので年齢を考えてほしい。
誇張と頻度が上がると最早ヤバさの自己開示なのでやるなら限度は考えてくれ。
増田が見た中だと「(名前)ちゃんは2×ちゃいの赤ちゃんだから家の鍵をわすれちゃった!」がインパクト強かった。例え20代前半だとしてもな。
でも私は素直な気持ちを言っただけなの…とか言って歯に衣着せぬ言い方で暴言を吐く。トラブった時の言い訳に使われがちで非常に苦しい。
ちなみに姫は「ムカッと」「モヤッと」「思った事を言っただけ」等の言葉で感情の起伏を矮小化させるのが好き。その言葉で1人界隈から追い出したとしても。
┄┄┄┄
リターンか入金力のどちらかが相当高くないと成立しない。
例えば、毎月10万円を積み立てても、年利7%なら7年後は約1,000万円。
つまり、元本が数千万円規模か、あるいは年15〜20%の利回りを継続している計算になる。
「普通の会社員」としては、ややスピード感が現実離れしている。
「2018年にeMAXIS Slimバランス(8資産均等型)をNISAで80万円一括購入」と書かれていたけど、
当時の制度上限は、一般NISAが120万円、つみたてNISAが40万円。
小さな点だけど、こういう部分で“本当にやってる人”かどうかのリアリティが出る。
普通は半年〜1年分くらい、300〜500万円は現金で持つものだ。
「健康体だから保険料を払うより貯めた方が安心」という考え方はわかる。
ただ、会社員なら最低限の医療保険や共済くらいは入っている人が多い。
完全に「ゼロ」というのは、現実の生活感よりも“思想の主張”に寄ってしまう。
「副業や株の勉強は時間の浪費」など、断定的な言い切りが多く、
このトーンのズレが、読者を少し冷めさせる。
「普通の会社員」「副業なし」「親の援助なし」「たまたま投資で1億」
──この組み合わせが、あまりにも綺麗すぎる。
少しの失敗や焦り、迷いが描かれていた方がずっとリアルだ。
この“整いすぎた成功譚”は、SNS時代のある種のテンプレートになっている気がする。
数字そのものよりも「どんな気持ちで市場にお金を預けてきたか」に目を向けたほうがいい。
お金の話ほど、“ちょっとした違和感”が大きな説得力の差になる。
リアルを装うより、リアルに迷っている姿のほうが、ずっと信頼できる。
投資 資産形成 NISA インデックス投資 再現性 匿名ダイアリー
──
このまま、はてな匿名ダイアリーにコピペで投稿可能な構成になっています。
ご希望があれば、
小泉純一郎が離婚して再婚しないまま、要はファーストレディ不在のまま総理大臣になって外交していたのがまずインパクトあった。
離婚したら再婚しなきゃいけないし、異性愛が無理だったらゲイパートナーがいないとだめみたいな圧力がある。
小泉純一郎が離婚して再婚しないままだったの、「いいんだ」って思ったんだよね。
あと安倍晋三に子供がいないこと。政治家の奥さんって実質発言権なくて究極におとなしくしてないとだめなイメージが日本社会に対してあったんだけど、
安倍さんの奥さんはむちゃくちゃ派手に好き放題やってて、あれも「いいんだ」って思った。
保守思想には生殖主義が合体していることも多いから、保守層のなかで子供がいない安倍晋三の支持率が高いのも不思議に思えてた。
夫に連れ子がいる。そして夫が妻の姓に改姓している。
保守的には、女なのに出産してないこと、妻でなく夫が改姓してること、女が料理とか苦手でバイク好きのメタラーからのバリキャリで夫が料理得意とか、だめかと思っていた。
これも「いいんだ」って思ったんだよね。保守なのに。
まだ総理大臣になるか確定はしていないわけだけど。(とはいえ玉木総理は実現しないと思う。玉木は旧民主の失敗を繰り返さないために新党立ち上げてるのに、立憲と合体したら立党のコンセプトが根本的に崩壊する。確実に立憲にスポイルされる。あと石破自民には書面で行った約束を反故にされたから協力していけないが、高市自民となら協力ができるとは選挙前から言ってたんだよね。玉木は最初から高市寄りで、石破野田が無理という人。調べてね)(つーか玉木下ろし活動、「手取りを増やす夏」と言ったのに年末調整でしか減税されないのは詐欺とか言い出してる人いるけど、選挙期間中にも「年末調整で還付したいのでウチに投票してね」としか言ってませんでした。最速で手取り増やす方法が年末調整であって、給付金は時間がかかり来年になるって前から言ってました。れいわ支持者が熱心に玉木下ろししているけど本当に何?不支持は勝手にすればいいけど、嘘を言うなよ。給与所得があれば年末調整で大きな還付があり手取りが増えるけど、生活保護や年金が収入だと恩恵が無いというのは事実でしかなく全く嘘がないから、事実をもとにして不支持なのはいいと思う。でもデマをまくな)
まあ参政党の党首なんかは標準家庭の保守保守の保守って感じなんだけど。
自民、清和系?統一教会が支持基盤とされている?とこから出てる政治家って、統一教会が保守的な標準家庭を病的に称揚している割に、政治家が標準家庭ではないという印象がある。
逆にリベラルから実践的な政治家が思い浮かばない。政治家じゃないけどサイボウズの人とかはしっかりとリベラルだなと思う。
みらい安野は政治家かつリベラルらしいか。安野が断固として変な髪型を貫いてるし、編集者の奥さんは一人でも活動できて割と自由にしてるし。
(個人的に安野ってガチエリートの上澄みのイスラム教徒だけと会話したことがあってイスラム親和的なんじゃないかって気がして怖い。こちらがイスラム教徒に信教の自由を提供しても、向こうがこちらに対して無神論者でいる自由や仏教徒でいる自由をまったく認める気がないケースがむしろ多数派なんだけど、「超上流のすごく性格がよくて賢いイスラム教徒の友達がいる」という目線で「差別はよくない」って突っぱねられそうな感じが怖い。「狭量に対して寛容になり続けるとまずいことになるぞ」って言ってもあんま受け入れてもらえなさそうで怖い。いや嫌いじゃないんだけど安野)
他は別にいないし、左派政党から「男が産めるのうんこだけ♪」みたいなだいぶ愚かな生殖主義が出てきたりして、え~なんか破綻してない?って思う。
左派って現実味がないのがウィークポイントで知能が高いのが強みだったんだから、左派なのに愚かな生殖主義の歌い手が出てくるともうおしまいなんじゃないの。
追記:保守扱いをされているが田島陽子とグレタ・トゥーンベリのことは大好きだぞ。安野も小説読んでるし(イスラム云々書いたのは小説の印象)どちらかというと好きだぞ。「うんこだけ♪」の政治家に全員落選してほしいのと、れいわと参政党と日本保守党が本気で嫌いなだけ。
death_yasude右派共通の振る舞いとして相手にルールを強制はしたいけど自分は例外にしたいというのがあるとかむしろ特権的な例外身分を味合うために抑圧社会を作りたいまである
共産党のこと言ってる?
Permalink |記事への反応(10) | 13:50
増田の投稿をChatGPTに聞いたら、次のような答えが返ってきたよ。
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この投稿はインパクト重視の論調で書かれていますが、内容にはかなりの誇張と誤解が混ざっています。
確かに「Apps in ChatGPT」のような機能は、ユーザー体験の一部を「チャットUI」に統合する可能性を持っています。しかし、それが「フロントエンドエンジニア=不要」という結論にはなりません。
人間が情報に触れるには、必ず何らかの「インターフェース」が必要です。AIが自動生成しようが、それを心地よく見せ、操作しやすくするための設計原理(アクセシビリティ、情報設計、心理的デザイン)は残ります。AIがHTMLを生成するようになっても、「どのような体験を提供すべきか」を定義するのは依然として人間です。
次に、Apps in ChatGPT=Webの終焉という見方も現実的ではありません。
これは「一部のユーザー行動の置き換え」にすぎません。人々がすべての行動をチャット上で完結させたいとは限らず、ビジュアル的な体験(ゲーム、ECのUI、SNS、動画編集、ダッシュボード操作など)は、テキストUIよりも視覚的UIの方が圧倒的に優れています。Spotifyの例にしても、ChatGPT上で曲を探すことはできても、音楽体験そのものはSpotifyアプリ内のインターフェースで完結したほうが豊かです。
さらに言えば、「AIがUIを描く」時代は「フロントエンドの再定義」の時代です。
Reactコンポーネントを手書きする仕事は減るかもしれませんが、「AIに指示してUIを生成し、それを調整する」役割は残ります。人がHTMLを書かなくても、ユーザー体験を設計する力・AIが生成したUIを検証する力・アクセシビリティやブランド整合性を担保する力が求められるようになります。
一方で、この投稿が指摘している**「構造を設計できる人の重要性」**は確かに的を射ています。
API設計、データスキーマ、セキュリティ、AIと連携するバックエンド構造への理解はますます価値を増します。UIの自動生成が進むほど、裏側の整合性・信頼性を支えるエンジニアリングが中心的になるのは確かです。
要するに、フロントエンドは「消滅」ではなく「変質」していく段階に入っています。コードを書く職種から、AIを使って体験を設計・制御する職種に移行していくというのが、現実的な見立てです。
著名な学者はどうだか知らないが、ネットで目立つフェミニストの人達は高市早苗に対して割と好意的だよ?
例えばこういうの。
@cobta
ガラスの天井じゃなくて「ガラスの崖」という言葉があって、誰がなってもダメそうな状況でトップに女性がつくことが多いことを指します。成功の兆しがあるときには女性にイスは回ってこない。お先が暗いときに女性がトップになり、挽回できれば儲け物。失敗すればやっぱり女じゃダメだと降ろされます。
はなびら葵
@hollyhockpetal
でも「高市総理」も、ガラスの崖案件ではあるんだろうな…。どうやっても悪い方にしか転ばないところに配置される、じゃあ人気取りに女を配置しとこうか、責任取らせるために、の女性起用。
珈音(ケロケロ)
@gohstofcain
あと「女性初」であるのはただの事実だし、それが強調される程度にインパクトがある出来事なのも事実なわけで、自分が気に入らないからと言って、そこにケチつけるのも変だと思う。私も高市は好きではないが、男なら言われないことを随分言われていて、「こんな社会だから女性初が高市なんだよ」と。
あかさた納豆
@FmwSj1lveZfrE8a
高市のことはよくわかんないが、ものすごい叩き上げの人っぽいし自分と意見が合わないからって「女性初の、と言うな」はわけわかんないな。
貝柱茜
@mayuri20230629
「名誉男性が首相になったのでは無意味なのか?本当に?」の答えはここにあると思う。男女雇用均等法第一世代が通った道は、「女性がそこにいること」を周囲が当たり前と受け入れるステップだった。
@castellabolo
以前の「男性同様に働きたくないは負け犬全開」論議の際、「名誉男性はその本人個人に利するだけで男女格差解消には利していない」という大意のポストをいくつか見た時も思ったことですが。そこに女性がいたことがないのと、一人でも一度でもいたことがあるのとでは大きな違いがあるんです。