
はてなキーワード:アニメ作品とは
かつてANIPLEXだったかどこか大手アニメ制作会社が「アニメ作品は8割は赤字、残りの2割がその赤字を埋めている」と語っていた。ではなぜそんな赤字アニメを量産するのかというと「ヒットを打つためには打席に立つ数が多いほどいい」「アニメがいっぱい放送されていることがアニメブームを作る」「人員の確保のためにも本数は減らせない」的な理由であると述べていた。気がする。
的場浩司、小沢和義、本宮泰風、山口祥行といった「いつもの面子」に薄い薄い脚本。
「とにかくなんでもいいから1本撮らなきゃいけない」理由があったんだろう。
的場浩司はかつては仕事一徹の刑事だったが家庭をおざなりにし、妻がシャブにハマってしまいそれを叱責した結果妻は自殺。ヤケになってしまって今では一匹狼の不良マル暴に。
冒頭のシーン。ヤクザの賭場の真ん中に座る的場浩司は鋭い目つきで壺振りを睨みつけ「見」を保ちなかなか賭けない。
何かに気づいた様子で有り金を全て賭ける的場。しかし結果は無残に外れ。賭け金の没収を拒み押し問答の結果ヤクザを殴り大暴れして外した掛け金を持ってそのまま帰宅する的場。
これ何の話?
川辺で掛け金を見せびらかしているとヤンチャ大学生に「お兄さん大金持ってるね!貸してよ!」と絡まれるも彼らをボコボコに殴り倒れた彼らを延々と踏み続ける的場。
これ何の話?
ヤケっぱちになってるっていうかこれじゃただのキチ◯イだよ!男の悲哀とかじゃなくて純粋ヤベー奴だよ!
最終的に味方になるヤクザも、表稼業としてボクシングジムをやってるって設定なんだけど、この映画2015年の映画なのね。2008年には暴対法が超絶改正されてるからヤクザはボクシング無理じゃない?というのはまぁ置いておくとして。
捜査(暴行暴行&暴行)の過程でボクシングジムに乗り込む的場。ジムのリーダー格の男に「バッジがなきゃ喧嘩もできないか」と煽られリングに上がる。「蹴りでも投げでも何でもやればいい。俺はこのグローブだけで戦う」と的場を煽るヤクザ。
ヤクザ優勢の一方的な展開になるも組み付いた的場がヤクザをぶん投げ、マウントをとり首を絞める。ワラワラとリングに上がり的場を袋叩きにするヤクザーズ。何でもやればいいって言ったのはお前らの頭なんですがそれは……
これ何の話?
その他にも敵対ヤクザは正義のヤクザのジムに乗り込んで大勝利後に自分たちの悪事もバックについてる警官の名前もペラペラペラペラ喋って「これは勝手に聞かせといて聞いてしまったからには!と、皆殺しにされてしまうんやろな……」と思ってたらそのまま撤収。その情報を元に大復讐されることになる。
これ何の話?
その部下に街中でデート中に堂々と射殺されて終了。
これ何の話?
とにかく何も考えたくなくて別に何も見たくないけど音流れてない生活は虚しいなと思って適当に流してみたんだけど、脚本がバカすぎて逆に「これ何の話?」と考えさせられてしまった。
たぶん撮ってる人も撮られてる人も「これ何の話?」と思いながらやっていたんだろう。
機動戦士Zガンダムという作品の最大の功績はカミーユ・ビダンというジョブナイルを代表するとも言える繊細で、
かつて思春期を生きた人たちの痛々しい共感を刺激する、あの富野由悠季が生み出したなかでも屈指の傑作キャラクターの創作にある。
この人物造形の成功は、単なるキャラクター設計の巧みさを超え、
アニメーション作品におけるリアリズムの概念を根底から変革した歴史的偉業として評価されるべきである。
富野は従来のロボットアニメが依拠していた「勧善懲悪」の物語構造を意図的に破綻させ、
善悪の境界が曖昧な世界で苦悩する思春期の少年を主人公に据えることで、
カミーユというキャラクターの革新性は、その精神的脆弱性と感受性の異常な鋭さが、
決してロマンティックに美化されることなく、むしろ病的な危うさとして一貫して描かれている点にある。
従来のアニメが扱ってこなかった思春期特有の心理的現実を容赦なく暴き出している。
キャラクターは画面に映らない時間も生き続ける存在として構想される。
それこそが現実の人間の内面における感情の非連続性を映像作品として表現する試みであった。
彼の精神的不安定さと表裏一体のものとして設定されていることである。
彼の鋭敏すぎる感受性は戦闘において卓越した能力を発揮する一方で、
フォウ・ムラサメやロザミア・バダムといった強化人間との悲劇的な邂逅を通じて、
これは、超能力を単純に肯定的な「進化」として描く従来のSF作品への痛烈な批判的視点を提示している。
富野の文学的野心は、カミーユの最終的な精神崩壊という結末において頂点に達する。
後のアニメ作品における「鬱系」ナラティブの原型を提示したと評価できる。
単なる個人的な悩みを超えて、性別アイデンティティの揺らぎという普遍的テーマを暗示している点である。
富野は意識的に「女性性を内包した男性主人公」としてカミーユを設計することで、
この試みは、後の1990年代以降のアニメ作品における「中性的主人公」の先駆的事例として位置づけられる。
カミーユ・ビダンという一人のキャラクターの内面描写を通じて、
商業的エンターテインメントの枠組み内で表現し得たことにある。
同時に深刻な文学的主題に挑戦する作家としての側面を明確に提示した。
カミーユ・ビダンというキャラクターは、単なるフィクショナルな人物を超えて、
1980年代という時代の若者が抱える実存的不安の象徴として機能している。
彼の痛々しいまでの繊細さと、それが招く破滅的結末は、
高度成長期の終焉とバブル経済への移行期という歴史的文脈において、
将来への不安を抱える当時の若者たちの心理状況を鮮やかに反映している。
「心理的リアリズム」という新たな表現領域を開拓した記念碑的業績として位置づけられるべきである。
娯楽性と芸術性を両立させながら、
超面白かったんだけど、もっと原作無視して映画映画してくれてよかった気がする。
というのも、キメのシーンで時折「これ原作の絵を再現してんだな」ってカットが出てくるんだけど、そこが浮いてしまってる。急にそこだけ二次元になってしまうというか(アニメ作品に対して荒唐無稽なかと言ってるのはわかってる)。
俺は、映像としての、映画としてのチェンソーマンが観たかった。三次元世界に生きてるデンジとレゼをフイルムに撮ったような作品が観たかった。
観てないんだけど、多分総集編じゃ無い方のアニメ版は、それを目指してたんだろうな。
少数派なのはわかってる。『グラスリップ』を駄作と言い張る方が多数派な世の中の評価なんてクソ喰らえだ。
Permalink |記事への反応(10) | 23:11
| https://b.hatena.ne.jp/entry/4708102011979275362/comment/rag_en で述べた通り。/なんだろ…“フェミ”(ポリコレ)も中共(チャイコレ)もタリバン(イスコレ)も、「自由」に対する反動なんですかね。「すごい一体感を感じる(カバオAA」的な。 | / | 吉田恵里香氏のアレは割と重めの不祥事だとは思うが、こういうのはきちんと「市場主義」的になされるべき。近似の事柄だと、某宗教団体信者の漫画家とか、文春砲の類を食らった声優(に限らずだが)だとか、そのへん。 |
| 抗議の核は『女児を表象してるか』と『女児の胸を揺らす映像が適切か』だろ。そこはキッパリ反論すべきとこだと思うのだけど、全員『女児』の2文字が読めなくなったんかってくらい触れてないの怖えーよ。 | / | 「フェミ/オタクは以前〇〇したくせに」と事ある度に言及されてる奴、実際の賛同者は泡沫クラスタのみ、参戦者のほとんどは炎上に反応しただけというケースが多いのは認識しておくべき。 |
| 首相怒ってますよ。そうか、菅首相はフェミニストだったのか。トップブコメの言説がそのまま当てはまるな | / | 現時点で104人に笑ってしまう |
| フェミニストじゃなくてツイフェミだな。この記事の最後に関連のまとめ記事が列挙されてたけどその殆どがツイフェミによるもの。田嶋陽子のような男女間差別を無くせ!でなく女だけ優遇されろという発想だから無理。 | / | 発起人がペンネームなの気になる。 |
| これに抗議する一方で、日本のTVでもやる韓国の女性アイドルに怒らねえのはマジで分かんねえんだよな | / | キャンセルカルチャーはきもい、と思った今の気持ちを大事に持ち帰っておきましょうね もうやるなよ? |
| 毎度思うがフェミニスト団体ってめちゃくちゃ暇なんだろうな | / | フェミとやってること同じやんな。逆に言うとフェミがやってることってこれなんだよな。 |
| 中国ではBLが不良文化になったけど本邦ではフェミニストの方が近いのねhttps://news-tv--asahi-co-jp.cdn.ampproject.org/c/s/news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/amp/000228418.html | / | 過去事例だとドラマ「今日から俺は!!」での差し替えがあったんだなhttps://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/201902250000555_m.html あとは香川照之、小出恵介、新井浩文で担当変更などだけどあるのね/私は賛成しないが |
23:50追加
| 地方議員有志の集まりにすぎない団体を「公権力」と言っちゃうのはなんだかなあ・・・ | / | アニメは商業的に成功してるし、脚本家が公序良俗や社会正義にもとる言動をしたわけでもない。作品にビタ一文払わず外野でギャーギャーわめくお猿さんの言い分を聞く必要性は微塵もない。 |
| 全国フェミニスト議員連盟代表の増田薫さんのホームページには「放射能」の文字列が見えたような気が・・・https://www.masuda-kaoru.net/profile | / | オープンレターの賛同者が1300人、確か新井祥子さん応援change.orgで19000人くらい集めてたので、むしろキャンセルカルチャー界隈の異常さの方が際立つ数字といえるhttp://www.cml-office.org/apjinfo/openletterlist.html |
| 女性蔑視じゃないやろ。公的な立場での表現方法としてとしてどうなのかという問題。アホか(と言ってられない)。 | / | あほ |
| フェミニスト=タリバンという図式が完全に成立しちまったな…… | / | オープンレターやめろ |
| 「サムネ、くっそだせえVTuberだな!」と思ったら役所製で、こんなだせえモデルしか使えねえなら、普通にホロやにじさんじに依頼しろとしか思わなかった | / | 偏った思想の人たちが他人の思想を叩いてる面白現象 |
| 萌え疲れ | / | ギター愛好者の立場からなんだけど、若い人がギターを持つきっかけになったアニメ作品と認識していたが、少女の入浴シーンやパンチラシーンが魅力のポルノなんですかあのアニメ?だから黒のレスポ中古多いのか。残念 |
| 勘違いしてる人がほとんどだけど、こうした抗議も言論の自由だし、削除しないという判断もあっていい。法の範囲外に関する表象の自主規制はそれこそ自由に決めて良いのだ。 | / | 興味なかったから時間の無駄と思って無視してた話題。ちょっとだけ調べて「ク、クダラナイ、アホとちゃうか」と呟いた…。でも、これをきっかけにして、ぼっち・ざ・ろっくっていうアニメ見てみよう。 |
| 「女児の性的オブジェクト化」って部分は意図的に無視したコメント多い。「公権力を使って表現規制」って具体的に何したの?警察に拘束されたとか?質問状に答えて、本当に問題ないと思うなら継続すればいいのに。 | / | 「原作者への中傷行為」と勝手に代弁しておいて、それへの反対署名を原作者本人に送るの?「虎に翼」は、女性が弁護士資格すら取れなかった大正・昭和の物語なんだけど、急進的思想?現代日本が心配になってきた… |
| 質問状といいつつ当局の謝罪や動画の削除を求めたり偏見を助長すると決めつけたり悪質極まりない。質問の名を借りた直球の圧力だろ。 | / | なんじゃこの署名。何考えてんだ |
| ファシスト共の平常運転ですね。まともなフェミニストなんて物を想定しても無意味って言ったろう? | / | 良くない。思想をぶっ込んで原作を改編したと声高に主張する脚本家はいくらでも批判すべきだが、これではフェミニストと同じ穴の狢になる/気に食わない相手をキャンセルしまくってた左派共はこれを批判する資格無し |
意図が分からないという感想を貰いましたが、吉田氏のキャンセルを要求する署名ページのブックマークで
「表現の自由戦士」によるキャンセルだとして「表現の自由戦士」全体を批判するコメントが散見されたことを受け
Vtuberのキャンセルを批判する一方で吉田氏のキャンセルを支持するダブスタ的な人がどれだけいるのか?をチェックする意図でまとめました
(あるいは逆にVtuberのキャンセルをダブスタ的に支持する人は?の意図も多少あります)
比較対象として、議員連盟という権力の強い立場によるキャンセルを挙げたのは
「表現の自由戦士」に不利な条件でも吉田氏のキャンセルをダブスタ的に支持する人がほとんどいないなら「表現の自由戦士」全体を批判するのは無理があると考えたからです
usi4444 「公共機関である警察署が、女児を性的対象とするようなアニメキャラクターを採用することは絶対にあってはならない」←議連の主張。公的機関は無縁で私人間の合意が成されているぼっちアニメには関係ない話。女性差別表現の自由表現の自由戦士 幼稚 何度目?
nanaminoさん がスターを付けました。
「女児を性的対象とする」のような既に反論されている主張を「何度目?」とうわ言のように繰り返すのではなく、反論に対する再反論を試みた方が良いと思います
VTuberら、戸定梨香さん交通安全動画へ抗議の「フェミ議連」に謝罪要求―AlisCoop全配信協 - Adect(アデクト)
全国フェミニスト議員連盟による抗議状の超批判的検討|手嶋海嶺
Vチューバー動画削除の千葉県警 「戸定梨香」の性的要素否定し「不適切ではない」と明言|よろず〜ニュース
「"過激な危険思想" "表現規制・表現の検閲"はアニメにいらない」これを合言葉に、アニメを過激思想のプロパガンダメディアにさせないため一緒に頑張りましょう!
バカがよー!
「ぼっち・ざ・ろっく!」の脚本家である吉田恵里香さんに対する一部の批判の中で、「"思想持ち"はアニメにいらない」という言葉を見かけることがあります。
この言葉は、作品に脚本家の個人的な思想やメッセージが込められていることを否定し、純粋なエンターテインメントとしての消費を求めるものです。
しかし、この主張はアニメ制作の本質を全く理解していない、非常に浅い議論です。
これはまるで、「10階の展望台だけあればいい。2階から9階は要らない」と主張するようなもの。
一見すると効率的で魅力的な考え方のように思えますが、現実にはその構造を成り立たせるための土台やプロセスを完全に無視しています。
まず、物語に「思想」が宿ることはごく自然なことです。私たちが日々触れるあらゆる物語、小説、映画、ドラマ、そしてアニメには、必ず作者の意図や価値観、世界観が反映されています。それは、物語のテーマであったり、登場人物の行動原理であったり、物語全体を貫くメッセージであったりします。
例えば、「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品を考えてみましょう。この物語は、極度の人見知りである後藤ひとりが、バンド活動を通じて少しずつ成長していく姿を描いています。ここには、「自分を変えたい」「人とつながりたい」という普遍的な願いや、その過程で直面する葛藤、そしてそれを乗り越えることの尊さが描かれています。これらはまさに、脚本家が作品に込めた「思想」そのものです。
もし、この作品から「思想」を取り除いたらどうなるでしょうか?後藤ひとりがただひたすらギターを弾き、バンドメンバーと当たり障りのない会話を交わすだけの、中身のない物語になってしまうでしょう。彼女の成長や葛藤に私たちは共感できなくなり、物語を追う意味を見いだせなくなってしまいます。
吉田恵里香さんは、ご自身の脚本に込めた「思想」について、インタビューなどで語られることがあります。それに対して、「余計なことを話すな」「作品に私情を挟むな」という批判が見られます。
しかし、良い脚本家は、自分自身の内面から湧き出る感情や考えを、物語という形に昇華させることで、見る人の心を揺さぶる作品を生み出します。それは、まるでシェフが自身の料理哲学をスパイスとして料理に加えるようなものです。スパイスがない料理は、味が単調で深みがありません。それと同じように、脚本家の「思想」というスパイスがなければ、物語はただの薄い液体になってしまいます。
吉田さんの脚本が多くの人々の心を掴んだのは、彼女が自身の経験や内面と向き合い、それを「ぼっち・ざ・ろっく!」という物語に結実させたからです。主人公・後藤ひとりの繊細な心理描写、バンドメンバーとの温かい交流、そしてライブシーンの圧倒的な迫力。これらは、彼女の「思想」が物語全体に深く浸透しているからこそ、実現できたことなのです。
さらに言えば、「思想」を排除しようとする考え方は、アニメを単一的な価値観に閉じ込めてしまう危険性もはらんでいます。アニメに限らず、あらゆる文化は、異なる「思想」を持つ人々がそれぞれの表現をぶつけ合うことで発展してきました。
ある脚本家は社会的な問題を提起する物語を書き、別の脚本家はファンタジー世界で人間の心の奥底を描き、また別の脚本家は日常のささやかな幸せを大切にする物語を紡ぎます。それぞれの「思想」が、アニメという表現の幅を広げ、多様な作品群を生み出してきました。
もし、「"思想持ち"はアニメにいらない」という主張がまかり通ってしまったら、アニメは画一的なエンターテインメントに成り下がってしまうでしょう。それは、私たちの心を豊かにし、新しい視点を与えてくれるような、深みのある作品が失われることを意味します。
10階の展望台:私たちが最終的に目にする、感動的なアニメ作品そのもの。
2階から9階:脚本家の「思想」、監督の演出、アニメーターの作画、声優の演技、そしてそれらを支えるスタッフ全員の情熱と努力。
「10階の展望台だけあればいい」という主張は、私たちが目にする完成品だけを評価し、その裏にある膨大なプロセスと、そこに関わる人々の想いを無視しています。それはあまりにも傲慢で、非現実的な考え方です。
アニメは、一人の天才が魔法のように作り上げるものではありません。脚本家が紡ぎ出した物語を、監督が映像として具現化し、アニメーターが命を吹き込み、声優が魂を込めて演じます。この全てのプロセスに、それぞれのクリエイターの「思想」や「想い」が込められています。そして、その集合体が、私たちの心を揺さぶる「アニメ」という作品になるのです。
「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品が、多くの人に愛され、感動を与えたのは、脚本家である吉田恵里香さんをはじめとするクリエイターたちが、自身の「思想」や「想い」を作品に惜しみなく注ぎ込んだからです。
私たちは、作品をただ消費するだけでなく、その背景にあるクリエイターたちの努力や、込められたメッセージに思いを馳せることで、より深く、より豊かに作品を楽しむことができます。
「"思想持ち"はアニメにいらない」という言葉は、クリエイターへの敬意を欠き、アニメという文化を矮小化させる危険な考え方です。
私たちは、クリエイターたちが作品に込めた「思想」を正面から受け止め、時に共感し、時に議論しながら、アニメという素晴らしい文化を育てていくべきではないでしょうか。
クリエイターはいろいろあるが、「権利」が発生する業務は限られてる
アニメ作品ならアニメーターは実写作品で言えば「演技」に相当する部分を請け負っており、
実写作品の該当領域と同等の扱いを受けるならコナンや鬼滅並の大ヒット作のキャラデザ作監声優アニメーターにはハリウッド俳優並みのギャラや権利が与えられて然るべきとなるが、
実際のアニメーターには給料以上の「権利」は与えられず、配当にも著作権料にも預からせてもらえない
アニメ業界がヒット作も撃沈作も労力は等しく評価されるべきと互助会的に回してきたから、それ自体は悪い話ではないが、
とりま現状、「権利」としてはエンドクレジットに名前を載せる権利以外は報酬はそんなでもない
一方、脚本は「権利」を受け取れる幾つかの特権的職種のひとつになる
脚本家は、映像作品において重要なスタッフではあるが、他のスタッフより抜きんでて重要というわけでもない
声優アニメーターコンテ演出撮影仕上等々の各職分のそれとそこまで差があるわけではないが、
権利は守られるべきだ
その義務としては、「脚本家はヘイトを引き受けろ」が妥当だと思う
原作付だろうが、原作の構成要素の取捨選択が仕事の大半だろうが、脚本家に権利が与えられるのは、
どれだけ理不尽な批判でも、的外れな憎悪でも、勘違いした炎上でも、一身に引き受けるためだろう
吉田恵里香さんの名前を一躍有名にしたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』も、同じく10代の女の子たちを描いた作品だが、こうした原作のある作品でも前述の姿勢は崩さない。
「原作ではひとりちゃん(※主人公の後藤ひとり)が水風呂に入るシーンで裸になっているんですが、アニメでは水着にしてもらいました。ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです」
素晴らしい姿勢ですね。
それでは、加害性のある原作から加害性の描写を排除したアニメ版『ぼっち・ざ・ろっく!』(脚本・吉田恵里香)を第1話から順に観てまいりましょう。
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https://www.nicovideo.jp/watch/so41178183(10:48)
後藤のこの行為はいわゆる「触らない痴漢」であり、明確な性加害・性暴力行為です。
「触らない痴漢」急増 陰湿行為重ねられパニック障害発症も…高い犯罪可能性、難しい立証
https://www.sankei.com/article/20241016-PK5YV6TTHJCBJJCKRXUQQOWA3M/
とはいえ、犯罪行為として立証できるのか。横浜合同法律事務所の清水俊弁護士によると、「首筋に息を吹きかける」「髪のにおいを嗅ぐ」「乗客が少ないのに隣の席に座る」といった行為は、「公共の場所または公共の乗物において、人を著しく羞恥させ、または人に不安を覚えさせるような方法で卑わいな言動をすること」と評価されれば、各都道府県の迷惑行為防止条例違反に該当するという。
今どきニュースにもなるぐらいの性加害を主人公の後藤ひとりは行っておりました。
まさかの後藤による初手セクハラにより、アニメでも加害性は十分ありと判断し検証はここで打ち切らせていただきます。
それとも吉田恵里香さんにとっては、後藤ひとりが自分の意志で(水)風呂に裸で入る描写は加害性があって、後藤が虹夏ちゃんのスメルを断りなしにこっそり嗅ぐ行為は加害性が無いと判断しているのですか???
吉田恵里香さん、あなたは自分以外の他所のアニメを「加害性」だとか言って下げる前に、
Permalink |記事への反応(27) | 21:32
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/eiga.com/news/20250906/6/
このブクマ
黒澤明は日本人からそっぽ向かれちゃったからね。そして実写映画界にそのセンスは受け継がれなかった。黒澤を受け継いだのはアニメ界だったんよね。
だが、★はたくさん付いている。ただ具体的に黒澤明に影響を受けたアニメ作品や作家の名前は、かろうじて宮崎駿が出てくる程度で出てこない。でも増田はそれはなんか違うと感じたのだ。
宮崎駿が黒澤明を尊敬しているのは割と有名な話ではあるが、両者の作風は実はかなり違うとおもう。
黒澤明は実はアメリカン(ハリウッド)な作風だ。ジョン・フォードの駅馬車にインスパイヤされたシーンなんてのがあるぐらいに、「古き良きアメリカン」なアクションシーンやヒューマンな(牧歌的で、今となっては懐古的な人道主義)面が強い。一方で宮崎駿は、アクションなどはインスピレーションがあるのかもしれないが、それを「影響を受けたフォロアーだ」と言うには雑すぎる。もし影響つよつよだっていうなら剣闘のシーンがもっとあるはず。ぱっと思いつくのはナウシカのユパぐらい?。また、宮崎駿の世界観は、まぁSFの匂いがあることもあって設定はもっと複雑である。20世紀半ばのアメリカ的な素朴な人道主義は感じられない。
そして黒澤のヒューマニズムは、素朴だが裏に苦みや残酷さを持つのに対し、宮崎のそれは設定の複雑さに比して映画の結末は表層的でハッピーだ(この辺は宮崎駿を批判する時に言われがち。まぁスポンサーの意向とかもあるんちゃう知らんけど)
更に。
黒澤明は全盛期ですら「女があまり書けないタイプ」の監督という定説があり、また本人も女を描くのが苦手だとインタビュー等でしぶしぶ言っている。まぁ増田は、ご本人が言うほど下手じゃなく魅力的な女性はたくさん出てくる(椿三十郎の旗本の奥方とか最高)し、むしろ羅生門などはそれが出来たからこその評価だろうと思っているのだが。
それは置いておいて、まぁ黒澤は「女」のキャラクターを物語の中に立ち上がらせるのがあまりうまくなく(撮り方もなんていうか、こうステレオタイプである)、一方で、黒澤明は「男」を描かせれば本当に一級品だ。三船敏郎というアイコンとの出会いは大きかろうが、どっこい三船以外の「男」も、ずるかったり弱かったり強がったりとバリエーションに富んで素晴らしくすべてが「物語の豊かな糧となるキャラクター」だったりする(黒澤映画における女はたまに「美人女優を出さなきゃならんからな」的な状態になっている時がある)。
一方、宮崎駿の描く女、これも発端は黒澤的なステレオタイプなかたちをとることが多い。だが、宮崎駿の描く「女」はステレオタイプ(かわいい、おてんば、などの男が好むステレオタイプ)から飛び越えて陰影や謎を持つ魅力的なキャラクターで、その点(女を描く)は宮崎駿の方がうまいと思う。そもそも宮崎映画は何でそんなにというほど「女」が主人公だ。
なので、影響はそりゃ受けてるだろう世代的に、とは思うが、それをフォロアーと言うには雑な気がするのだ。
何しろ黒澤明の映画は、彼の全盛期である1940~60年代には1年に2本~数年に1本のペースで映画館にかけられている。それが基本的に全部大ヒットで良作品である。映画がことさら好きじゃない人でも当たり前の顔で黒沢映画を見ていた時代だ。団塊の世代であれば多感な子供~思春期に「毎年1本、黒澤明の大人気の痛快娯楽大作」が封切られていたわけで、こういう時代背景をもって「宮崎駿は黒沢の影響で作品を」というのは、ちょっと乱暴すぎる。
一方で、ガンダムの人とかは影響受けてるんかなと思って検索したら(ガンダムの方はあまり知識がないので語れることがない)こんなブログが引っかかって面白かった。さすがガンダムおじさんいちいち辛口
https://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2017/11/30/235950
日本の映画界は貧しすぎて、1950〜60年代に戦争物もあったんですが見にくいものしかない。また軍隊を悪者にすれば気が済むという簡単な思想性で組まれていて、戦争を描いている映画とは言えない。それ以上のものを求めても、当時才能がそれほどいなかったから無理だよねってことですね。黒澤明あたりが一等賞というのは貧しくて、後続部隊がいなかった。『七人の侍』(1954)は見やすい映画ですが、見事なものは『七人の侍』を持ってこないとないというのは貧しい。黒澤明は巨匠ではありますが万能ではありませんし、偏った監督だったとぼくは思っています。
こちらの方がむしろ「黒澤の次をなんとかしないと」ということなんだろうということで、より本質的には「継ぐもの」フォロアーなんだろうと思う。でもブクマには富野も庵野も名前が出てこない。
富野→庵野、みたいな流れが「アニメが引き継いでる」ってことであってます?オタクの間ではそれが定説ってこと?その割にはブクマに黒澤を見た人が少ないのでこれが正解かもわからない。
マンガやアニメ作品に対する批判で「説教臭い」というのをよく目にする
そういうのを見るたび、自分は「ええ、こういうのを説教臭い?」と思うこと、しばしば
だけど、インターネットで評判の良かったある作品のアニメをいま観ているのだけど、これはなんだか説教臭いと感じた
というか作者の、若輩者に尊敬されたい願望が透けて見えるようで、共感羞恥をとても強く刺激される
ふと思った
説教には、する側とされる側がある
つまり、説教臭い作品を痛快と思う時は読者はする側の気分になり、不快に思う時はされる側の気分になるのではなかろうかと
そして説教する側の気分で、しかし説教の中身が未熟であるとき、いたたまれない気分になるのだ
[B!] 「山田尚子監督アニメ映画『きみの色』から考える―長崎を表象することの加害性と呪縛について―」|myaao000
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/deft_stoat9234/n/n5770b217546a
じゃあ当然「気楽に批判される」のも受け入れるべきだろう。
山田という監督にはそういう芯の無さを感じている。ずっとずっとだ。
「オマイラこういうの好きだろ?」という軽い口当たりのそれ。
オマイラの憧憬を、美しい画像とエフェクト、画角の表現技法で突き詰める。
『きらら』ならいいのだ。『きらら』は天ぷらの衣を食う作品群だからだ。
だがオリジナル(監督=料理人)となれば別だ。衣は売りじゃねぇ。
だからこの批判は「当たり前に刺されるだろ(笑)」としか思わん。
大いに批判されるべきだ。
天ぷらの衣を食いたい奴はそうしてろ。
だが、長崎に思い入れのある人がこれまでの山田の手法から「どのように長崎を書く/描くのだろう、それも夏の長崎を」という考えを持つのは止められない。そして批判の口は閉じられない。
「Not4Meは黙れ!」っていう口封じは一つ正しいが、必ずオマエラに突き返されるだけだ。
何しろアニメ作品は天ぷらじゃないからな。天ぷらなら「中身の具が入っていません」の批判は成立するが、
長崎を愛している人、長崎を見ている人からは、「長崎を見ないどころか、ただのダシにしてますよね?」「長崎はあんたの承認装置じゃないんですよ?」と言われて当然であろう。
あの女が何を言うかは知らんが、伸ばした挙げ句がこの内容だ、何も言わんだろうな。それが処世術だということ。邪悪である。
A「バスケットウェブいいよなあ…俺もバスケットウェブにすればよかった」
B「!!?!? おい、A!!バスケット部行くのか!?俺と一緒に甲子園目指すんじゃなかったのかよ😭」
とか
A「その前に!!!」
周り「????(; ・`д・´)」
周り「_(┐「ε:)_ズコー」
とか
子供の頃やってたアニメでこういうクソ寒いやり取りが頻出で、ほんと嫌で嫌でたまらなくてなるべく避けて生きてきた。
さすがに今の時代もうこんなやり取りなんて消え去ってるだろうと油断して、俺の趣味を題材にしたアニメ作品見てみたらまだ平気でやってたから即視聴停止した。
頼むよ……。
この手のやり取りに歓びを見出す視聴者なんてほんといるのか?
とてもじゃないけど信じられないんだが。
せめて仮にダウンタウンに見せたとしても
「うわっ寒っ……」
と彼らが慄然としなさそうな掛け合いの作品ばかりになったら俺アニメ見てもいい。
こういうやり取りほんとナシにしてくれ。
ていうか書いてて気づいたんだけど、このクソ寒いやり取りって完全に俺を除くはてなーのセンスだよな。
教えてくれよ、こういう掛け合いのなにがいいんだ?
そういうことならSHOW BY ROCK!!ましゅまいれっしゅ!! がおすすめだよ。
もちろん無印時期のプラズマジカの面々も可愛いが、ましゅましゅの子らの方が自分的には刺さった。
OP映像だけでも雰囲気感がつかめると思う。https://www.youtube.com/watch?v=XmAlcgWmEuw
多分増田のようなタイプにとっては、現実世界ではない、若干ファンタジーな世界の方が合うとも思うし。
まあ正直自分はアニメを熱心に見ていたのはこの作品の時期くらいまでで、ここ5年くらいはホヨバのゲームをハシゴするので満ち足りていてアニメへの探究心が薄れてる。
でもホヨバも基本的には百合なんだよ。艦長という男性主人公のいる崩壊3rdっていう初期のゲームですら、主人公は空気のような存在で、ずっとメインキャラの女の子たちの百合成長物語なの。
アニメ作品だと確かに、「女の子というよりは女」と感じるような、派閥みたいな世知辛さを描きがちで、醜い対立シーンを描くことで深みを出そうとする作品が多いかもしれない。なんかドラマみたいな手法だよね。
でもアニメ美少女系ゲームだと、そういう社会性の嫌味のある描き方をするとメインターゲットになる男性層が「うっ」ってなるからほとんどない。
だからスマホゲームに抵抗がないのなら、どの会社が作ってるのでもいいから、ヒット作の中から好みのキャラがいるタイトルを漁ってみたほうが幸せになれるかもしれない。美少女ものなら大抵ゆるく百合入ってるから。
アニメと違って、売れてる運営型ゲームなら充実した公式供給が定期的にあるから、そこが大きな利点。
特定のキャラしか要らない!っていうこだわり強いタイプだとあまりメリットないけど、イベント毎に公式がお出しする女の子たちの絡みをどれも美味しく頂けるタイプなら…つまり作風さえ肌に合うものを見つけられるなら、ゲームの方が浸れると思うよ。
百合っぽさに焦点をあてるなら、ややマイナーではあるし、おそらく女性である人にDMMゲーを勧めるのもどうかという懸念もなくはないんだけど、
それを乗り越えてでも推したい「あいりすミスティリア」ってゲームがある。イベント毎に2人の女の子が絆を深めるシナリオが、老舗美少女ゲームブランドの実力ある筆致で描かれるから。
絵師のめざしさんが描かれている4コマを見るだけでも百合の波動は感じられると思う。https://dmm-imys.com/comic/
過去イベントが常設で復刻されていく作りなのもかなり優秀なポイント。
ただし、百合成分が濃いのと同時に、ハーレム構造のゲームでもあるのでヒロインたちの主人公(冥王)への一途な恋慕もたびたび食らうことになるが、それを苦としないならという前提はあるけど。
https://kokamumo.hatenablog.com/entry/2025/06/25/134921
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20250625/1750844969
うるせーおじ共だなぁ。
おじ、黙れ。
『ジャンプ』でも読んでろ。多分そういうのないけど(笑) ああ。ヤンジャン、ヤンサンに増えてるか。そっち読め。きめぇな。
おじ共の感性が古い。というかスケベ。見えるよオマエラのそれ。要するに「ソフト百合」が見たいだけだろ、キメェなぁ。臭っ。
ファースト『ガンダム』if戦記物:ジオン勝利すれば……、っていう大前提世界でどこを切り捨てるよ?
まず大命題はここだ。『大久保町シリーズ』みたいに「宇宙世紀0079、ジオン公国は地球連邦に勝利した。理由は分からない。それから9ヶ月――」、これならオマエラのマチュ✕ニャアンでも、ヒゲマン✕シロウズでも好きにしろ。きめぇ。臭。
カラーが取ったのは「映画で話題をさらいます。そのためにはジオン勝利の流れは映画で30分はやらんといかんです!」という予算の取り方だ。
恐らくプロットの段階で、めちゃめちゃ面白かったから企画は始まってる。これは新しい(ビジネスの/物語の)切り口だ。多分、富野監督も「(無言)」で企画書をゴミ箱に投げ入れるぐらいでOKしただろう。
(ハゲが言いたかったことは「戦争や戦争の道具を美化するな!」ってことだろうけど、それを魅せながら上手くやってる『ガンダム』作品が、商品の売上や円盤の売上を立てた実績と実情を理解しているが故に、これ以上は何も言えないだろうと容易に想像が付く。要するに『Seed』で“負けた”ことが富野監督の中で忸怩たる思いであっただろう。まぁ、これは内部からの外郭情報なので「ソース出せ!」って言われたら出せません、なので)
さぁ一年戦争勝利の流れを「映像」にしました。物語に乗せた以上『大久保町シリーズ』方式は使えません。
じゃあ書くしかないよね。今の流れを。
この作品を支えているのは、ファーストとそこから洗礼、薫陶を受けたガノタだ。
ひえっひえっだった70、80年代おたくおじたちが突然バカみたいな火力でインプを高めた。恐らくカラーの狙い通りであろう。
となれば、何をどう料理するかはカラーの考え次第。だってこれは「カラーの作品」だもの。
今回はサンライズ内製じゃなくて、外注作品。要するに「ゲームや漫画と同じ立ち位置」の作品です。『水星の魔女』とは違います。
一年戦争勝利の流れを書いてしまったら何が出てくるのか。もうやばい。
・アムロってどうしてるの?
・シャアはどこいったの?
・連邦ってどこまで衰退したの?
この情報を量をどうやって捌く?
まさかとは思うがブログ書いてて、感想書いてて、『ドクター秩父山』の「コイツはな、文句しか言わないプロなんだよ」って奴じゃねぇだろうな?
考えろ。そのソフト百合でほんわかしたいうす汚いピンク色の脳みそで。
『大久保町シリーズ』方式を取らなかった以上、山程の情報量とどうやって立ち向かうんだ?
「いや。待ってくれ。俺はただの視聴者だ。文句だけしか言わん」
ってなるんだったら、俺は答える。
「そうか。じゃあ、黙れ。お前の感想なんぞ、一顧だに能わぬ」
オマエラのような「ソフト百合/青春ものが見たかったんだい!」っていう輩への切断処理はとっくに完了しているが、必ず「黙れ」という感想を言うために、コイツを書いている。
じゃあうす汚いピンク色の脳みそのためにも、もう少し「現実解」のための情報を追加してやろう。
まず、オマエラの望んでいたものは「26話あれば可能だった」という事実だ。
じゃあ何故「26話じゃなくて、12話だったのか!」ということだが、多分3つある。
さすがにそれは無いとは思うが、予算は制作予算だけではない。宣伝予算もある。宣伝=インプレッションへの燃料のために、使った可能性は十分にある。
ただ、これは宣伝費(ある程度の可変)だし、バンナムは「仕事になる」から喜んで調整しているだろうから、追加燃料は使っていないだろう。
だとすれば、映画予算は映画予算で賄っているのではないか、ということ。
2.カラーとバンナム・サンライズの間で握れた予算が13話ぐらいしか作れなかったということ
まぁまぁある可能性。バンナム様からすりゃ「分かる。制作は金かかる。でもウチはライツで飯食ってるから(笑)」というシブチンなんだということをご理解いただきたい。
実は「作品は作ってない」のだ。
彼らは「作品が商品になるから出資している」のであって「予算以内で仰ってる内容は作ってくださいね」というスタイルを崩していない。
要するに13話分の金しか与えなかったのだ。十分ありえる。
4作品同時制作中のカラーに、監督くん(庵野秀明)に余裕はない。余裕はないから13話ですね、というお話。
別に鶴巻監督も暇じゃないだろう。恐らく他の作品にはとっくにかかっていた。
その中で「ガンダムなんだ」って言われれば「ガンダムですか」と答えるだろう。
カラー周りに知り合いはいないので、具体的情報は無いが、今「劇場版レベルのアニメ作品を作れる監督は数に限りがある!」という事実がある一方、「アニメにしましょう!出資は決まりました!」という作品は山積みになっていたりして、人手は足りない。そして「名誉ある作品」を作るには、監督の人脈能力が必須なっている。
恐らく、カラーをして、監督くん&鶴巻監督をして、「13話がフル稼働限界ですね」という大人の事情である。
分割26話も無理だったんだろう。腕の良い人たちは、みんな2年先3年先までスケジュールが埋まっているのだから。
やっちまったもの=企画書で啖呵を切ったのは実現するしか無いが、何をどうやっても12話(1話分はBeginningで使った)しか無い。
そして構成は、脚本に監督くんがいるし、恐らく監督くんに依頼があったのを「俺は監督業がこれ以上できないから、参加だけするんで」で鶴巻監督に投げたが、監督くんの悪さは「責任を負わないところで好き勝手する」のが大好きだ。
間違いなくシリーズ構成は監督くんの手によるものだ。彼が70年、80年おたくなのは論を待たない。
そうなれば「ジオン公国一年戦争勝利の世界で、アムロ・シャア・ララァの三角関係をハッピーエンドにしよう!」となってもおかしくない。
はい。ここでオマエラが大好きな「ソフト百合」は一撃必殺でゴミ箱行きです。
彼女らは「舞台を整えるだけの存在/状況を進めるだけの存在」になりました。キャラじゃないです。
まぁ、入れられるけどね、ある程度は。
「言わせた」り「言った」りすればいいだけなんで。そんなもん、小説では「行間嫁」になるでしょ? 文字読みのくせにそういうのもやらないの? アニメ視聴でもやんなさいよ。
まぁ、だから「マチュ✕ニャアンで一年戦争ジオン勝利世界を見たかった」ってのは「なかったんだ。だからこの話はここでおしまいだ」ってことになるわけ。
薄い本でも書いて補完せい。
追記:以上は、全部俺の脳内での拡大解釈なので、違う事実が出てきたら「へー。そうなんだー(大本営発表出るぐらいだったか(笑))」となるだけなので、責任は負わぬよ。
Q.
「ポケ戦」とは何のことでしょう?名作らしいのですが。
A.
「ポケ戦」とは、多くの場合、1989年にOVA(オリジナルビデオアニメーション)としてリリースされたアニメ作品**『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』**のことを指します。ガンダムシリーズの中でも特に名作として評価されており、その理由はいくつかあります。戦争の悲劇を深く描いている: 本作は、少年アルフレッド・イズルハ(アル)の視点を通して、戦争がいかに無益で、幼い心を傷つけるものであるかを描いています。ガンダム作品の多くがMS(モビルスーツ)同士の戦闘を主軸に置くのに対し、『ポケ戦』はMSパイロットではない少年が戦争の現実を体験していく過程に焦点を当てています。MSパイロットではない主人公:主人公が一般的なガンダムシリーズの主人公(MSパイロット)とは異なり、ごく普通の少年である点が新鮮です。彼の目を通して描かれる戦争は、より視聴者に身近なものとして感じられます。MSの魅力: 主役機であるガンダムNT-1(アレックス)や、サイクロプス隊が運用するザクII改、ケンプファーなど、メカニックデザインの面でも非常に人気が高いモビルスーツが登場します。特にケンプファーはその登場シーンのインパクトと強さで多くのファンを魅了しました。短いながらも濃密なストーリー: 全6話という短い話数の中に、キャラクターの心情描写、MS戦、そして戦争の悲劇が凝縮されており、非常に完成度が高いと評価されています。悲劇的な結末: 多くのガンダム作品が最終的に希望や未来を描くのに対し、『ポケ戦』の結末は非常に悲劇的であり、戦争の厳しさを痛感させられます。この結末が、作品のメッセージ性をより強くしています。もしガンダムシリーズをご覧になったことがない方でも、単体で十分に楽しめる作品ですので、機会があればぜひご覧になることをお勧めします。戦争のあり方や、人の心のあり方について深く考えさせられる名作です。
本当に暇な時にでも、こんな人間がいるんだな程度に読んでほしい。
私は人よりも本を読む方だと自負している。
私の周りの人が特別読まないだけで、もしかしたら普通ぐらいかもしれないけど。
人よりも本を読むと言っているけど、じゃあ実際どれぐらいの本を読むのか。
気になったので集計してみた。
2024年3月〜2025年2月の期間で28,121,947文字を読んでいた。
文庫本が1冊あたり10万〜12万文字だとすると、年間で230〜280冊ぐらいの本を読んでいるらしい。
思ったよりも読んでいて正直驚いた。
そんな私の読書の遍歴を辿る。
記憶だけを頼りに、スマホでポチポチと書くから間違っていることもあるかもしれない。
そこはご容赦いただきたい。
小学一年生の頃だったか、父が買っていたグラップラー刃牙を読んだ記憶が色濃く残っている。
ガイアの隊が熊を倒して食べているシーンが、どうしてか印象に残っていた。
今思えば小学一年生が読む漫画ではない。周りの友達はコロコロコミックを読んでいたし、話が合わなくて友達ができなかった。
歳を重ねても、私はブックオフに入り浸っては漫画を読む生活をしていた。
ダレン・シャンという分厚い本だった。
同じぐらいの分厚さで言えばハリーポッターと同じぐらいの本。
家にハリーポッターがあっても読まなかった私に、どうしてそれを買い与えたのかは分からない。
もしかしたら安かったのかもしれない。
作者の名前とタイトルが同じであることに興味を惹かれたのもあって、せっかくだから読んでみるかと、私はとりあえずページを捲った。
どハマりした。
これはもうないぐらいに、どハマりした。
本にハマった私は、意味もなく図書委員に属する様になっていた。小学校高学年から中学3年間ずっと図書委員だった。
ただ、ダレン・シャンのイメージが強すぎて、他にどんな本を読んでいたのかが思い出せない。
ダレン・シャンを読んでから、私は本を読む人間になっていた。まぁ、同じぐらい漫画も読んでいたが。
さておき、そんな私が中学に進学した頃、あるジャンルと出会う。
ライトノベルだ。
中学2年生か3年生の頃だったと思う。
クラスで「バカとテストと召喚獣」というライトノベルが流行っていた。
ライトノベルというものを知らなかった私は、小説なのに漫画の様なカラーページや、挿絵があることに驚いたのを覚えている。
興味が湧き、友人に借りて読んでみた。
どハマりした。
それはもう、どハマりした。
灼眼のシャナ、緋弾のアリア、キノの旅、僕は友達が少ないなどを読んだ記憶がある。
どうしてか、私が通っていた中学ではライトノベルが流行っていた。
私が属する学年の7割〜8割がオタクだった。
カーストトップの人間がオタクというイレギュラーが起きていた。
文化祭ではハレ晴レユカイ、もってけ!セーラーふくを踊り、女子はけいおん!の歌を歌う。
そんな学校だった。
「王様ゲーム」「落ちこぼれの操炎者」「できそこないの救世主」「最強の名をもう一度」「サバンナゲーム」「ワールドエンド」振り返るとキリがないが、様々な小説を読んだ。
大変失礼な話ではあるが、今振り返ると、稚拙な物も多かった気がする。
だがしかし、当時の私には無料で小説が読めるというのは衝撃だった。
また小説の連載を追うというのも新鮮だった。
おそらく、この頃の経験がネット小説を読む習慣を作り上げたのだと思う。
高校に進学し、ガラケーからiPhoneに変えた頃になると、モバゲー小説から卒業していた。
そう、小説家になろうで読むようになっていた。
「異世界迷宮で奴隷ハーレムを」「無職転生」「この世界がゲームだと俺だけが知っている」「詰みかけ転生領主の改革」
色々な作品を読んだ記憶がある。なんなら今でも小説家になろうで読んでいる。
また高校になると2chのSSスレも読み漁るようになる。エヴァンゲルの二次創作、俺ガイルの二次創作、とらドラ!の二次創作など、様々なSSを読んだ。
げんふうけい、そう、三秋縋先生だ。
だったりが最初だった気がする。
結構な作品が削除され読めなくなってしまったが、本当に素敵な作品が多かった。
家庭教師のお兄さんと女子生徒の話も好きだった。もしかしたら内容は違うかもしれないけど。
その2人のキャラで好きなやり取りがあった。
女性生徒が「気持ちも荷物も受け取られた私はどうすれば良いんですか」と返す。
みたいなやり取りだった気がする。
その会話のやり取りが、とても好きだった。
他にも人生とは何かを問われた時だかのやり取りがあった。
男性が答える。
足を片方出す。バランスが悪くなり、もう片方の足を前に出す。そしたらまたバランスが悪くなり逆の足を前に出す。すると足はどんどん前に進んでいく。そんなもんだ。
という様なニュアンスだった気がする。
いかんせん、十数年前の記憶を掘り起こしているだけだから、かなり曖昧だ。
しかし、げんふうけいさんが書くSSよりも刺さる作品には出会えなかった。
そうして、高校3年間の青春は、少しのモバゲー小説と小説家になろう、2chのSSで幕を閉じた。
大学に進学すると、ある変化が起きる。
それなりに話す様になった人が、本が好きだと、伊坂幸太郎が好きだと言っていたことがきっかけだった。
仲良くなりたかった私はその足で本屋に向かい、伊坂幸太郎さんの「オー!ファーザー」を買って帰り、その日中に読み終えた。
面白くて、デビュー作の「オーデュボンの祈り」を買って読んだ。
どハマりした。
過去類を見ないほどにどハマりした。
バイトをして、当時出ていた伊坂幸太郎さんの小説を全て買って読んだ。
それ以降私は文庫本を読む様になった。
もちろん、げんふけいさんが三秋縋さんとしてデビューしたら、「スターティングオーヴァー」「三日間の幸福」も買った。
小説家になろうを読む頻度は下がったが、それでもネット小説は読み続けていた。
寝る前にベッドで読めるというのは強かった。
無職転生が完結した時は言葉にできない充実感が心を満たした。あの満足感は連載当初から完結まで追い続けたからこそ得られたものなのだろうか。
そう、住野よるさんのデビュー作「君の膵臓をたべたい」である。
当時は夜野やすみさんという名義ではあったが、あの作品に出会った時の衝撃は凄かった。
小説家になろうにこんなハイクオリティの文芸小説があるのかと驚いた。
少しすると、書籍化するとのことで削除されてしまったが、発売日に新宿の紀伊國屋に行き、買ったのを今でも覚えている。
この頃からまたネット小説を読むようになった。ランキングを漁って、たくさん読んで、良い作品を見つけた時は言いようのない気持ちになった。
サービス開始が2016年2月29日だったから、ほぼ古参かもしれない。
当時はまだ作品が少なくて、結局使っていたのは小説家になろうだったけど。
このぐらいの頃に、所謂なろう系小説よりも文芸寄りの作品をネットでも好んで読むようになった。
探してみると良質な作品が沢山あって、ひたすら読み漁った。大学卒業する頃には230作品ぐらいを読み終えていた。
今思い出したけど、無職転生が書籍化する時の広告で印象に残っているのがあった。
リゼロと無職転生を並べて『覇者か問題児か』って煽りの広告があったと思うんだけど、あれどこだったっけ。
作品じゃなくて、ランキングとか作者のTwitterとかでその煽り使ってるのが、本当に詳しい人なんだなって思えて、なんとなく好きで、たまに思い出す。
詳しいこと知ってる人がいたら教えてください。
証券会社の営業は、私が想像するよりも忙しく、本を読む余裕がなくなった。
今まで本の文字を追っていた目は、日経新聞の文字を追う様になっていた。
ネット小説を読むために使っていたスマホは、金融機関が出すレポートを読むために使われる様になっていた。
2年も経つとある程度仕事のやり方が分かるようになり、読書や漫画、アニメ鑑賞に時間が割けるようになった。
小説家になろうで読んでいた作品がどんどんアニメ化されていたことに驚いたのもこの時だった。
久々に本屋に行けば、小説家になろうの作品がたくさん出版されていた。
知らないうちに伊坂幸太郎さんの新作は何冊も出ていた。三秋縋さんの新作も、住野よるさんの新作も出ていた。
あんなに好きだったのに、全く知らなかった。
毎日情報を追い、時代の最先端に自分がいると思っていた。なのに、いつの間にか、時代に残されていた。
気付けば無職転生が累計ランキング1位じゃなくなっていた。グルメ系、ほのぼの系の作品が流行っていた。追放系の作品が流行っていた。悪役令嬢系が流行っていた。
この時ぐらいに人生初の恋人ができて、小説を読む時間はそんなに取れなくて、ネット小説は合間に読めたけど、一般文芸作品は読めなかった。
それでもまた小説の世界に入ることができたのは、なんとなく嬉しかった。
大体この頃ぐらいから、二次創作作品にもハマるようになって、ハーメルンというサイトで小説を読むようになった。
恋人と見たアニメで面白いのがあれば、それの二次創作小説を読んだりとかね。
ヒロアカとか呪術廻戦とか、ワンピースとかハンターハンターとか王道なものから、ヒカルの碁とかポケモンなどの二次創作も色々と読んだ。
一次創作にはない楽しさがあって、昔読んだ2chのSSを思い出した。
コロナを機にアニメ作品が世間に浸透していった。それ以前からその傾向はあった気がするけど、コロナの影響は大きいらしかった。
アニメなんて興味なさそうな上司が、鬼滅の刃を見たって聞いた時は正直驚いた。株価と数字にしか興味がないと思っていたから。
コロナの次の年、異動することになった。
環境が変わるのは嫌いじゃなかった。元々親が転勤族で転校を繰り返していた影響もあるのかもしれない。環境が変わる時はワクワクの方が強かった。
結論から言ってしまうと、異動先はあまり良くなかった。筆頭セールスと課長の2人と馬が合わなかったのか、とりあえず相性が良くなかった。どれだけ数字を上げても、数字をやっていない人よりも詰められるようになった。
小説を読んでいる時だけ、現実を忘れられて心を保つことができた。
それはいきなりのことだった。いや、いきなりでもないのかもしれない。2時間ぐらい立ちっぱなしで謎の説教を聞かされた次の日だったと思う。
小説を読んでも内容が頭に入らないようになった。
いつもなら頭に浮かび上がる情景が、シーンが、何も浮かんでこない。
そんなことが起きるようになった。
仕事を頑張ろうと意気込んでいた時だ。
車で営業先に行っている途中に、なぜか涙が勝手に出るようになった。
何もしていないのに、通勤電車に乗るだけで動悸が激しくなった。
適応障害と診断された。
正直、どうしてそうなったのか今でも分からない。
いつの間にかそうなっていた。
何をすれば良いのか分からず、とりあえずいつものように本を読んでみた。
やっぱり何も理解できないままページだけが進んでいく。目が滑ってしまい何も分からない。
それが一番の苦痛だった。
この時のことはあまり覚えてない。
だけど、2〜3ヶ月もすると、ちゃんと小説を読めるようになった。
それに気付いたのは、オーデュボンの祈りを読み返すようになってからだった。
読めなくてもとりあえず読み続けていて、いつの間にか読めるようになっていた。
元々そっちの方が適性が高かったらしく、次の部署では大変仕事がやりやすく、評価も高いものが得られた。
ここ数年は二次創作とオリジナル作品を半々ぐらいの割合で読むようになった。
今もハーメルンと小説家になろうをメインに小説を読み続けている。
だいぶ話が逸れてしまったが、読書遍歴としてはこれで良いのだろうか。
良くはないよな。
現時点だと小説家になろう、カクヨム、ハーメルンで累計1200作品を読み終えた。
連載が続いているもの、エラッタになってしまったものもあるが、それのタイトル全てを載せるのは現実的ではないと諦める。
書いてみて思うが、散文にも程がある。
どうやら私には文章を書く才能はないらしい。
これだけ本を読んでも文章力は身につかないようだ。
やはり、書き続けないといけないな。
もうおっさんの歳だが、読むだけじゃなく、何かを書くという趣味を始めても良いかもしれない。
彼には中学生になる男の子がいるのだが「Switch2が欲しいか?」と聞いたら「周りの友だちが持ち始めるまでは別にいらない」との返事だったそうだ。
その子はアニメも観るが昔の名作を勧めても興味を持たないと友人はこぼしていた。
俺らが子どもの頃は発売前のゲーム情報をファミ通や電撃で読み、早くプレイしたくて期待に胸を膨らませていた。
アニメやマンガに関しては、ある作品に興味を持てばルーツを遡ることで知りたい欲求を満たしていった。
「なんで今のオタクって古い作品を見ないの?」という意見に対して「今は昔と違って放映されるアニメ作品が段違いに多いの!時間が足りないの!」と反論している人をよく見かける。
けど代わりに90年代は漫画雑誌が今のアニメと同様に隆盛を極めており当時のオタク文化圏のひとたちは雑誌とコミックスを読み漁り買い漁っていた。
お金がなくて買えなきゃ数少ない同好の友人と貸し借りするか、友人がいなければ店員の監視がゆるい本屋で足を棒にして立ち読みだ。
そのうえでルーツまで探っていたのだ。
そもそも今のように流行っている作品を網羅的に追いかけるというよりは、好きな作品・作者・監督・声優をピンポイントで深く掘り下げて探求する人のほうが主流だったと思う。
結局ゲームもアニメも周囲の友人との会話を繋ぐコミュニケーションの道具として利用しているのだなと思う。
俺らがかつて忌み嫌っていたホットドックプレスやポパイを読んで流行を追いかけていた人たちが現代はアニメやゲームに置き換わり一般化されている。