
はてなキーワード:ねぎらいとは
うるせ〜〜〜!!
そういうところなんだよ!!
余裕のない育児してるワーキングマザーにとって性生活なんてものは「子供の教育資源である夫を手放さないためのやらなければならない義務」でしかないんだよ!!俺の愛だの俺の努力だの俺の居場所だの俺俺俺…うるせ〜〜〜!!現実を!見ろ!!お前の妻はこの増田を書いてる横で何してる!?そんなに承認してもらいたかったら今すぐその妻に余裕を与えろ!時間を!金を!ゆとりを!与えろ!!愛されたかったらスパダリムーブをおこせ!!妻の労をねぎらいいたわり尊敬して感謝しそれを言葉と態度で伝えろ!!できないならせめて妻に自由時間を与えて妻の好きなことを存分にさせろ!!そしたら最低限の義務を温情で果たしてくれるようになるかもしれんな!!がんばれよ!!お幸せに!!
被虐待児がそれでも母親に愛されたくて必死に「よい子」になろうとするのとそっくりで泣けるね。
妻はよき父親という役割だけをあなたに期待していて、あなた自身には興味がないらしい。(と1に書いた)
あなたがその枠に自らビッチリはまれるように何がなんでも努力するんだと言うなら誰も止める権利はない。望まれるような夫役を演じ続ければ妻の気持ちもいずれはほだされてくるのではないかと期待するのも自由だ。
でも妻はあなたを「相棒」だと思ってるのかな?「道具」としか思ってないんじゃないかな?
道具ではなく大事な相棒として認めてたら「触れられるのも嫌悪感がある」みたいな言葉は、本当であっても(本当ならなおさら)絶対に言わずに飲み込むべきと思わないか?
妻との関係を再構築するには、相手の期待に応えようとするだけでなく「まず人間扱いして欲しい」ってことを伝えないとダメだよ。そこが夫婦揃ってわかってないと思う。お互いに完璧じゃなくても感謝と敬意を持つべきだし、それなしのパートナーシップはブラック企業みたいな牢獄でしかない。ブラック企業の本質は細かな法令違反や過重労働以前に人の尊厳を認めてないところにある。
五十噸の補助機関つき帆船で海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオやインドに久しく滞留、仏教を研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国の事情を知りたいと希望している人々のためには最近の東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単な商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉中であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。
『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。
直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日神戸より」。
臍主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。
第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破の体験を本として、其遭難の顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物はまことに稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである。
『楚人冠全集』より、1937年の杉村楚人冠「バルサ」という記事。
逓信省の船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社で明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞社主催の団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。
1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎特攻観音の縁起について」という記事。
昭和二十一年から、神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋で貿易をしておったのでありますが、戦争がたけなわになりますと、日本の航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。
(中略)
はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。
これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。
(中略)
そういうものをお土産にもって廻って、六年間というものは休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京と東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上に特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。
『吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治の発言。
近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州で塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。
「いったい君はなにして歩いているんだ?」
「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房が神戸の区役所の人夫をしている」女人夫ですね。「子どもは小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初は九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。
近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである。
近江君と私は一年の時からの同級で、しかもふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである。
しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊の実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問に精魂を打ち込んだのであった。
戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。
私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親が船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこちに設計を頼んだり資金の相談にきたりした。
この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。
近江一郎の著書に『小舟を住家に南洋へ』『斜に視たる神戸一中』がある。『小舟を住家に南洋へ』は読めなかったが、大まかな内容は上記で説明されている。『斜に視たる神戸一中』は、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、上記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉・長崎・京都・東京知事を歴任)」なども登場する。笑いあり涙ありの平和なものだが、支那事変(日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親の名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸の野田高等女学校に入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。
いや、『敗戦国なんだから謝れ』ってそれは筋が違うだろ。当時の兵士は基本徴兵。「勝手に戦った」んじゃなくて嫌々戦わされてたの。だからお前が文句を言うべきは当時の指導者であって、前線に行かされた一兵士じゃない。
それに兵士に対しての「ありがとう」ってのは戦果への称賛じゃなくて、『理不尽な状況で命を削らされたこと』へのねぎらいな。
あと、「国と個人を一体化するの気持ち悪い」って言うわりに、自分も「純正の日本人」とか「敗戦国」とか、めちゃくちゃ国単位に巻き込まれてるの、ダブルスタンダードに気づいてる?
『俺は日本じゃない』と言いたいのか、『純正日本人だから謝れ』と言いたいのか、立ち位置ブレブレ。
日の丸だろうが桜だろうが、後からつけた意味づけに突っ込む前に、自分の感情整理したほうが建設的ですよ。結局“気持ち悪い”としか言ってないから、単なる八つ当たりにしか見えない。
負けたくせに? だからこそ“ありがとう”って言える余裕のある社会になってるんでしょう。戦争に負けたことを盾に他人を見下すより、自分で誇れるもの持った方が、プライドも楽に守れるよ。
あれは何年前の事だっただろう。
はるか昔の事のようにも思えるし、つい昨日の出来事だったようにも思える。
当時、俺はとあるIPを原作としたオンラインゲームの開発と運営に携わっていた。
幸い、バージョン管理ツールとオンラインドキュメントツール、それとSlackのおかげで、
俺はただの作業員からプロジェクトマネージャーへ役職が変わった。
運営中のある時、ゲームの原作であるIPの映画が金曜ロードショーで放送される事になった。
1週目と2週目は問題なく、普通にただのIPファンとして酒を飲みながら金ローを楽しく観ていた。
3週目も勤怠を切り、酒を飲みながらそれまでと同じように金ローを観ていた。
酒が随分まわってきて、映画も面白くなるタイミングに差し掛かっていた。
そんな時に事件は起きた。
そんな感じのメッセージだった。
SNS担当者には緊急メンテの告知の依頼、文面の確認、それらを酔っ払った状態でやっていた。
サーバーチームから作業完了の報告を受け、QAを通して問題なければメンテを開ける旨をチームに周知した。
ずっとSlackでメンションを飛ばし続けているが、スタンプすら反応はなし。
何度も何度もかけまくった。
そりゃそうだ、今日は金曜の夜だ。
仕方なくサーバーチームと協力し、一通りの動作確認を終えると、メンテを開けた。
その後しばらく状況を監視し、結局金ロー鑑賞どころではなかった。
その晩の事だけではない。
何か問題が起きていないか?誰かがメッセージを送って来ないか?
日曜の夜突然上司から重要なメッセージが来ることも度々あった。
怯えていた。明らかに今思えば当時の俺はいつどのタイミングで来るかわからないSlackに怯えていた。
…そうやって怯え続ける日はあっという間に終わった。
サービス終了と共に契約を終了した当時のインフラリーダーと久しぶりに飲む機会があった。
あの時俺は酔っ払っていた、支離滅裂な内容の文章を送っていたかもしれない、
的確な判断と行動が出来ていなかった、それなのに事態を収束させてくれた事に今でも心から感謝している、と。
「え、俺さん酔ってたんですか?全然気づかなかったですよ。」
…まあいい、まあなんでもいいだろう。
さて、サービス終了後、俺は燃え尽き症候群を回避する為に2週間くらいまとめて有給を取得した。
既に別プロジェクトに配属されていたが、今なら取得しても問題ないと思ったタイミングだったから取得した。
そこでゆったりと時間を過ごせば燃え尽き症候群は回避出来るはずだと俺は思っていた。
俺宛のメッセージではない。
開発からサ終まで約4〜5年、早朝も夜間も休日も全て注ぎ込んでいたプロジェクトが終った後に取得したたった2週間の休暇。
それさえも許されなかったのか。
俺の知らない所で、俺になんの相談もなく。
メンタルクリニックで処方された薬が原因なのか、単に疲れていただけなのか、
毎日が眠くてずっと居眠りをしていた。
重要な会議中でも、重要な取引先との会議中でも、俺はずっと寝ていた。
追い出し部屋と言っても、その頃仕事がなかった俺の追い出し部屋は自宅の6畳一間のマンションの部屋だった。
ある日俺は何を思ったのか、いや、何も思えなかったからなのか、
眠気を回避する為に飲まずに貯めていた処方薬を酒と共に大量に飲んだ。
身体が全く動かず、救急車を呼びたくてiPhoneを操作したが119が打てなかった。
意識も朦朧としていたので、救急車の番号が119なのかさえよく、わからなかった。
なぜか声も出なかった。喋りたいのに喋ることが出来なかった。
到着までの間ずっと俺に話しかけて来たが、あれは意識を保たせる為だったのだろう。
部屋の鍵を誰がどうやって開けたのかわからないが、
意識が戻りSlackを確認すると、その日は東京ゲームショウの日だった。
俺は自社ブースの案内スタッフとして早朝から幕張メッセに行かなければならなかった。
Slackには「俺さん今どこですか?」というSlackが届いていた。
俺は「事故に遭い病院に居ます、TGSには参加出来ません」とだけ返信した。
そんな感じで、もう潮時だったのか、会社からの退職勧奨に応じ俺は無職になった。
先日、前職を退職済みの元同僚と久しぶりに会う機会があった。
なぜかその日はお茶を飲みながら話をした。
彼女も同じような事を言っていた。
「退勤した後も、退職した後も、ずっとチャットツールばかり気になっちゃうんですよね。」
と。
アルコールやドラッグのような、一時的な快楽を求めるものによる依存症じゃない。
そうだ。
一命を取り留めた直後に、一番最初に取った行動が「Slackを見る」
だったんだよ。
本当は、もっと他にやるべき事があったんじゃないのか?
人間として…
さて、昨今ではコロナも落ち着いたのか、職場回帰が進んでいると聞く。
そういった時間をビジネスチャットツールに割いている人はどのくらいいるのか。
24時間365日運営しているゲーム、アプリ、システム、サービス、それらの類の担当者は大勢いるが、
彼ら彼女らは「ビジネスチャットツール依存」状態になっていないのか?
今なっていないとしても、この先罹患しないと言えるのか?言い切れるのか?
もし、これを読んでくれた人の中で、ビジネスチャットツールを常用している人が居たら、
どうか俺のようにならないで欲しい。
しかし依存症として定義も認識もされていない上に医学的根拠も何もないこの「依存症のようなもの」
わからないんだ。
申し訳ない。
だがどうしても俺のような末路には行き着いて欲しくない。
もし偉い人、精神科医、そういう立場の人がこれを読んでくれたのであれば、
今から防止策を考えてくれないだろうか。
どうしても俺のような廃人を増やしたく無いんだ。
お互い地方出身で、大学も寄りに住んでいたこともあり意気投合。
大学1-2年のときは、週に1回はお互いの家で飲んで、ゲームして、A君の車でドライブいったりして楽しかった。
その後、Aくんは研究室どっぷり暮らしになったので若干距離ができたが、それでも仲が良かった。
携帯キャリアに就職したAくんが2年で辞めると聞いてびっくりした。
そして自分で会社を作った。インキュベーションプログラム?みたいなのにも選ばれたようだ。
(すまん、スタートアップのことよく知らないので、それがどれくらい凄いのかとか、全く分からない)
その後、何度かあったが、受託仕事をしながら自分たちが作りたいものを作るといっていた。
受託仕事のほうは順調みたいで、お金に困っていないようで、都心のマンションで暮らしていて、結婚、出産と順調みたいだった。
Aくんとは2年に一度くらい飲む程度の関係がつづいていたが、一昨年にメッセンジャーで連絡したら反応がない。
彼の会社のホームページは更新がなくなり、そして昨年はページが消えていた。FacebookもインスタもTwitterも更新がない。
いつまで待っても既読にならないので、さすがに最悪の事態が起こったかと焦り、一時期、A君と一緒に仕事をしていた、共通の知人Bくんに連絡すると、「いや、ブロックとか、そういうのはないと思う。機会があれば連絡しておくね」と、なんだか雲をつかむような回答。
ただ私とBくんはそこまで親しくないので、突っ込んで聞けないし、聞くべきでもないと思った。
今年になって、Aくんとずっと前にLINE交換していたことを思い出し、LINEで連絡を取ると数時間後に返信があった。
連絡が取れてよかった、また飲みに行こう、と伝えると、「また飲みに行こう」の部分だけスルーされた。
仕事がうまくいかなかったのか、メンタルや身体が崩れてしまったのか、家族が崩れてしまったのか、それは分からないし聞こうとも思わないが、
とにかくAくんが生きていて本当によかった。
数年後、数十年後でもいいので、「あの時はこんなことがあったんだよ」と言いながら、お互いの労をねぎらいつつ、一緒に酒に飲めるといいなと思ってる。
これ、うちもそう。妻はメンタルが崩れることが定期的にあって、その都度メンタルケアをしなくてはならない。
メンタルが崩れてない時ても日々のメンタルケアを求められてる。
妻は日々の労働を言葉でねぎらってほしいタイプ。それをしないと怒る。
多分増田は違うんだろう。私も違う。労われても労われなくても何とも思わないし、それで怒る人の気持ちはわからない。
ただそれはどういう報酬を求めてるかの違いでしかない。私は言葉でのねぎらいに意味は感じないが、何かをしてもらったり、自由な時間をもらったりすれば嬉しい。
たくさん食べるのがかわいくて結婚した妻は結婚十年で70kgになっていた。そろそろ痩せたら?とアドバイスしたら「こんな食生活で痩せられるわけないじゃん」と言われた。正直この時は痩せられない言い訳としか思えなかった。
妻が何しても俺からは文句言わないという約束の元ダイエットスタート。妻は人が変わったようだった。
今まで食べていた子どもの残した飯は捨てる。賞味期限が切れた食材、傷んだ食材も容赦なく捨てる。ねぎらいの気持ちでときたま俺が買っていたスイーツも「ありがとう〜」と言いながら即ゴミ箱行きになったのは衝撃だった。
これは精神衛生上よろしくないと話し合いの場をもうけたところ、妻は今まで嫌々食べていたものが山ほどあったことが発覚した。
俺が何度言ってもスイーツを買ってくること、俺に「食べてみたら?」と勧められたものは断っても「意地張らないで」など食べるまで言われ続けるから早く解放されたくて食べていたこと、義母(俺の母)が痛みかけの食材をよこすこと、食べ物を捨てようものなら家族が「もったいない」といい、とはいえ誰も食べないから妻が食べるしかなかったこと、つらつらと食べ物の恨みを語り始めた。
自分がスイーツを買ってくる頻度や食べ物を勧める強制力は全く自覚していなかったので改めて言われてびっくりした。
自分は妻が食いしん坊だと思っていた。妻が腹を空かせることだけはないように仕事を頑張っていたつもりでもある。でもそれらが裏目に出ていたようだ。
一応妻にも良心の呵責はあったようで「食べられる物を捨てるのもしんどいからもう何も買ってこないでね」と言われた。
確かに妻はどんどん痩せている。いいことなのだろう。でも真顔で食べ物を捨てる姿と、過去の何でもおいしそうに食べる姿のギャップがショッキングすぎてこのままでいいのか分からなくなってしまった。
Permalink |記事への反応(42) | 19:53
283プロに所属しているアイドル園田智代子に舞台のメインキャストの代役としての出演依頼がくる。
その舞台は以前好評を博した舞台の続編にあたり、依頼が来た役も、舞台経験が豊富なアイドルが演じていて高い評価を得ていた。
今回の舞台も同じ出演者で継続予定だったが、怪我のため降板したとの事だった。
283プロのプロデューサーは智代子に元のキャストと比較されるリスクがあることを告げるが、智代子は迷わず受ける。
智代子の出演が発表されると、SNS上では不安視する声が多くみられ、舞台の延期を求める声さえも出たが、智代子は稽古と役に真摯に向き合い、監督、スタッフ、共演者からの信頼を得る。
記者を集めた発表の場では智代子に対して「予定されている第三弾の舞台は前任者の復帰が前提となっており、智代子の名前が無いことについてどう思っているか」という質問が出た。
智代子は「怪我からの復帰は当然喜ばしいとであり、自分は今回の舞台だけで精一杯でまだ次を考えている余裕がない」と答えた。
帰路、プロデューサーは意地悪な質問にも立派に対応していたと智代子にねぎらいの言葉をかけた。
智代子は自分の力が足りてないのは事実であり、あのような質問が出てくるのも仕方がないことだと答えた。
また自分には何かで一番になる才能は無いが、誰かに一番好きと言ってもらえるかもしれないと思っており、そのために努力を続けていきたいと答えた。
努力が実を結び、智代子の代役は期待以上だったという評価を得た。しかしやはり本来のキャストで見たかったという声もあった。
最終公演終了後、プロデューサーはステージに1人残り客席を眺めている智代子に何を見ているのかと声をかけた。
智代子は、今回の舞台で現在出せる全力を出し切ったことと、それでも十分でなかったことを、忘れないように記憶しているのだと答えた。
自分にもっと力があったらと悔しがる智代子に対して、プロデューサーはもし嫌じゃなかったらと前置きしたうえで、智代子が好きなシーンの演技を見せて欲しい、さきほど終わった最終公演よりも成長した最高の演技を見せて欲しいと頼む。
智代子の演技を見終えたプロデューサーは、智代子の演技が自分にとっての一番であると伝えた。
智代子は礼を言って、その言葉も忘れないようにすると答えた。
283プロの5人組アイドルユニット「放課後クライマックスガールズ」のメンバー。
クラスに一人はいるごく普通の女の子。明るく親しみやすい性格で、甘いものが大好き。名前にちなんで、チョコ好きアイドルを売りにしている。高校2年生。
| 話数 | サブタイトル |
|---|---|
| 第1話 | 息を合わせたらせーのでスタート |
| 第2話 | 残さず たいらげます |
| 第3話 | 一番 |
| 第4話 | 踏み切る、足りない100% |
| 第5話 | スポットライトが呼ぶ |
・アイドルマスター シャイニーカラーズ 攻略Wiki(外部リンク)
思春期の真っただ中に、離婚した父親から15年ぶりに連絡が入った。
そろそろ死ぬかもしれないから、生命保険に入るんだけど、書類関係よろしくって事務連絡。
いなかった間、あんたの代わりに祖父母の介護して、母をみて、葬儀を3回して。
本当にさ、なんなんだろね。
一番いやだったのは、それでも電話もらったのが嬉しく感じてしまった自分で、
なんか全部嫌になった。
けど、感情かき回される方が悔しいので、また蓋をした。
つれぇよう。誰かに泣きつきたいよ。
でも耐えられないから蓋をするよ。
私が青春できたはずの高校~20代、ほとんど離婚トラブルによる母の面倒と、祖父母の介護に使った。
さすがにこの無神経にはメンタルやられた。
きついよぉ~~~八つ当たりしたい…何も八つ当たりできるものものない。
ねぎらってほしいよな
増田は頑張ってるよ
奥さんに向けずに、ここで吐き出したのは本当に正解だと思うよ
ねぎらいに飢えてる感じがすごいよ
相対的に大変なほうがねぎらいの言葉をかけられるってのはしょうがないよ
増田1人で赤ちゃんと散歩してみれば、めちゃくちゃ褒められるんでない?
俺は子ども2人連れてスーパーで買い物してると、パパがんばってるね〜えらいねって言われることあるよ
俺も同じように断られた。
沐浴指導の隣の部屋で授乳指導があるから、あんまり立ち入らないでほしいとの理由だった(妻にはそう言ってたらしいが、俺はその理由を言われずに冷たく断られた。)
今は父親の育児不参加からの育児参加が当たり前、て過渡期だから、どっかで皺寄せが来るもんだ。
日陰にいる父親は辛いっすわ
増田はがんばってるよ
幼い頃からそうだった、適材適所やそれに類する言葉(自分ができることやろう、的な)
を使う連中というのは結局の所
という事を言いたいだけだった、例外なくそうだった、100%そうだった。
この言葉を使う人間が自らキツイ仕事をやることは絶対に無かった。100%無かった。
「一人ひとりが活躍できるように」とか、どれだけ思いやりのあるふりをしても、他人に面倒事を押し付けるクズしか居なかった。
「自分は軽い物を右から左に運ぶ、お前は重い物を下から上に運ぶ」
そんな事を平気でやるのだ、そのくせ負担してもらう側に労いもないクズしかいなかった。
適材適所で仕事を分担しているのだから感謝もねぎらいも不要であるという理屈のようだった。
ライフハック的な悪知恵として舌を出すようなクズも居たが結局、善人ヅラしてる奴と同レベルのクズでしかないが正直な分マシだろう。
小学校のフェミババア教師はこの手の適材適所論をよく主張し男子を苦しめていた。
適材適所と言いながら、明らかに男子のほうが体力と時間を浪費するような物運びをやらされた。
社会に出てもそうだ、障害者雇用なんか「楽なデスク仕事をガイジにやらせろ」ということでしか無かった。
仕事の中の比較的楽な部分を奪われた健常者は、仕事の緩急が減り、仕事が辛くなった。
障害者はもちろんそんな事は知らない、楽な仕事をやって、対等に働いた気になって定時で上がるのだ。
働く立場になると感じることは多くある。
平日の練習は勤務時間を超えて設定されているので、この活動は教員の残業で支えられているのだ。
給料月額の4%が上乗せされているだけで。
それでも上乗せされる4%。
保護者と会えば、
雨の日でもやれることはある
対外試合を多くしてくれ
叩かれる
何もしなくても
叩かれる
虚無感に変わり、ただやりすごすだけに変わる。
同じことをクラブチームでやろうとすれば
月に何万か飛んでいくのだろう。
でも、それが普通なのではなかろうか。
月額料金は給料に上乗せされる4%
あとは働かせ放題
部活さえなければ
精神の安定が保たれる
部活さえなければ
残業がへり、
部活さえなければ
保護者の目を気にすることは少なくなる
部活さえなければ、
部活さえなければ、
部活さえなければ。
じゃあ辞めればいいのでは
何回も何回も考えた
行動も起こした
今までやってきたのではないかと
どうにかならないだろうか
せめて、保護者の皆様
苦しくて苦しくてたまらない中
無給で頑張ってる教員がいたら
くらいのねぎらいを