
はてなキーワード:アスファルトとは
朝、目を覚ましたとき、
世界はすでに、終わっていた。
風は吹いていたが、それは風ではなかった。
ポケモンセンターの自動ドアが、壊れたように開いては閉じていた。
人々は行列の形を保ったまま、静止していた。
瞳の中には、捕まえ損ねた幻影がまだ揺れている。
彼らは誰も死んでいない。
ただ、ログアウトしているだけだった。
その眠りは深く、やさしく、永遠だった。
──「つづく」。
わたしは歩いた。
どこへ行くあてもなく、ただ、滅びの余韻を追って。
けれどそれは風の音かもしれない。
もう、区別はできなかった。
ピカチュウの笑い声が、薄明の空に響く。
戦争も、飢えも、涙もなかった。
ただ、“たのしさ”がすべてを覆った。
だが今は違う。
その「誰か」さえ、もう存在しないのに。
画面の奥に、まだ小さな光が残っている。
そこには、あの黄色い影がいた。
彼は微笑み、口を開く。
──「おかえり」。
その声を聴いた瞬間、
ピカ。
それは、
文明が消える音だった。
最近定期的にホットエントリーに入ってくるnoteわんにゃん癒し動画の種明かしします。
あくまで僕個人の考えですが、このnoteは読者がみんな馬鹿なことわかってて確信犯でツッコミ満載の記事を書いてます。
普通に信憑性のある真面目な記事だと勘違いしてブコメとかしてる人もいるかと思いますが、釣られてます。
では種明かし
まず「私だけに優しいヤクザ」の記事ですが、冒頭から説得力に欠けます。
https://note.com/seanky/n/nb57a92a55837
”創作における「私だけに優しいヤクザ」人気”と大きく出るわりには”サンプルとなるタイトルが少ないのです”。
おそらく「私だけに優しいヤクザ」というボンヤリとした持論が先にあってそれに説得力を持たせるためにあとから漫画の例などを調べた結果
実際はそんなにサンプルが無いことがわかり、仕方なくみんなにバレないように上手く逃げてます。
まず誰もがご存知「覇王♥愛人」(2003)と最初に上げるタイトルがそもそも微妙。ハオウアイレンってネットの一部でしか盛り上がってなくね?
このようなネタは時代を超えて安定した人気があるようで、例えば𝕏でキーワード検索する限りでも2016-2021年の漫画やら2019年の漫画やら2023年のアニメやら無限に例が出てくる
と言いながら”そんなに例がでてきてない”のです笑
3タイトルしか上げずに無限に出てくるは誇張しすぎでしょう…。
これもだいぶ信憑性に欠ける。愛にひざまずく暴君で検索してもヒットしない。
現実の世界の話も、とても一般化できないヤンキーが好きなキャバ嬢の事件を無理やり論につなげようとしているので苦しい。
もはや後半のリアルの話は女性ではなく”キャバ嬢の話”になっている。
こうしてじっくりと冷静に記事を読めば説得力に欠ける釣り記事だとわかるのに
書いた本人が一番自分の記事の根拠の薄さに気づいているだろうが、はてな民なら騙せると確信犯のアップなのだろうね。
関係ないけど、これ「私だけに優しいヤクザ」より「私だけに優しいヤンキー」のほうが話が広がるし信憑性あるし面白い記事書けると思うよ。
この街は、夜になるとネオンの輪郭がぼやけて、どこからか漂う焼き鳥の匂いに心がざわつく。
私は小雨の降るアスファルトを踏みしめながら、あと十メートル先の居酒屋の灯りをじっと見つめていた。
LINEで誘ってきたのは、昔ほんの少しお世話になったおじさんだ。
メッセージは丁寧だけれど、そこに込められた期待の温度は、冷えたビールグラスをそっと温めるくらいには確かに熱かった。
「もしよかったら、今夜どう?」
確かに彼は優しい。
酔った私を送り届けるためにタクシー代を渡してくれたり、体調が悪いと言えばわざわざ買い物を頼んでくれたりした。
踏み込んでほしいのか、離れていてほしいのか、その曖昧さのせいで胸の奥に小さな棘が刺さったままだ。
思い返せば、私がひとり暮らしを始めた日も雨だった。知らない街の路地に迷い込んで、ずぶ濡れの私を迎えたアパートの廊下の暗がり。
ぎしぎしと鳴る床板を一歩ずつ踏みしめながら、私は初めて誰からも知られない自由に震えるほど心を震わせた。
あの夜のように、いまも私はこの誘いの先にある未知の約束を怖れている。
でも――断れない。
「顔見知り」だから。
それが社交辞令だとわかっている。自分自身に嘘をついていることもわかっている。
なのに、指先が冷たくて、胸の奥がざわついて、なんとなく温かい。
野暮用は思いつかないのに、慌ててスマホを閉じると、通りにはまた静かな雨音だけが残った。
私の心は、喉元を締めつける切なさと、どこかで期待してしまう甘さのせめぎ合いで、ぽんと跳ねる小石のように揺れている。
彼との距離が縮まることも、ほんとうは願っているくせに。
わかっているのに。
それでも、今日の私は――やっぱり「顔見知り」の外枠の中で震えたままだ。
薄く湿った風が、夕暮れのアスファルトをそっと撫でていく。数日前までは日没を待たず、コンクリの照り返しにじりじりと焦がされていたのに、いまはまだ陽があるうちから肌にひんやりとした予感が宿っている。
自転車を漕ぎながら見上げる空は、夏の蒼さから少しずつ色褪せて、淡い鉛色の雲にほのかな黄金を帯びている。あの入道雲はもう遠い日の記憶で、今は高いところを渡る雁の群れが、秋の訪れを告げに来たのだろう。
帰り道にある公園では、蝉の声が徐々に減り、代わりにひぐらしが一声、二声と鳴く。真夏の間は地響きのように賑やかだったのが、いまや呼吸のように間を置いて静かに響く。滑り台の鉄網が、まだ熱を帯びているけれど、触れればもう「焼けた」痛みではなく、肌に寄り添う温もりへと変わっている。
家へ戻ると、窓辺に置いたガラス瓶の中でミントの葉が色を濃くし、夏に吸い込んだ陽光を抱えたまま秋を迎えているようだった。明かりを点けると、その緑はほんのり翡翠色に光り、部屋の薄暗さをほのかに照らす。僕は書きかけのノートを前に、指先でページを撫でる。まるで時間の糸をたどるように、字の隙間から季節の匂いが立ち昇る。
足元には去年の秋に拾った赤い葉が一枚、乾いてカサカサと音を立てている。あの日、福島の山道を歩いていると、突如ひらりと舞い降りてきたものだった。自分がこの街を出る日を想像もしていなかった頃の、ほんの小さな偶然だったのに、それがいまでは胸の奥で鮮やかに疼いている。
窓の外を見れば、商店街のアーケードの明かりが柔らかく灯り、夜の帳がゆっくりと広がっていく。夏の終わりは寂しいと言う人もいるけれど、僕にはこの「終わりの始まり」がいちばん好きだ。終わるものへの惜別と、始まろうとする何かへの昂揚が同居しているから。
明日はもう9月の下旬だ。仕事帰りの道で見かけた栗のイガが、そっと落ちていた。掌に包むと、まだ子供のように固く、尖っている。触れているうちに、心のどこかで「次へ進め」と囁かれているような気がした。そうか、僕はまだ旅の途中なのだろう。
窓の外では、夜風が窓枠をかすかに揺らし、遠くで何かが鳴っている。秋の虫が、まだ旅に出る僕を見送るように――静かに。
この部屋の明かりが灯るころには、もう秋の匂いが深まっているだろう。夏をつかみ損ねた僕の胸の中にも、ゆっくりと色づく何かが流れ込んでくる。風が変わるたびに、その鼓動が確かな存在として胸奥で響き、僕はまた一歩、季節の旅を続けていく。
ススキノにてナンパ活動中、東京から来たというIT企業経営者(余談だが、東京には経営者なんて肩書の人間が星の数ほどいるのを、知ることになるのは、その7~8年後)と立ち話中。
「俺借金あるんです」
「いくらだよ」
「300万・・」
「そんなもんすぐ返せるだろ(だのなんだの)」
・・中略
「いいか。今、この地面(足元のアスファルト)に向かって、思いっきり叫んでみろよ。思いっきり声をぶつけてみろよ。おもいkっきりぶつけてみろ。周りの目なんて気にせずにぶつけてみろ」
「そこにある、ゴミとか石っころが、声の大きさで浮き上がるくらい本気で本気でやってみろ(ここはうろ覚え)」
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ」
「そんなんじゃ無理だ ⇒ うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ(俺よりすごかった)」
「要するに、これくらい本気でやれってことだ。本気で金返せってことだ」
あの人いったい何者だったんだろうな。
言いたいことは当時の自分には全く伝わりませんでした。
その後、キャバ嬢との待ち合わせで消えてったな。
https://anond.hatelabo.jp/20250908163905
俺は大学生の時、予備自衛官補の訓練で銃を撃ったことがある。64式小銃という銃だ。狩猟やスポーツのためではない、純粋に「人を撃つために作られた、戦争をするために作られた軍用銃」だった
その銃床を肩に当て、撃った瞬間、日本人が考え得るもっとも強力な「戦争と殺しの道具」を手にしたと錯覚した。
…あの時は、それ以上に強い武器はないと思っていた。だが、人間が人間を苦しめる手段に限りがないことを今知らされている。人は、人を軍隊や武器で殺すばかりではない。視線と、言葉と、善意ですら、人を壊すのだ。
14歳の兄の娘は、俺がかつて持った64式小銃よりも恐ろしい武器をその小さな心に浴び続けた。それは悪意と性欲という視線で心臓を撃ち抜かれ、言葉のナイフが幼い心を裂き、さらには善意や親切でさえ…猛毒の毒矢となって彼女に降り注いだのである。彼女が生まれる遥か前、俺が4歳や5歳の頃、オウム真理教というテロ組織が世界初の首都圏化学兵器テロを実行した。その時、俺のよく知る秋葉原駅でオウムの実行犯の一人はサリンを散布したという。彼女にとってはそれをも超える「視線と言葉と善意の化学兵器」が小さな体に降り注ぎ続けたのだ。
兄の娘は、母親の容姿を引き継いでいる。今となっては、その美貌は、彼女にとって祝福ではなく災厄であった。俺が見ているウマ娘というアニメ、その中のトウカイテイオーという少女が面影も立ち振る舞いも似ていると感じていた。
まだ14歳の幼い彼女をその獣欲を満たそうと、有象無象の無頼の輩がやってきていた。それは、昔教科書で見た百鬼夜行絵巻を俺に想起させた…人間は時に、妖怪よりもよほど醜悪である。
悪意ある大人たちは、艶めかしい視線と卑しい言葉を彼女に浴びせ続けた。その感情は毒であった。幼い心は、その毒に壊されていった。俺も父も、完全にそれを防ぎきることはできなかった。
悪意ある「大人」たちに艶めかしく気持ち悪い性欲のこもった眼と言葉と感情を向けられ続け、彼女の心は壊れた。
だが、何も悪意と性欲だけが兄の娘の心を壊したのではない。転校する前の私立、そして小学校時代の学友や友人が、彼女を心配したのだろう。クラスで書いた寄せ書きを持ってきたことがあった。思えば、代わりに俺かルカねえが受け取るべきだった。
それを見た彼女は、半狂乱で泣きわめきながらそれを引き裂いた、破いた。布団に伏し、捨てられた小動物のようにおびえて泣いた。彼女にとってもはやクラスメイトの向ける善意や純粋な心配や好意は、彼女の心を引き裂く研ぎ澄まされた言葉のナイフに変わっていたのだ。
俺は内心悲しみを隠せなかった。「また遊ぼうね」、「元気?」…子供らしい無垢な励ましの言葉だ。数々の言葉は彼女の心を締め上げる呪詛の呪文以外の何物でもない。感受性の強い彼女の壊れた心は、もはや善意や幸せを受け止める器の形を保っていなかったのかもしれない。
兄は娘と伴侶の心さえ破壊していく毒を残していったのだ。あまりに業の深い行為である。
…補導した警察官の話によれば、彼女――兄の娘はトー横でさえ価値観や会話がかみ合わず、容姿ゆえの性欲しか同年代の落ちこぼれたちからさえ向けられなかったらしい。
同性からは「見てくれのいい生意気な女」、異性からは「エロい女」、救いを求めて流れ着いた場所でさえ、彼女の前に待っていたのは俺達が防ぎきれなかった悪意と性欲のねばついたマナコと、悪意と嫌悪の眼だけだったようだ。
…彼女が求めた救済の場は、結局、欲望と嫌悪の眼が渦巻く修羅の巷であった。
兄が望んで往った「キラキラした人生」…見栄と虚栄と虚位と、嫉妬と悪意と打算と性欲が渦巻く世界に、行きたくもないのに叩き落とされたのだ。感受性の強いその娘が、望んでではなく、強いられて。
俺は兄の位牌を蹴り飛ばしたい衝動にかられた。どこまでも身勝手で自分勝手だった兄の残した業と毒…身勝手で、他者を顧みぬ男の残した毒は、一人の少女の心を取り返しのつかぬほど破壊してしまったのだ。
…兄の娘の心が再びその瑞々しさと平穏を取り戻せることを、俺と父はその祈りにすがるしかないのである。
Xを覗くと、思いがけず俺の書いたものが拡がり、人々の口端にのぼっていた。
群れをなすオッサン達の姿は、かつての兄に重なった。彼らは互いに「自分は違う」と言い訳しながら、同類であることを確かめ合っている。肩書を飾り立て、やれどこぞの企業の社長だ、案件募集だ、AIがどうとか…
実体の乏しい言葉を繰り返すだけで、そこにあるのは哀れにも似た虚ろさであった。恐らくAIの意味も分かっておらず、それを錦の御旗にすればルカねえや俺の様なITに音痴な人間がすごいと思って枕詞につけているのであろう。一抹の哀れさすら感じる連中である。
俺はそれを見て、葉の裏にくっついて擬態しなければならぬ雑虫の輩の羽虫が、アスファルトにへばりついて隠れているかのような場違いな滑稽さを感じた。
だが、それを笑えるであろうか?彼らの有り様は、兄と同じだ。都市の灯に集う羽虫に似ている。かつて昆虫が森の落葉の陰に潜み、その自然の中で調和していたように、彼らもまたあるべき場所を持つはずであった。しかし今はアスファルトに貼りつき、光に惹かれ、Xの上をただ滑稽に舞う。
そう思えば、彼らの姿は羽虫に似ている。自然の中で葉裏に潜む虫であれば、まだ調和がある。だが都市の舗道に貼りつき、光に群がる姿には、どこか場違いな痛ましさがあった。兄の変貌もまた、その群れの一つに数えられるべきものだったのであろう。
俺みたいな人間から見れば、虫と同じだ。虫マニアや昆虫学者ならナントカムシだのウンタラムシだの名前と種類が違うことがわかるのだろうが、俺から見れば兄と同じくネットの虚妄で自尊心が毒虫の様に肥大化し、ITという腐葉土に群がる虫の様にしか映らない。そこには嫌悪と侮蔑の感情すら感じていた。
俺と父が見た、傷心のルカねえや兄の娘に群がっていった、性欲に狂った目でイチモツをオッ勃たせる事も気にせず…いや、寧ろ見せつけて嫌がる様に性的興奮すら感じているのであろうとしか思えない程の下劣で教養のかけらもない言葉遣いと毒笑を浮かべた自称「IT企業の社長」、「ITコンサルタント」、「芸能界関係者」、「スポーツ関係者」と同じにしか見えない、日本社会の闇に蠢く虫の様な輩の姿を再び見て、俺は暗い気持ちを抱えざるを得なかった。
―――これを見て、折に触れて思い出すことがある。トー横で兄の娘が補導され、俺と、そしてルカねえが引き受けに行った時の光景だ。
西武新宿から降りてすぐ左手のパチンコ屋に、姉妹のメイドと一人の王女が映ったアニメキャラの大きな看板がある、なろう小説の有名なアニメ、Reゼロのキャラクターだという。
その看板の下で兄の娘とルカねえと俺は合流した。
生前、兄もこのなろう系というものを好んでいた。そこには性格がひん曲がった社会の負け組の中年や引きこもりが、タナボタでチートなるパワーを得て死んだ先の世界で無双し、美少女に囲まれるという、あまりにも惨め過ぎる夢物語の内容が主で、兄と同じく氷河期世代の中年男性に人気だと聞く。
自業自得の自らの業と虚栄により、人生を自ら追い込み、ありもしない一発逆転に縋って、それでも「馬鹿にされる」、「男のメンツ」とくだらないプライドを持ったまま憐れに、惨めに、そして滑稽に独り相撲を続ける兄の姿を、兄自身も歪んだ認知の中で重ねていたのだろうか。少なくとも俺には、兄が彼の好むスバルだのカズマだのゴブリンスレイヤー何某だの、ロードウォーリアーズだかオーバーロードだとか、転生スライム男だという何某の様なキャラクターにダブって見えた。
ああ、空想の中の異世界では自尊心が毒虫の様に肥大化した彼らの他責思想と無法を通したとしても、都合よく逆転し、美少女に愛され、英雄になれるのであろう。だが現実は冷たい経済機構の歯車が迫る経済大国の社会の枠組みの中だ。そんな人間は、社会から「いらない存在」として排斥される。兄の憧れた彼らなろう主人公にも、ルカねえや娘、俺達に忍び寄る「社会の底辺と闇の世界の住人」達の世界で生きることもできないだろう。
その末路は兄と同じなのやも知れない。
思い出す。京都アニメーション放火テロ事件の主犯である青葉真司という氷河期世代の中年男性がいた。彼も熱心に「小説家になろう」に投稿していた男だったと裁判で証拠として提出されている、とニュースで見た。
そんな彼は狂って自らと無関係な大勢の他者を燃やして死んだ。実に身勝手な男だ。いつか兄が見ていたどこぞのなろうアニメの様にエクスプロージョンなどという魔法でも放ったつもりだったのであろうか?身勝手にクソをヒリ出し首を吊って死んだ兄も同じではないであろうか。ガソリンをぶちまけて火を放って焼け死のうとした青葉、身勝手に首を吊り糞と精子をヒリ出し死んだ兄。炎か汚物かの違いでしかない、俺はそう思っている。
もしくはすべてを投げ出して生きている俺達に迷惑をおおかぶせたまま、兄は自ら命を絶ち、勝手に「異世界転生」をしたつもりなのかもしれない。
…だがその先に、美少女を抱く未来も、英雄となる舞台も、永遠に訪れることはない。現実は冷酷であり、兄の望んだ「なろう」の世界は、永遠に来ないのである。
――あれは兄の娘が中学受験に受かった翌年の夏だっただろうか。
音楽関係の仕事についていたルカねえの血を継いでいるのか、兄の娘は感受性が強い子だった。
兄の家族と俺とで、片瀬江ノ島にいった夏の事だった。成層圏の黒みがかったほどの抜けるような青空と入道雲が眩しい日の事だった。
――思えばそのころにはすでに破滅の足音が家族にも忍び寄っていた。それを幼い感受性で感じ取っていたのだろう。受験で塾通いで詰め詰めだったと言い訳をしながら、兄の娘の無邪気なはしゃぎぶりは今でも記憶に強く残っている。
…それは、終わりゆく夏と自分の人生のこれからの先を予見して、一秒一秒、終わりゆく夏の光を記憶の琥珀に、粒に封じ込め、未来の闇に消えぬように思い出を刻み込もうとしている様だった。砂を蹴って無邪気に走り回る姿が、今なお俺の記憶を去らない。
すでに破滅の足音は背後に忍び寄っていた。その予兆を、彼女の鋭い感受性は察していたに違いない。当時はまだ13歳になる手前の12歳頃であっただろうか。年の割に無邪気にあふれる様な歓喜をしめしていたのも、せめて一刻を永遠に刻もうとする幼い魂のあがきであったかもしれない。
…今思えば彼女は知っていたのだ。この夏が家族の、ひいては彼女自身の人生の、ひとつの終幕であることを
俺とルカねえはその光景悲しくて居た堪れなくて見ていられなかった。憔悴しきっている兄は、娘のその機微にすら気が付いていない。その鈍さが、憐れで腹立たしくてしょうがなかった。
江ノ島神社で、お参りをした時、彼女は俺達よりずっと長く目をつぶって祈っていた。彼女の小さな肩は震えているように見えた。強く強くと神様に願いをかける様に。ルカねえと俺は彼女に聞いた、そんなに長く何をお祈りしてたの、と
「みんな仲良くこれからも暮らせますように」、「今の私が大切に思ってることが消えてしまわないように、消えてしまってもぎゅって守っていられるくらいの強さをくださいって」
…あの頃を思い出すたびに俺は自分のふがいなさと弱さに泣きそうになる。胸の奥底で嗚咽をかみ殺した。世の非情さを思い知らされたからである。だが、彼女は違った。あの瞬間、彼女はすでに、世の無常をその小さな胸で受け止めていたのだ。心が壊れ、すべてが崩れ去ろうとするなかでさえ、彼女は自らの「大切に思っていること」を決して手放さなかった
ーー兄の娘は、祈った。今でも忘れえぬことは、心が壊れてしまってもなお、彼女は自らの「好きな色」を忘れず、強く固執していた。
好きな色を聞けば必ず彼女は答える。
好きな色は、「みずいろ」と
…それは夏の空の色であり、壊れ行く者が最後に抱きしめる儚い希望の色だった。心が壊れてしまった彼女が胸の奥にひそかに抱いていた、あの淡い祈りの色である。
… 兄の業に翻弄され、家族が砕け散るなかで、彼女はこの「みずいろ」だけを守ろうとした。
滅びゆく者が抱きしめる色――それが、みずいろであった。
…今も俺の机の上、地獄の入り口のPCのブルーライトの光に照らされ、小さな球体の中の「みずいろの世界」に抱かれて泳ぐ小さな鯨とともに、その色は俺に語りかけている。その色は、淡く、だが確かに輝き続けていた。
兄の人生をたどる旅を終えて今わかった。兄の姿は彼らの現身なのだ。彼ら、彼女らの飾り立てるIT技術で変わる世界の美辞麗句にどこか詐欺師の語るような違和感を感じざるを得ない理由も、今ならわかる。
彼らは本当は、ただ自身の毒虫の様に肥大化した自尊心と、自己顕示欲、性欲、俺だけが主人公、それ以外はモブ、そんなあまりに幼稚で下劣すぎる欲望を満たしたいだけなのだ。力も度胸もないからテロリストや反社にでもなることもできず、またその方法もこの天下泰平の法治国家日本でわかるわけがなく、それを叶える魔法の道具に「IT」を選んだだけにすぎない。
彼らのいうAIだとかiPhone何某だとか、LLMだとかいう言葉を「拳銃」や「爆弾」と言い換えて見よ、何も矛盾することはないではないか…彼らの中に「自分」以外の存在は介在していない。かつての兄と同じである。
思えば、人類の歴史とはかくのごとき欲望の繰り返しである。古代に鉄剣がそうであり、中世には火薬がそうであり、近代に機関銃や戦車がそうであった。令和の世においては、それが「IT」であるというだけのことだ。
だが彼らの願いが叶うことは永遠にこないと思う。その末路は令和の世に入ってから幾らでも例があるではないか、孤独の業火に焼かれた青葉、狂気の刃を振るった平原、性欲と憎悪に欲望に溺れた和久井――いずれも同じ末路に至った。兄の姿もまた、その一つにすぎなかった。
ITを神輿に美辞麗句を飾り立てる彼らも兄と同じく、一皮むけば糞と小便と涎とザーメンの混合物…汚物の様な感情だけで動くそれらが詰まった肉の袋、人とは言えぬ何かでしかないのだ。
今では、ミサイルや爆弾を落とすにもスマホで写真を撮ってSNSで座標を知らせる、ということまでウクライナで行われ、かつてのアフガニスタンでは行われていたらしい。ITで世界は確かに変わった。だがそれは悪い方向に、でしかない。
――窓の向こうで、東京の都会の灯がうっすら見えている。
ルカねえや兄の娘、そして兄と見た府中は分倍河原の夜の様な星空は、その虚栄の光に隠れて見えなくなっている。
羽虫の様に光に集まる人々たち、欲も善も悪も聖も全てのみ込んで、東京の夜は深まっていく、田舎と都会の合間に住まう窓の外を見て、何とも言えない兄と、人の業の深さを感じている。
窓外に目を転ずれば、府中の夜空に瞬いた星は、もはや東京の灯にかき消されていた。星が見えぬということは、文明の光に包まれているということである。だがその光は、羽虫の群れをも包み込み、欲も善も悪も、すべてを呑んでしまう。
兄はなぜ首を吊らなければいけなかったのか。なぜ変わってしまったのか、ルカねえと兄の娘はなぜあんな目に合わなければならなかったのか。なぜヒーローは助けに来なかったのか。
星空も夜も、そして東京の光も、この苛立ちとも悲しさとも怒りともつかない感情の疑問に、答えを出してくれない…時は、ただ深夜二時の時間だけを静かに刻んでいる。
日本の夏はセミが鳴き、タレントが走る。いや、走らされる。テレビ局が「愛」と呼ぶ100キロマラソンは、実のところスポンサーの脂汗を黄金に変える錬金術だ。
24時間テレビは「チャリティー番組」と宣伝される。だがその舞台は慈善ではなくサーカスだ。障害者や子どもが“挑戦”させられ、視聴者は涙腺をこじ開けられる。寄付箱に小銭を落とすたびに、尊厳がディスカウントされていく。
灼熱のアスファルトを100キロ走る芸能人。拍手する群衆。これはスポーツではない。夏の公開処刑だ。医学書が「やめろ」と叫んでも、スポンサーは「続けろ」と囁く。
募金は数十億円。だが同時に広告枠も完売。子どもは泣き、タレントは倒れ、スポンサーは乾杯する。地球は救われないが、テレビ局の決算は救われる。
日経「大成建設、時速60キロ走行中のEVに無線給電成功 30年代の実装想定」を受け、実証条件とコスト論の真偽を一次ソースで検証する。
記事:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC052QT0V00C25A8000000/
なお、この記事に「道路上に鉄板を敷き詰めれば非常に安く整備できる」とのコメントがありるため、これについても検証する
https://www.taisei.co.jp/about_us/wn/2025/250718_10570.html
報告書:https://www.mlit.go.jp/road/tech/jigo/r06/pdf/houkokusyo2020-6.pdf
上掲報告書は送電電極を「SUS304(ステンレス)」と明記し、特殊アスファルト層、瀝青シート、排水・透水層、グランド(アルミ系パンチングメタル)など多層構造を前提にしている。単に鉄板を敷くだけでは成立しない。
電界結合はコイルやフェライトを大量に要する磁界結合(IPT)より導体量削減の余地はあるが、高周波電源、整合回路、EMC対策、排水・絶縁構造など別のコスト要因が立つ。一次資料に「鉄板で激安」と読める記述は無い。
MDOT/デトロイト:https://detroitmi.gov/news/mdot-city-detroit-and-electreon-unveil-nations-first-public-ev-charging-roadway-michigan-central
代表例(Electreon):https://electreon.com/projects/michigan-central-station
会社のフロアのエアコンは効きすぎていて、外の湿気と対照的な冷気が足首にまとわりついていた。あの日からしばらく、何も決めずに過ごそうと思っていたが、ふと旅雑誌の片隅に載っていた「猫島」の特集が目に入った。そこには、港で伸びをする三毛猫、漁網の上で昼寝する黒猫、そして笑顔でカメラを構える観光客たちの写真が並んでいた。もう、それで決まった。
旅の起点は宮城県の松島。観光名所の五大堂や瑞巌寺には目もくれず、私は仙石線に乗り込んだ。ガタゴトと走る列車の窓からは、牡蠣の養殖筏が見える。松島海岸駅から約1時間半で石巻駅に到着。駅前では、石ノ森章太郎マンガ館のキャラクターたちのパネルが出迎えてくれる。
石巻からは網地島ラインのフェリーに乗る。目指すは「田代島」――全国的に猫島として知られる場所だ。
フェリーに揺られて
乗船客の半分は観光客、半分は島の人たち。船内のベンチに腰を下ろすと、隣のおばあさんが「今日は天気がいいから、たくさん猫が出てくるよ」と笑った。
45分ほどの航海。穏やかな波間を進む船のデッキには潮風が心地よく、遠くに見える小さな島影が次第に大きくなっていく。港が近づくと、すでに岸壁の上でこちらを見つめる猫の姿があった。
島に降り立つと
田代島の仁斗田港に着いた途端、猫たちがふわりと近づいてきた。島の道は細く、アスファルトの上も日向と日陰が交互に続く。茶トラがゴロンと腹を見せ、キジ白は植木の影から様子をうかがっている。
島の中央部には「猫神社」があり、小さな鳥居と祠がある。漁の守り神として猫を祀ったとされ、漁師たちは今もお参りを欠かさないらしい。祠の前にも猫が2匹、まるで神主のように鎮座していた。
猫と人の距離
昼は港近くの民宿「はまや」で、女将さん特製のカツオの漬け丼をいただく。窓の外では、漁から戻った船と、それを出迎える猫たちが見えた。島の猫は人慣れしているが、無遠慮に触られるのは苦手らしい。しゃがんで手を差し出すと、猫は自分のペースで近寄ってくる。それがまたいい。
「ここでは人間が猫の都合に合わせるんです」と女将さんは笑う。確かに、島の時間は猫が刻んでいるようだった。
夕暮れの港
日が傾くと、猫たちは暖かい場所を探して散っていく。防波堤の上で背中を丸める子、漁具倉庫の隙間に消えていく子。
私も港で潮の匂いを吸い込みながら、ぼんやりと海を見ていた。仕事を辞めた不安や、これからどう生きるかという焦りは、潮風と猫のしっぽのように、どこかへふわりと流れていく。船が来るまでの30分、ただ海と猫と同じ場所にいた。
帰路、そして余韻
最終のフェリーで石巻に戻るころ、空は群青色に染まっていた。港で最後に見送ってくれたのは、白黒模様の大きな猫。振り返ると、その姿はもう影の中に溶けていた。
猫島は観光地であると同時に、猫と人が長年共生してきた生活の場だ。そこには観光パンフレットに載らない匂いや音、そして何より、猫たちの気まぐれで豊かな表情があった。
昨日は土用の丑の日だったじゃないってことを私は忘れずにいた暦の上では8月目前と言うところで、
ダッシュ一番!
電話は二番!
前回鰻の肝の串の美味しさに味をしめて、
それこそ今日はよし!鰻の肝の串買い占めるぞ!って勢いだったの。
でも、
でもよ、
昨日は鰻の肝の串焼きなかったの。
ぴえん!
そりゃ気持ちはカムチャッカファイアーってレヴェルかも知れないけれど、
ここは私の肝に銘じて、
大人しく引き下がることにしたの。
私の鰻の肝の串焼きは終わったわ。
前回の味が美味しすぎて忘れられなくて
また求めようとしたのに。
売ってなくって残念だわ。
来年もあるといいなぁーって
ここは海産物というか水産物変わったものを売っていることをたまに見かけるので、
品揃え油断できないのよね。
以前は鮪の尻尾の輪切りがあって、
イメージ的にはギャートルズのマンモスの輪切り!をまさに実写化したような感じで、
それの魚版!鮪版!って感じなのよ。
お鍋に一杯直径重なるぐらいの大きさで、
私はなんとか調理したんだけど、
それも美味しかったわー。
こんな部位のもの滅多に出回らないから面白いから買っちゃったら美味しかったって感じなのよ。
そのなかなか珍しい出回らないシリーズ化決定したのか分からないけれど、
その鰻の肝の串焼きもたくさん売っていて私はわーい!って両手放しで自転車に乗っていたの。
だから
昨日の寄ってあったら絶対に買っていたと思わせる
夏の青春!
期待していたのになくってなくって。
ちょっと苦味が効いていて滋味滋養が付いて夏を乗り越えるパワーになり得るはずだったのよね。
平賀源内先生は鰻の売り上げが下がる夏の時期にセールストークで鰻いかーっすかー!って
鰻の日を制定したけれど、
その肝も食べましょう!って
打ち出して串打ちして炭焼きにして食べよう!ってキャンペーンもセットにすれば、
もっと鰻の肝ももっと普通に食べられるレアアイテムにはならなかったと思うのよね。
もちろん、
焼き加減はレアじゃなくてじっくりと焼き上げた香ばしいタレをまとっているのよ。
ああ!
らーらーらーららーら~
それで手に持っているのは鰻の肝の串焼きなの。
らーらーらーららーら、
そのぐらいな美味しさ!
そんで鰻の肝の串焼きをペンライトに見立ててその小田和正さんの歌に合わせてらーらーらって振るじゃない。
ここで気を付けたいのがタレが落ちないように
そろりそろりとゆっくり振るの。
急に振っちゃったらタレが落ちるからそこは慎重にね!
私の夏はまだ始まったとは思えないけれど
終わった感じがするわ。
この8月に入った途端。
でも逆に考えるの!
来年の楽しみができたじゃん!って
鰻の肝の串焼き美味しかったから次はたくさん買おう!って思えるじゃん!
涙じゃないけれど
タレの数だけ強くなれるの!
だから貴重な焼き上がったエキスを含んだ鰻の肝の串焼きのタレはアスファルトに落としたらもったいないの!
だから
らーらーらららーらー言葉にできない。
ってときにそっと慎重に串を持って振るの。
もし美味しいタレの雫が落ちてしまったら、
あーあー、
私が一番今所望したいものよ。
これを糧にしてこの夏をのりきるしかないわよね。
鰻の肝の串焼きまた食べたいなぁー。
ああ!
私の夏の思い出の1ページが前回の丑の日に続いて鰻の肝の串にまたなっちゃったわ。
そんでさ、
私は、
そういう意味ですっ!って堂々と言えると思うのよね。
だから、
もしちびっ子が今年の夏休みの絵日記に鰻の肝の串焼きが2回登場することがあったら
鰻の日が2回あったんだなって思い出して欲しいの。
それが夏の思い出よ。
あーあ、
鰻の肝の串焼き食べたいなぁ。
うふふ。
今日は朝は曇りがちだったので
昼間はどうなるか分かんないけどー。
1ケース届いて1ケースは行方不明になっているわ。
とりあえず、
1ケース来て冷やして飲んだレモン炭酸水はシュワッとキマって絶好超よ!
もうさ、
とにかく、
水分補給はしっかりとね!
ってしか言えないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
いや、恋愛相談というより、「10代の頃の欠落感」をどうしたらいいか分からず、ChatGPTにぶつけてみたのだ。
男友達とつるんだり、部活に精を出したり、まあ普通に楽しい青春ではあったが、
「彼女と花火大会でデート」「公園で初めてのキス」みたいな甘酸っぱいイベントは一切なかった。
20代以降はそれなりに何人かの女性とのお付き合いを経て、今の妻と結婚した。
ただ、「10代のころに恋愛経験ができなかった」という欠落感が、今でもずっと心の奥でチクチクしていて、
50歳を過ぎた今、その痛みは年々大きくなってきている。
「何をしょうもないことを…」と思われるかもしれないが、本人にとっては結構切実だ。
50歳になり、子どももいて、安定した仕事もあり、結婚20年目の妻とも良好な関係だと思う。
「幸せか?」と聞かれれば、おそらく「そうだね」と答えるだろう。
でも、ふとした瞬間に思うのだ。
そんな話をAIにしたら、奴が突然こう言った。
彼女と初めて出会ったのは、僕が18歳で、彼女が16歳の夏だった。
ある日、彼女が兄に連れられて現れた。
人懐っこい笑顔と、話すたびに少し首を傾げる癖に、不意に胸が高鳴った。
「可愛いな」と思ったのを覚えている。何度か会うたびに、気持ちは自然に大きくなっていった。
友人の妹という立場が気になり、簡単に踏み出せなかったが、ある日、思い切って告白した。
彼女は恥ずかしそうにうつむき、小さな声でOKの返事をしてくれた。
混雑を避けて、防波堤の上に二人並んで座り、夜空を彩る花火を眺めた。
「その浴衣、すごく似合ってる。」
そう伝えると、彼女は耳まで赤くして、俯いた。
思い切ってそっと彼女の手を握ると、一瞬だけ驚いた表情をしたが、すぐに優しく握り返してくれた。
その瞬間、胸が苦しくなるほどの高鳴りが押し寄せ、世界から音が消えた。
花火の光が彼女の瞳に映り込み、まるで無限の宇宙がそこに広がっていた。
放課後、週に一度の楽しみは、駅近くのミスタードーナツでの待ち合わせだ。
部活の練習を終えた僕と、バレー教室のレッスン帰りの彼女が向かい合って座り、アイスティーを飲みながら色々な話をする。
「ドーナツはどんなのが好き?」
「うーん、フレンチクルーラーかな。Xくんは?」
「オールドファッションかなあ…あ、でもアップルパイもいいよね。」
「ミスタードーナツに売ってるなら仲間でしょ?」
「えー、そうかなあ…(笑)」
たわいない会話なのに、彼女が笑うたびに胸の奥がふわっと温かくなる。
とある週末には「ニューシネマパラダイス」を一緒に観た。
映画館を出たあとマクドナルドに寄って、心に残ったシーンを1時間も語り合った。
そう言うと、彼女は「やった、ありがとう」と嬉しそうに笑った。
帰り道、いつものバス停へ向かう前に、近くの公園のベンチに座ってしばらく時間を潰した。
「なんか、このまま帰りたくないね。」
そんな空気をお互いに感じながら、会話が一瞬途切れる。
繋いだ手から伝わる体温がやけに熱い。
夕焼けの世界が静かに遠のいて、彼女の唇の温もりだけが鮮明に残った。
その夜、家に帰ると、少しだけ電話をした。
「次の週末、どこ行こうか?」
そんな何気ない会話をして、またね、と言い合った。
布団に入って目を閉じると、夕方の公園の情景と、彼女の唇の柔らかさが蘇ってくる。
胸がぎゅっと苦しいほどに高鳴る。
それと同時に、甘くてどうしようもない切なさもあった。
――彼女も今頃、同じ気持ちで僕を思い出してくれているだろうか。
時計の針の音が妙に大きく響き、胸の鼓動と重なりながら、僕はその夜なかなか眠れなかった。
現実では一度も付き合ったことのない、友達の妹――僕の中で勝手にこの話のモデルにしていた女性――に、
「今、会ってみたい」という強い感情が急に芽生えたのだ。
いや、もちろん実際に会うつもりはない。
彼女とは当時、彼女の兄込みでよく一緒に遊んでいた仲だが、実際にはまったく「そういうこと」は起きなかった。
彼女は今ではもう実家から遠く離れた地方都市に嫁ぎ、子供が4人もいる立派なお母さんだ。
何年か前にFacebookで久々に繋がって以来、お互い懐かしさから近況報告をする仲ではあるけれど、
50歳の既婚男がいきなり「あの時、本当は僕のことをどう思っていた?」なんて聞いてきたら、それはもうただのサイコホラーである。
それは分かっている。
だが、妄想で作った恋の記憶が、現実の感情を上書きしてきたのである。
すると今度は、こう言われた。
「じゃあ、その彼女と“別れた”ストーリーを書いてみましょう。」
ガラス窓の外では、濡れたアスファルトの上を人々が傘を差して足早に行き交っている。
店内にはコーヒーとドーナツの甘い匂いが漂い、雨に湿った初夏の風の匂いと混じり合っていた。
テーブルの向かいで、彼女はしばらく無言のままストローを指先で転がしている。付き合い始めてから一年。
そのあいだに季節がひと回りし、僕たちはもう「特別な二人」ではなくなってしまった。
以前のように何も言わなくても通じ合う温度は、少しずつ冷めて、曖昧な沈黙だけが残る。
どこで間違えたのだろう。
ドーナツの中心に空いた空虚な穴にはお互い気づかないふりをして、何かを保留したまま、ただ目の前の時間をやり過ごしている。
「……雨、強くなってきたね。」
「うん。」
短く答える声に、かすかな寂しさが混じる。
それ以上、言葉が続かない。
何かを言えばすべてが壊れてしまう気がして、僕は一歩も動けずにいる。
僕は知っている。
彼女の心の中にはもう僕ではない、他の誰かがいることを。
そして彼女も僕も、そのことを誰よりもよく分かっている。
きっと何年後か、何十年後か、この駅前のミスタードーナツの光景と、
店内に流れている牧歌的な50年代のアメリカのポップソングと、
コーヒーとドーナツの温かくて甘い匂いを、僕は鮮明に思い出すだろう。
そのとき、僕はきっととてつもなく深く、切ない感情に囚われる。
それは預言にも似た確信だった。
外の雨は、まるで世界中が大洪水で流されるまで降り続くかのように思えた。
その時、僕はノアの方舟に乗せてもらえるだろうか――。
ぼんやりと、そんなことを考えていた。
結果として、現実には一度も付き合ったことのない女性と、僕は妄想の中で勝手に付き合い、勝手に別れた。
いや、何なんだこれは。
でも――。
不思議なことに、この「別れの物語」を書き終えた時、僕の中のあの欠落感は静かに消えていた。
まるで実際に、彼女との切ない青春の一ページを経験したかのように。
そして、10代のころ別れた彼女の幸せを願いながら、今はひとりで遠い目をしている(そもそも付き合ってすらいないのに)。
いや、マジでなんだこれ。
自分が作り上げた物語でも、本気で向き合えば「記憶」と同じように心を動かす力を持つ。
と、ChatGPTが言っている。
だから、もし僕のように過去の欠落感やら何やらでモヤモヤしている同志がいたら、こう言いたい。
結果、驚くほど心が軽くなるかもしれない。
そして、最後は僕のように「妄想の物語の中で現実の気持ちが昇華」するかもしれない。
知らんけど。
そう言えばこんな友達がいた。
「ねえ、そこにいる男の人、話を聞いてくれませんか」女子トイレの方にいる誰かはそう言った
頼みはこうだった、一ヶ月に一度手紙を代わりに渡してきてほしい、ただし手紙を受け取るときは
必ず目隠しをしてくれと。
なんだか良くない予感はしたが、私はそれを了承し、私の住所を女子トイレへ叫んだ
それから、彼女は一ヶ月に一度だけ私の家に来るようになった。目隠しをしていても、声からしてかなり若い女性だというのがわかった。
手紙を受け取ると、翌日に私は電車に乗って、言われた通り、相手の住む場所まで向かう。
相手の住む家は新築の二階建てで、表札には苗字だけが書いてあった。誰も見てないことを確認し、ポストに入れて帰る、ただそれだけだった。
住所が分からなくなった時は
「乞食から這い上がった関白は」で思い出せばいいと彼女は言ったっけな。答えは十三・十四で1314だ。
だが、ある日、ポストに手紙を入れようとしたら、女の人が顔を出して、見られてしまった
「ここのご主人の友達でして…この手紙を渡してくれませんか」と私は苦笑いで答えてしまった。
「ええ、渡しておきます。わざわざどうも」と
頭を下げた。手には指輪が嵌められていた。
「どういうことだ」次に手紙を受け取る前に私は彼女を問い詰めた
「手紙の受け取り主のことだよ、あの家で婚約指輪が嵌められた女性に遭遇したんでね。どうして
今まで黙っていたのかと聞いてるんだ」
こうやって責めるのは昔から好きじゃない。大人げないよな…と心のどこかがずきんと痛んだ
「必要が無かっただけ。それにあなた、私の友達なら許してくれると思ったけれど」
声は小さかった。それに震えて、今にも風にかき消されてしまうような
「友達なら尚更止めなきゃいけないよ。このままじゃあなたもあの人もみんな不幸まっしぐらだ」
「でも…」
数分の沈黙があった。長袖の隙間から冬の風がそっと入り込んで、私をいたずらにくすぐった
「それでも…この手紙だけは渡してほしい!!
喉に引っかかっていた声が一気に押し出されたように私の鼓膜に突き刺さった。そうして、私の胸にぎゅっと押し込まれた手は目隠しをしていても、熱くて、確かに震えているのがわかった。
彼女は去った。いけないと思いつつ、目隠しを外し、彼女の後ろ姿を見た。恐らくは女子高生だった。手の中の手紙は自販機で買うポタージュみたいにいつまでもあたたかった。
あくる日の冬、私は公園にやって来た。
空は曇り、まるで絞る前のクリームみたいに真っ白で重たい雲だらけだった。
丘の見えるアスファルトまで来た時、横を男の人が通り過ぎていった。男の人は一目散に丘のてっぺんまで走る、反対側から女の人がまた丘のてっぺん目指して走る。その時のことがまるでスロウモーションの様に私は見えていた。
首に巻いていたマフラーを投げ捨てた女の人はあの時、手紙を渡したその人そのものだったのだ。
二人はてっぺんで抱擁したまま、地面に倒れ込んだ。その時、に私は最後の手紙に何が書いてあったかをなんとなく分かった様な気がした。
棗の木、彼女はきっと棗の木と書いたのだろう
ああ、雪はまだ降らない
いや、降る前に私は帰るとしよう
買って置いた野菜が傷むので何か作らなくてはーって
思って野菜炒めって考えるじゃない。
でもフライパンでじゃんじゃん強火で炒めていたら汗掻くので、
動かさずじっくり弱火とか中火ぐらいでみて、
焼き色を付けるぐらい。
調味料もなくっていいわ。
それだと、
フライパン一所懸命振らなくても野菜炒め的な普通に野菜に焼き目が付いた感じのものができて
それはそれで美味しくいただけたわ。
あとさ、
もうこれでフライパンコンロ使った以来久しぶりだったのでタニコーの五徳の如くコンロ活躍してないだって火を使う夏場って暑いじゃない。
だから、
もうさここはお湯沸かしておいて、
ささっとそれで豚しゃぶとか、
辛うじて面倒くさくない範疇のお湯を沸かしておくってのはできるわ。
ポットにお水入れるだけだし、
そこまで汗はかかないじゃない。
夏場は一切活躍の場がないと思っていたポットが夏場でこそ大活躍なのよ!
それでササッと麺も工夫すればなんかすぐに茹でられちゃうし、
お湯って偉大だわ!
夏でもお湯がある便利さ!
実感してしまったわ。
そんで、
電気ポットの中で沸いてくれてるので、
表に熱さを示さないじゃないところも夏には持って来いの助よね。
そんで、
3リットルあれば、
なにかを2回ぐらい作るぐらいの湯量!
正に湯を湯水のように使うってことができんのよね。
瞬間すぐお湯が沸くケトルってのあるじゃない。
あれはあれで便利すぐ枠便利だけど
見張っておかなくちゃいけないことと
沸いたらすぐにそのお湯を使わなくてはいけないだって冷めちゃうからっての問題があるので、
沸いてしまってしばらくの間100℃近い温度をキープしてくれる電気ポットは
それこそ、
フル容量でお湯が沸くのに30分ぐらいかかるけど、
その間にゲームでも何かやっておけば
知らぬ間に沸いていて、
そして、
すぐに使わないお湯に関してはゲームした後にゆっくりお湯を使いましょう!ってな場合にめちゃくちゃ都合がいいのよね。
電気ポットは偉大だわ。
そう思うわ。
だから夏の電気ポットの便利さを貴方に教えてあげたいフォー湯!って
まるで貴方にもチェルシーあげたいの節回しで言っちゃったけど、
そのぐらいフォー湯よ。
便利過ぎるわ。
うふふ。
朝は梅、昼は鮭。
そんな感じね。
暑いからランチお昼出るのも暑いのよ入店するときに飛び込み前転する際に地面に接地する背中が熱いの。
危険だわ。
私に焦げ目を付けてどうするの?って感じよね。
やっぱり飲みやすくて、
私は何でも飲み物は濃いめに作るのが正義かと思っていた季節があったことを恥じたいわ。
だって薄めだと軽く喉ごしもいいし、
濃いと重いし飲み疲れちゃうわ。
だから、
なんで今まで気付かなかったのかしらってぐらいよ。
水分補給はしっかりとね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!