はてなキーワード:のしとは
深夜に長文失礼する。
要約すると、田舎地域の健康増進法とか関係ないエリアで生活を営んでるのだが、ある居酒屋を通報したら出入り禁止の対応をされてしまった。
以下、時系列。
エリアは、福山市神辺町というところだ。飲み屋街はあるんだが、新宿みたいにネオンが瞬く飲み屋街なんてことはない。
端っこの方にやや大きめの居酒屋、仮に「だるま」とするのだが、自分にとっては憩いの場だった。
しがないリーマンの俺にとって、仕事終わりの一杯は大事だった。心の疲れを癒してくれる瓶ビールが大好きだった。おじさんに許された唯一の贅沢である。
この居酒屋のマスターも、従業員も、元気があっていいと思ってる。料理も、安くておいしい方である。通報をした今ですら、そう思う。
このだるまなのだが、唯一残念なのは、時代に逆行してるところだ。ここは全席で喫煙可能なお店なのだが……
その日も、いつものカウンター席に座り、ビールを煽っていると、厨房でせっせと働く少年が目に入ったのだ。
顔立ちでわかる。どう見ても高校生。18才くらい?いや、もしかしたらもっと若いかも。
彼はどうやら人気者のようだった。おじさん客からもおばさん客からも好かれてた。
自分も、つい調子に乗って彼にウーロン茶をおごってやることがあった。それでサシで彼と話していたのだが、いくつかの事情がわかった。
・17才になる年?
・学費を稼いでいる
この時、ふと脳裏をよぎったのは、職場で受けた健康増進法の研修内容だった。受動喫煙対策の強化とか、そして未成年者の喫煙場所への立ち入り制限だ。ここは喫煙可能店。高校生がここで働くのは法令違反である。
彼自身もはっきり言って、多くのお客さんから受動喫煙を食らってるのは明らかだった。間違いないよ、この目で見てるんだから。
自分は、一応は東京で働いてたことがあるからわかる。あの辺りの飲食店だと、喫煙店の標識設置とか、分煙とか、喫煙者と非喫煙者の隔離とか、ルールが厳しい。おそらく違反したらお縄になるのだろう。保健所や元締めの都庁が、行政罰×刑事罰の必殺コンボ☆を決めてくる。
だが、福山市神辺町は田舎なので、そんなの関係ない。多くの喫煙店には喫煙可能店の標識はないし、親子連れでも未成年入店OKである。インターネット広告だとはっきり「未成年入店不可」と書いてあるのだが。
それで、ある晩だった。自分がだるまを訪れると、その高校生が接客担当をしていた。微妙にキッチンの手伝いも。少しビールを飲みすぎた勢いで、彼に話しかけたのだ。
「なあ、お前。本当はここで働いちゃいかんのやぞ。ほかの客にも言われてるかもしれんが」
彼、少年は「え?」という感じの顔でこっちを見た。
「健康増進法って知ってるか?喫煙できる場所で、未成年は働いちゃいけないことになってるんや。お前の健康にも良くないしな」
正義の味方みたいだった。得意げに語ってた。いい年こいて恥ずかしいよな。
すると、彼は何も言わず、ただ俯いていた。その時の彼の表情を、俺は今でも鮮明に覚えている。
翌日だった。携帯に電話がかかってきた。だるまからだった。予約をする時があるので、それで番号を知っているのだろう。もう要件はわかっている。
「あんた、うちの店で何言ってくれた!(以下略~)彼は通信制の高校生で、学校に許可も取って真面目に働いてるんやぞ!あんたみたいな正義ぶった奴のせいで、あいつがどれだけ困るか分かってるんか」
一方的にまくし立てらたけど、正直気分が悪かった。そこまで何も言い返すこともなかった。「すまんけど、もう来ないで。出入り禁止です」と、電話は一方的に切られた。
だるまに出入り禁止なのは別にいい。長年通った居酒屋を失うことになったけど、自分の行為が招いた事態なんでしょうがないのだ。ただ……こちらにも矜持というものがあった。
数日後、俺は福山にある西部東厚生環境事務所と地元の警察に通報したのだ。ちゃんと実名を出して、だるまの現状を伝えた。これがせめてもの償いだと思ったんだ。
それからしばらくして、だるまの前を通ると、厨房に彼の姿はなかった。必ずいる曜日はわかってるのだが、それらの日に彼はいなかった。今では別の、見慣れない顔の若い女性が働いている。
通報は功を奏したのだ、これでよかった……と安堵した。正しいことが行われたんだって。
でも、その安堵は長くは続かなかった。あれから一ヵ月が経つけど、正直罪悪感がある。心に重くのしかかるものがあった。
あの高校生がは本当に、通信制高校の学費を稼ぐために働いていたのだとしたら?彼の職場を奪ったのは自分である。彼は今、どうしているのだろう。新しい仕事は見つかったのだろうか。自分の「正義」は、彼にとって本当に正しいことだったのか。
まあ、こんな田舎町で悩んでてもしょうがないけどさ。後悔の念がさ、しんみりと心に昇って来て、耐えられなくなって増田を書いてみることにした。何時間もかかったけど、一応はできたよ。読みにくかったろうけどごめん。読んでくれたならありがとう。
なんかさあ「ストライクかボールか、疑惑!」みたいなのしょっちゅうあるっぽいんだが、
あんなとこで人間がわざわざウンコ座りで玉をとるからその後ろに審判がいて微妙なラインを人間の目でみて判定しなきゃいけないじゃん。
なんか棒もつ人の後ろに四角い枠をドーンっておいといてそこを通過したらストライクでよくね?
ホームベース?に帰ってくる選手の対策として、1~3のベースの横に立ってる人たちと同じようにホームベースの横には人を配置するようにすればいいんだし、そいつが「キャッチャー」である必要なくね?
よくキャッチャーがピッチャーにちんちんのところで指で指示してるけどそれも別にウンコすわりであの場所でやらなくてもいいよな。
ホームベースの横に立ってる人が指示すりゃええ。
ピッチャーにボールを返す仕事もべつにピッチャーの横にボール置き場つけて百個くらいおいときゃいいよな。
Permalink |記事への反応(14) | 07:05
まず勘違いがありそうだから言うけど、大前提として、これは愚痴というより、多様性を謳うコミュニティが形骸化して、題目から外れた「排除」に向かっていることへの問題提起があるのね。思想としてもおかしくなっちゃってるというか、真の意味で多様性を打ち出すなら例外を作るのは自己矛盾じゃないですか。
だから、排除という手段を先にとったコミュニティは、活動を続ける以上は説明責任がある。それに個人間のちいさな感情とか私怨とかで大人げない行動をとるなら、それはマジで誰かを助ける以前にモラルが欠如していると思うの。
あなたはクィアではないとのことなので、つまりあなたはこの問題の枠外の人間であり、傍観者。別にわたしからもコミュニティからも責められてない。安心してほしい。
それで、家族のことだけど。
わたしも家族の言うことめんどくせー、嫌だなー、と思ったことはあるけど、全ての人にはその人なりに生きてきた上での言い分があると思うし、きちんと考えてみた結果べつに悪い人じゃないのに無視するとか、自らも加害で応戦するのってわたしとしては自分が嫌だなとおもった人たちと同じレベルに堕ちてしまうから、わざわざやりたくない。線を引いて、分かり合えない部分を表明して、なぜそんなのかを論理立てて説明する、モラハラっぽい発言があれば指摘する、を繰り返している。もちろん必要があれば身内だろうが法的措置とかあらゆるシミュレーションを想定してるよ。だから、意志が弱くて黙っていると言うより、相手が対立意見を持つ自由を認めている感じに近いかも。むしろ穏やかで硬い反抗。
泣き寝入りするなって言うの、辛かったでしょうね…わたしの家庭はまだ世間体を気にするとか、善性の果てに子供に圧を押し付けるっていう感じだったから、まだ工夫のしがいがあるなって判断したけど、暴力とか身内からのレイプとか、話が通じない家庭があるのも知っている。
じぶんはわたしが多少嫌だなと思う感情よりも、親が金と時間をかけて自分を優先し、育ててくれた苦労を無碍にすることは、巡り巡って自らの存在否定を意味すると思ったので、世間の毒親ロジックは当てはまらないと感じただけだね。
それに家族以外の人間関係は血縁や法律などの結束がないせいか、責任がないゆえに親や親戚より頼りになったこと、一度もなかったし………
なのにどうして、他人の血縁や、生まれてきたバックグラウンドに対して全否定から入れるんだろう、って思ったんだよね。個人のつらさがどんなに深刻で、どんなに親の発言が嫌と言おうが、その親から生まれたことは転生でもしない限り変えられないのに、変えられないことを憎むのってめちゃくちゃしんどいし、非効率的だなーって思っちゃった。
多分みんな自身のトラウマの投影なんだろうけど、実家暮らしでなんとか生存できているわたしに押し付けられるのもなんか困るというか、不思議だし ひとと一緒に暮らしてないとすぐ倒れたりするからかもね……実家でろ論もやってみた結果結構死と同義みたいになっちゃったし
男性が男らしさから降りることの難しさはとんでもなさそうだよなあ
アメリカとかのしょうもないゲイいじり系の外圧がある状態よりは日本はずっとマシだろうけど、それでも従来のままがいい、男としての成功に固執する人の多いこと
増田は、20代。精神科の診察室に座っていた。これまで自分が他人と同じように生きていないこと、周囲とどこか違うと感じ続けてきたことは、もう誰にも説明できないほどの負担となっていた。やっとの思いで精神科を訪れ、知能検査を受け、軽度知的障害の診断を受けた瞬間、私は一瞬の静けさを感じた。診断結果を受け入れるまでに少しの時間が必要だったが、次第に納得が湧いてきた。「なるほど、私はずっとこうだったんだ」と、自分の中で何かがつながったような感覚に包まれた。その瞬間、ふとした希望も感じた。「これで療育手帳が取れたら、障害者雇用やいろんな福祉支援サービスが受けられるかもしれない」と、わずかながらの期待が胸に湧き上がった。自分が今まで経験してきた苦しみや不安が、少しでも軽くなるかもしれない、そんな思いが増田を包んだ。
しかし、その期待はすぐに打ち砕かれることになる。
増田は療育手帳の申請を行い、知的障害者更生所で再度知能検査を受けた。その結果、精神科での診断と同様に軽度知的障害とされる数値が出た。しかし、それでも結果は「非該当」となった。理由は「18歳以下で知的障害の状態だったことを証明する資料が不足している」というものだった。私はその理由に愕然とし、困惑した。過去の自分を証明する手段がほとんどなく、結果的にそれが障害者としての支援を受けるための唯一の鍵だと思っていたのに、最初の申請は却下されてしまった。
過去の知能検査結果について、病院に行ったことはないため通っていた学校に支援者が問い合わせると知能検査は行われていたが5年で廃棄処分していると言われ、入手することはできなかった。他には、テストの結果や成績表、担任の証言書を集め、再度申請することを決意した。これでなんとかなる、そう信じていた。
再申請が受理され、知的障害者更生所で再度話し合いが開かれた。支援者も同行し、増田は自分の過去を証明するために、何度も何度も訴えた。
「私は、子供の頃に診断を受けなかっただけで、今でも支援が必要だと感じているんです。過去の成績や担任の証言で、私がどれほど苦しんでいるか分かってほしいんです」
増田は何度も言葉にしようとしたが、結局うまく伝えることができなかった。コミュニケーションが苦手で、他人に自分の気持ちをどう伝えるべきかが分からない。増田が言葉を選び、伝えようとするその過程は、いつも思うようにいかない。判定職員には、私の苦しみがどれだけ深いものであるか、どれだけ長い間その苦しみに耐えてきたのかは、うまく伝わらなかった。
支援者は、増田がこれまでどれだけ真剣に証拠を集め、過去の困難に立ち向かってきたのかを理解し、判定職員にそれを伝えようと尽力した。しかし、何度も話し合いをしても、その答えは変わらなかった。
「証明が足りません」「18歳以下の証拠がありません」「過去の成績や担任の証言だけでは、交付することはできません」
その言葉が、再び私の心を冷たく締め付けた。必死に集めた証拠や証言が、すべて無駄に終わった。再申請しても、結果は同じだった。増田はその現実に愕然とし、次第に、自分がどれだけ過去を証明しようとしても、全てが無駄なことだと感じ始めた。証拠が足りないという一言で、過去のすべてが無視され、再び壁にぶつかっているような気がした。
増田は、この世界において自分の声が何も届かないと感じていた。過去を証明する手段が限られていて、いくら努力しても結果に繋がらない現実、どんなに訴えても理解されないという事実に直面し、深い絶望に陥った。自分の気持ちを他人にうまく伝えることができない。これまでの人生でずっとそうだった。学校でも、職場でも、自分の思いをうまく言葉にできず、苦しんできた。支援者にさえ、心の奥底にある本当の苦しみや切実な願いを伝えることができなかった。たとえうまく伝わったとしても、その後何も変わらなければ意味がない。私の中で、無力感が膨れ上がっていった。
「どうして、こんなにも分かってもらえないんだろう…」
過去を証明する手段が限られていて、結局それが自分を助けるための唯一の鍵だと思っていたのに、それすらも認めてもらえない現実に、増田は深く絶望していた。自分が子供の頃は助けを求めることさえできなかった。大人になった今、勇気を出して助けを求めても、誰も相手にしてくれない。耐えられなくなった。
話し合いが終わり、再び私と支援者は帰路についた。途中、私は無言で歩いていた。支援者が少し間を置いて、静かに口を開いた。
「増田さん、もうこれ以上頑張っても、無駄だってこと、分かってるでしょ?」
私はうつむきながら歩き続けた。支援者は少し間を置いて、さらに言った。
「いくら証拠集めて頑張ったって、あっち側の決まりがあるんだから、どうにもならないんだよ。この現実を受け入れるしかない。あなたがどうしたって、この社会は理不尽だらけでできている。このことを受け入れなきゃ、あなたはこれから働くことも、生きていくこともできない。」
私はその言葉を耳にしながら、心の中で反発していた。どうしても受け入れたくなかった。けれど、支援者の言葉が、どこか冷たく現実を突きつけてくるのを感じていた。
納得するしかない。唯一の味方だと信じるしかなかった支援者から何度も繰り返される説得に、次第に身体が重くなっていくのを感じる。
「受け入れるしかない…」
その言葉が、増田の頭の中で何度も響く。これまでの人生を振り返ると、どれだけ努力してきても、結局は何も変わらなかった。学校も職場も、適応できなかった。自分が他の人と同じように生活することなんて、どうしてもできなかった。
「療育手帳があれば…」
福祉支援を受けられれば、少しでも楽になれると思っていた。けれど、その希望も絶たれた。自分がどれだけ証拠を集め、努力しても、結局は非該当のままだ。どうしてこんなに頑張ったのに、何も変わらないのだろう。
歩きながら、増田は心の中で叫んでいた。自分の声がどこかに届いてほしい。誰かに理解してほしい。でも、どんなに叫んでも、届くはずもないということを、もう増田は知っていた。
やがて自分の実家が見えてくる。家に帰るたびに感じる、親の無関心が、彼の心に重くのしかかる。
自分の悩みや障害のことを話そうとするたびに、面倒な顔をして避けるような態度をとる。どんなに傷ついても、親にはその気持ちを伝えることはできない。
知的障害者更生所の職員が「担任教師から聞き取り調査を行ったところ当時あなたの様子から親に養護学校を勧めたと言っていた。でも、養護学校を勧められた程度では療育手帳を取得できる根拠にはならない」と話していた。増田はそのことを当時親から聞いたことはなかった。長年隠されて、なかったことにされていたのだ。さらに知的障害者更生所の嘱託医は「子供の頃に検査してるか、実際に養護学校に行ってないとダメだよ」と主張する。
病院の主治医に相談しても「療育手帳は県が決めることだからこちらはどうしようもできない。」という考えで、深く関わろうとしない。
「どうして…」
私は床に座り込み、ただぼんやりと天井を見つめていた。支援者が言っていた「受け入れるしかない」「あなたは運がなかったね」という言葉が、どんどん増田を圧しつける。受け入れることなんてできるはずがない。受け入れて生きることなんて、考えられない。
「このまま、ずっとこんな人生が続くんだろうか。」
心の中でその問いが繰り返される。周囲と適応できず、苦しみながら生きてきた自分を、誰も理解してくれなかった。過去は変わらない。障害があることも変わらない。療育手帳を取って、少しでも支援を受けることで、この人生が変わることを期待したけれど、その望みすら叶わない。
私はその道のりを、自分の人生そのものとして感じていた。どれだけ頑張っても報われることはない。過去の出せる資料は限られているし、結局は認められないという現実。
そして、私はその夜、自分の中でひとつの決断を下した。絶えることのない無力感、療育手帳を手に入れることができなかった希望に対する苦しみが、増田を追い詰めていった。
スパムとか児ポとかウェブのしつこいエロ漫画広告とかのイビル表現を擁護すると、逆に反発まねいて表現規制が進む怖れがあるから、イビル表現擁護はむしろ表現規制への加担なんだよ・・・
リアルで話し合いていないからこんなとこでほぼ全く同じ文言を書き続けることにさえたのしみを感じれっちゃうってこと?
俺はこうやって反応あるたびに自由作文する楽しさがあるがな
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「報酬を含まない」事を示す、というのは、まぁそもそも難しいよなと思うので、自分でも結構無茶な要求である事も分かるんだけど・・・。
それは無茶な要求だし、この追記の末尾のAIによるまとめで十分果たしていると思っているので暇だったら読んでみて。anond:20250715134049
まず増田は例えば私が例の記事の記者の自演なんじゃないか、等思ってる可能性は有ると思うので、それは違うとは書いておく、私は増田や記事の人と違ってゲームに詳しくない素人だしね。
思ってない。
一方で自分は、「ローグライク・ローグライト」といったジャンルを示す言葉の使われ方やその定義がどんどん広がっていく現状に対して批判的な風潮に
「えー、めんどくさいなー、ジャンルの定義なんて時代によって移り変わってくからなんとなくでよくねー?」と思ってた人間なんだよね。
だから今回のhack andslashの定義の話についても、定義を厳密に定めようとする方向に反対する方に自分にバイアスは最初からかかってたとは思う。そこはちゃんと言っておかないとフェアじゃないよな、と。
今回あったように、ゲームに限らず様々なジャンルは明確な定義が定まることは稀で、複数の定義が乱立したり、定義が時代や場所によって変わっていったりする。
自分は厳密な定義に興味はない。今回は元記事が「歴史的な定義」と書いているから結果的にそういう話になっただけ。定義が変わっていっても歴史は変わらない。
以下は元記事の著者のブログからの引用。https://jzunkodj4y.livedoor.blog/archives/52823458.html
この文章を通して、RPGにおける「ハックアンドスラッシュ」の正確な定義や、
このように、元記事の著者が「正確な定義」の話をしようとしている。
でも定義を厳密に定めようとする人はその立場上、自らの言説に対しても厳密さを求められる。
その前提で見ると増田の言葉遣いは迂闊な所が散見されるのではないかなーと思うよ。
「全然違うよ!」であったり、「本来の」を不用意に使ってしまったり、「誤っている」(それはどのような意味において?)であったり、全体的に断定が多かったり。
「厳密さ」を自らにも求めるなら、もっと自らの言説を疑ったり、断定を避けて「かもしれない」「と思う」等の表現をしたり、分からないことは分からないと言っておくことが苦にならないような人の方が向いてるとは思う。
で、何が言いたいかっていうと、厳密さを人に求めず、自分にも求められないほうがずっと楽だぜー。こっちの水は甘いよ。定義の厳密性はある程度にしておいて、こっちに来ない?楽だしたのしいよ?って事。
16年前のガンが再発し、再闘病8年目の今年2月、これ以上の治療は困難とのことで緩和ケアへ移行することになりました。
この時私は妊娠6ヶ月でした。念願の初孫だと喜んでくれていたので、この告知はとてもショックでした。
予定日は7月2日、母の余命は4ヶ月ほどだろうと言われました。主治医の先生には被るのではないかとまで言われたそうです。
去年は友達と九州へ旅行に行ったり、好きなアーティストのコンサートに行っていたのに、本当に急でした。
もちろん里帰り出産なんて出来ませんでした。さらに今後、私がお腹の子を育てていく際に母の支えが無いのだということに絶望しました。孫の手を引くお母さんを見ることは出来ないんだと、孫を甘やかすおばあちゃんがいないのだと。
しかし1番悲しいのは母自身です。私は期待を持たせて悲しさが大きくなるのが怖くて、孫に会わせたい、孫を抱いて欲しいという願いをグッと飲み込み、母は母の病気に向き合って、私は私の出産を頑張るからと伝えました。
遠出を避けなければならない妊娠後期ギリギリまで何度も帰省しては、母にたくさんお腹を撫でてもらいました。撫でてもらうたびに、お腹の子に会わせたいという淡い思いで胸がいっぱいになりました。
最後に会ったのはGWでした。またね、頑張るんだよと声を掛けてくれた姿は比較的元気そうでしたが、今思えば妊婦の私を気遣って無理をしていたのでしょう。
その後、母はみるみるうちにやつれていきました。ご飯が咀嚼出来なくなり、ゼリーなどの流動食ばかり食べていたようです。肺に水が溜まり、心臓が痛くなり、起き上がるのが苦しくなっていたのです。また薬の副作用や症状の悪化でせん妄が顕著に現れていました。テレビ通話やメッセージが支離滅裂になっていく母の姿を見るのは辛かったです。
しかし私のお腹の子はどんどん大きくなって来ます。とうとう正期産の日になりました。その当日の妊婦健診時の「いつ生まれて来てもいいからね」という先生の言葉を聞いたからなのか、はたまたこの後のことが分かっていたのか、その日の夜、子は予定より3週間も早く産まれてくれました。
小さく生まれたものの、2510gとギリギリ体重をクリア、増加率も問題なく、一緒に退院することが出来ました。
旦那が無事に出産したと実家にメッセージを送ると、混濁していた母の意識が急にはっきりして、母子の無事を泣いて喜んでくれたと聞きました。喜怒哀楽を娘にあまり見せない親だったので、大泣きする母の姿が想像できませんでした。
母がしっかりと会話できたのはこの日が最後でした。
介護をしている姉から送られてくる母の様子は、かなり厳しいものでした。言葉が出てこなくて癇癪を起こしてしまう、姉の顔を忘れてしまった、ベッドから起き上がれなくなった、トイレに行けなくなったとゆっくりと、しかし着実に一生を終える階段を登っているようでした。
ついに1週間前、母が入院になりました。最後の入院になるだろうとのことでした。医者の見立てというものはすごいです。2月の段階ではここまで進行するとは思えないほど元気だったのに。
私は姉に伝えました。1ヶ月健診が終わったら帰るから、それまで頑張るんだよと伝えて欲しいと。
子が早く生まれてくれたから、早くに外出できるようになったのです。母に抱かせられるかもしれない。諦めたはずの期待が溢れてしまいました。
無事に1ヶ月健診を終え、急いで実家に帰省しました。母を見舞う前日、姉から「ご飯が食べられなくなった。それに伴って持病の薬を全て中止した」と言われました。全身に転移したガンとは別に心臓の持病を抱える母にとってそれは、最期へのカウントダウンでした。
月曜日、特別に許可をもらい子を連れて病室に向かいました。母は息をしていました。意識はほぼなく、呼吸器をつけてやっとしていた息ですが、心臓を動かして待ってくれていました。痩せて骨と皮だけになった母の手を取り、子の手を触ってもらいました。発熱していたこともあり、温かい指先でした。目を少し動かし、私を、子を追っているように見えました。待っていてくれてありがとう、私もお母さん頑張るよと伝えて病室を後にしました。
その日の深夜、日付が変わる時に母は旅立ちました。主人に子を預け、最期に立ち会うことが出来ました。
息を引き取った母を見て、ああ本当に待ってくれたのだと思いました。また、子は母の命の時間を知っていて早くに生まれてくれたのだと思いました。
そうとしか思えないのです。
そう思ってもよいでしょうか。
母の病気が治らないと知った時、奇跡なんてものはなく、神もいないのだと悟りました。
でも抱かせることは叶わなかったけれど、無事出産できたことを知らせることができ、孫の写真を見せられて、直接孫の顔を見せることも、孫の手に触れさせてあげられたことも出来ました。
このタイミングが偶然のものだとしたら、出来すぎだなあと笑ってしまいます。
そして未明に母が帰宅し、授乳の合間を縫って仮眠を取り、やっとジワジワと母が逝ってしまったことを実感しています。
死に目に遭えたからとしても、やはり私のこの先の人生に母の姿がないことに変わりはありません。その事実がどうしようもなく辛く、悲しく、胸に重くのしかかってきています。寝不足のまま、微かに一階から流れくる線香の匂いを嗅ぎ、理由なく泣き続ける子をあやしながら、広くなって静かな家の廊下を歩いていると、今日がきっと人生で1番辛い日なのだと思います。
程度は変わるのでしょうが、一生この辛さは消えないのでしょう。ここに母がいたら、母だったら何を言ってくれただろう、と。道ゆくおばあちゃんと孫の姿を見かけるたびに、私は一呼吸置いて鼻の奥が痛くなるのを堪えるのでしょう。
それでも我が子を抱きながら、この子と母の奇跡のような巡り合わせを思い出して、痛みを少しだけ溶かしていくのだと思います。
義実家とは結婚の時に縁が切れています。そのため頼れる家族が、認知症を患う父と陸の孤島と呼ばれる県内の果ての地で教鞭をふるう姉しかいません。