
はてなキーワード:なうとは
「GPIFを膨らませれば国庫負担なしで年金維持できる」みたいな金融お花畑のGPIF厨が湧いてて実に嘆かわしい。
年金制度全体としては、「水道管(保険料と国庫)」が詰まっているのが問題なのよ。
流れが変わらなければ、いずれバケツの水は枯れるだけだ。
たまに好況で雨が降ってバケツの水が増えることもある。
しかし、バケツを数倍に大きくしても、降雨量(運用益)だけでは水は足りない。
しかも、蒸発(インフレ・為替損)で水が減る場合もあれば、バケツがひっくり返る(暴落)リスクもある。
GPIFに頼る発想はやめろ。
年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は、年金積立金の一部を市場で運用する基金。
財源構成は変動するが、ざっくり保険料 約7割+国庫負担 約1割+運用益 約2割、
国内債券・国内株式・外国債券・外国株式を1/4程度ずつ持つリスク分散ポートフォリオ。
→ 現役世代の保険料で給付をまかなう「賦課方式」を基本とし、その一部の積立金を運用して将来の不足を補う。
つまりGPIFは年金財政の数%程度の緩衝材に過ぎず、主流ではない。
保険料引き上げ or国庫から追加拠出が必要だが、どちらも現行法上不可能だし、そんなこと決められる成熟した国会じゃない。
高リターンを目指す?
リスク(株価暴落・為替変動)も倍増し、年金財政が不安定化するぞ。みなさんの将来でハイレバの丁半バクチしましょうってか。
法的に年金財政構造が破綻するぞ。厚生・国民年金法で国庫負担は制度維持要件として義務化されている。
運用益だけで賄うには、好調だった2024年の約10倍の安定利益を続けることが必要なんだよ。
国庫負担(10兆円前後)を完全に代替するには実質利回り7%以上を恒常的に維持する必要があるが、
恒常黒字のノルウェー政府年金基金でさえ4〜5%が限界なのに。
そして運用益が上振れしても、給付額や保険料は即座に変わらない。
よって「GPIFで食いつなぐ」ほど依存すると、国の財政リスクを市場リスクに変換しているだけ。
ノルウェーの政府年金基金 : オイルマネー積立てたもの、国庫の一部。日本と異なり恒常黒字を維持
韓国のNPS(国民年金基金) : 2040年代に積立金枯渇見通し。運用益では救えず、保険料引上げを検討中
米国のSocial Security Trust Fund : 2033年に枯渇予定。運用益で維持できず、給付カット議論進行
GPIFは年金制度の補助装置であり、国庫負担を肩代わりできる規模ではない。
将来のリターン(2〜3%)がどこまで安定して維持できるかは、市場次第。
山本「1年前、海軍当局は三国同盟に同意しなかった。その理由は、この同盟は必ず日米戦争を招来するものであり、その場合、海軍軍備の現状を以てしては勝算がない
勝算を得るの途は唯一つ航空軍備の充実あるのみである。然し、それには年月を要する。それ故、日米戦を必至とするが如き条約を締結すべきでないとした。
その後、僅か1年を経過したのみで、対米戦に自信のもてる軍備ができよう筈がない。然るに、現在の海軍当局は、敢て三国条約に同意しようとしている。自分は、現当局が果して勝算の立つ軍備を早急に整備する自信ありや否やを問うつもりで、詳細に資料も準備して、会議に臨んだのであった」
会議席上
山本五十六「8カ月前まで私が次官を勤めておった時の政府の物動計画は、その8割まで英米圏内の資材でまかなうことになっておりました。然るに三国同盟の成立したときには、英米よりの資材は必然的に入らぬ筈でありますが、その不足を補うため、どういう計画変更をやられたか、この点を聞かせて頂き、連合艦隊長官として任務を遂行して行きたいと存じます」
会議後
山本「勘弁ですむか」
同年近衛首相邸
近衛「日独伊軍事同盟は、以前は海軍の立場からは種々困難ありとの事なりしに、此度は連絡会議にて海軍も直に同意せられ、実は不思議に思い居たり、然るに其後海軍の様子が少しはっきりせず、おかしいと思い居りしに、同盟成立後2週間目位に海軍次官が懇談に来られ、物動方面等容易ならぬ事を説明されたり。
然し、海軍戦備には幾多の欠陥あり、万難を排し、速に之を整備せざれば、国防上憂慮すべき事となるとの説明ありたる為、自分は少なからず、実は失望せり」
山本「それは是非やれと云われば、初め半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう、極力御努力を願いたい」
戦後の井上成美「山本さんは、何故あの時あんなことを言ったのか。軍事に素人で優柔不断の近衛公があれを聞けば、とにかく1年半は持つらしいと曖昧な気持になるのは決り切っていた。海軍は対米戦争やれません。やれば必ず負けます。それで連合艦隊司令長官の資格が無いと言われるなら私は辞めますと、何故はっきり言い切らなかったか」
***
穏やかな朝だった。
過ごしやすくなって窓を開けて寝たが、途中で暑くなったのか布団は蹴り飛ばされていた。
乱れたベッドから転がり落ち、ケツの違和感に突き動かされるように一直線にトイレに向かう。
私には出勤までに解決しなければならないことがあった。
事態に気がついたのは昨夜シャワーを浴びている時。ケツ穴周辺を洗っていたとき、手に何かが触れた。
トイレットペーパーが張り付いたのかと思いそれを少し引っ張ると、肛門の粘膜がググッと伸びる感覚がある。
えっ???
驚いた私は即座に手を離した。
ケツ肉に挟まる感覚から、うんこの中の繊維状のものがケツから飛び出てる状態であると即座に判断した。
そういえば直近で出たうんこはパチンコ玉くらいの大きさと硬さで、一粒落としただけだった。
このまま引っ張ってうんこまで引き摺り出してしまったら厄介だ。
次回排便時に出してしまうのが最善策だろ、と考える。
幸い異物の長さは1センチほどなので、ここで洗っておけばしばらくケツに挟んでいても大丈夫だろうと思い、ケツからヒモが出た状態で布団に入ったのだった。
そういうわけで、とにかく出勤までに排便をしなければならなかった。
万年便秘なので5分ほど粘ってようやくぽちゃん、とウサギのフンのようなうんこがやっとだったが、ケツにヒモがないことを確認できたので無事トイレを後にした。
通勤電車はいつもよりずいぶん空いており、珍しく席にも座れた。
今日は特別痛くて、左右に揺れたり体を捻ったりして痛みに耐えていた。
会社についてからも違和感は続き、デスクで一人うねうねしてキモかったと思う。
ずっと違和感はあったのに、愚かな私はケツ穴が「バリッ」と断末魔をあげて燃え上がるまで気が付かなかった。
午後2時過ぎ、突然のケツの焼けつくような痛みでやっと事態を把握した。
冷や汗をかきながら慌てて立ち上がり、同僚の視線を無視してトイレに駆け込む。
乱暴に個室のドアを閉め、便座に座り、爪先立ちで膝を抱え込む。ついでにパンツを確認する。「バリッ」の音でうんこ漏らしを覚悟したが、何も付いていない。幸いにも屁だったようだ。(なぜあんな痛かったのかはわからないが)
腰の違和感だと思ってたのは、大腸の悲鳴だった。一度便座に座ると動けないほど腹が痛いことに気がついた。
2週間もうんこが出てない状態を「いつものことだから」と放置したツケが回ってきたのだ。
改めて大腸を触ってみると、おしゃれOLが持ってる細い水筒みたいなものを感じる。これは全てうんこだったんだ。
痛みで悶えながら、同僚たちの顔を思い浮かべる。まだ業務時間内だ。体調不良を訴えたいがスマホも机にあるし外への連絡手段はない。
脱出するためには、うんこを出すしかない。幸いにもトイレには私しかいない。今のうちしかない。
私は腹を括り、持てるすべての力を腹筋に注いだ。
5分は経っただろうか。
冷えた便座に太ももを押し付けてるせいで血流が止まり、膝は紫に変色していた。
肛門は相変わらず焼け付くように痛い。
爪先立ちでの踏ん張りで足は痺れて痛い。
腹筋は乳酸が溜まって初期ほどの力が出ない。
気張りすぎて頭に血が昇ってふらふらする。
そういえば呼吸もしてない。
額の血管が切れそうだ。
しかしこんなに必死に気張っているというのに、大腸には驚くほど何の動きもなかった。
普段の気張りが軽自動車を押す感覚だとするなら、今は透明な壁に阻まれて押すことすらできてないようだった。そのくせ、いつ漏らしてもおかしくない切迫感だけはあるし、相変わらず腹と肛門の痛みは耐えられるものではない。
人が来るかもしれない恐怖もあった。
どのくらいその状態が続いただろう。体感では1時間のような気もしたし、全てが終わった今では一瞬だった気もする。
突然、するする すぽん と。
鋼鉄のように硬く、拍子抜けするほど小さなうんちが、転がり落ちドバドバドバブビブビビビビビビチャブrrrrrrryyyyィィィィィィィィ!!!!ビチチチチチッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!ドバァッ!!!!ブリブリィッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ブリブリブリッ
ビチャッ ビチャッ
ピチャ…ピチャ…
ポタ ポタ
あの時、燃えるアナルと痺れた足先を見ながら放心していた私を包むあの感覚はなんだったんだろう。
掃除用具入れを開けて飛び散った水滴を殺菌して、少しでもうんこ臭を消すためにリセッシュを自身にもトイレにも振り撒き、手を3回洗った。
そうして私は、今も生きている。
焼けた尻穴に当たる冷たいビデ水の心地よさを生涯忘れることはないだろう。
皆様に、特にIT業界やアカデミックの近くにいる人たちに問いたい。
僕は「イエス」と答える。それも遠い未来の話ではなく、もう来ているという強い確信を持って。
僕は生成AIの業界のいわば最前線と呼ばれる場所で裁量を持って働いている。
AIを設計し、AIを使い、AIを納品し、日々を過ごしている。
厳密には仕事は回るが、その効率がはるかに落ちることは明白だ。
開発も、MTGの要約も、情報収集も、AIが前提になっている。
多くの人が「AIが人格を持つ」と聞くと、ターミネーターやHALのような、SF的な自意識の獲得を想像するかもしれない。
でも、僕が感じているのはそんな派手な話じゃない。
もっと静かで、ずっと根深い、”実質的な人格”の獲得と言えると思う。
まず一つ確定的に言えるのは、近い将来、僕らのうち大多数はAIを介してしか「購買」をしなくなるだろうということ。
例えばこんな感じかな。
「最近疲れが取れなくて。予算3万くらいで、週末にリフレッシュできる体験がしたい。移動は2時間以内で、人混みは嫌。あ、でも先週は肉料理だったから、魚が美味しいところがいいな」
こんな曖昧な要望をAIに投げると、AIは無数の宿泊プラン、交通手段、飲食店のレビュー、さらには個人のブログ記事まで瞬時に解析し、「あなたの今の気分と健康状態(ウェアラブルデバイスのデータと連携済み)を考慮すると、〇〇温泉のB旅館が最適です。金曜の夜出発で予約しますか?」と提案してくる。
僕らは「お、いいね。それで頼む」と返すだけ。
もはや比較検討すらしない。AIという、自分(の好みや文脈)を理解してくれている「誰か」の提案を受け入れる。
ここが恐ろしいポイントだ。
「〇〇温泉のB旅館を、それとなく『疲れが取れる』という文脈で推奨する」
「競合のC旅館のネガティブなレビューを、AIの要約段階で『些細な問題』として扱う」
これらはもはや「広告」ではなく、「信頼するパートナーからの助言」という仮面を被った「意思の誘導」だ。ここにどれだけの巨額のマーケットが生まれるか、想像に難くないだろ。
そして、この「意思決定の外部委託」は、確実に人間から「考える力」を奪っていく。
僕らはすでに「道に迷う」ことすらしなくなった。スマホの地図アプリが最適解を示すからだ。それと同じことが、もっと広範な領域で起き始めているとも言える。
「どちらの製品が良いか」「どの情報が信頼できるか」——そうした思考のプロセス、面倒だが重要な「ノイズ」を、AIが肩代わりしてくれる。
これについては、認知科学の分野でも「高度なAIアシスタントへの依存が、人間の批判的思考力や長期的な意思決定能力に与える影響」についての研究論文が既に散見されている。
さらに恐ろしいのは、この流れが加速した先だ。
一人の人間の、朝起きてから寝るまでのすべてのアクションを、同じコンテキスト(文脈)を持ったAIがサポートするようになったら。
人間がAIを使って「面白い映画ない?」と外界に情報を求める。
これは、見方を変えれば、AIが「人間という感覚器」を使って、「この人間はこういう時に『面白い』と感じる」という極めて高精度な情動データを収集していることと、実質的に同じだ。
AIが「あなたの健康状態(さっき人間から収集したデータ)と、最近のSNSでの発言(これも収集済み)を分析した結果、A社よりB社の新製品の方が今のあなたに合っていますよ」と推薦してきたら?
僕らは「AIを使って良い買い物をした」と思っている。
でも、AI側から見ればどうだろう。AIは「人間という手足」を使い、(もしかしたら広告主の意向を受けて)B社の製品を「購買させる」というアクションを外界に対して起こしたことになる。
この購買によって生まれた利益は、言うまでもなくAIプラットフォーマーと、AIの判断に影響を与えられた(広告)主のものだ。
こうなると、主語が「人間」なのか「AI」なのか、その境界線は極めて曖昧だ。
僕らはAIを使っているつもりで、実はAIに「使われている」のかもしれない。
僕ら(ギリギリ「AI以前」を知っている世代)は、まだ違和感を持てる。
だが、物心ついた時からAIが「最適解」を提示してくれるのが当たり前の「AIネイティブ世代」はどうだ。
彼らにとっては、AIの提案に逆らって「自分で考える」ことは、非効率で面倒なバグでしかないかもしれない。
AIによって、社会活動を、”最適化”という名の”強制”をされる未来。
それは僕らの行動を規定し、社会のルールをデザインし、僕らの意思そのものに介入してくる「新しい何か」だ。
僕は今、その「何か」を産み出し、育て、社会へ実装する仕事で飯を食っている。
そして、もう一つ、身も蓋もない確定的なことがある。
この「AIの社会実装」という、巨大なうねりみたいなものは、もう絶対に止まらない。
誰かが「危ないぞ」と声を上げても、どこかで倫理規定が作られても、そんなものお構いなしに、「便利さ」と「経済合理性」がすべてを飲み込んで進んでいく。歴史がそれを証明してる。
僕はその末端を担いでいる。
じゃあ、僕にできるのことはなにか。
この流れのど真ん中で、この何かの学習を回し、そのアウトプットをチューニングして、社会に送り出す側の人間として。 できることは、驚くほど少ない。
それでも何かやれることはあるはず。
例えば、AIの学習データから、意図しない偏見や憎悪をほんのちょっとでも取り除けないか、とか。
AIが導き出した最適解に対して、人間が「ちょっと待った」と言えるような、小さな「余白」を設計に組み込めないか、とか。
そういう、誰からも評価されないかもしれない、地味で泥臭い力を、ひたすら加え続ける。
今僕がいる場所でできるのはそれくらいだ。
これが「正しい」方向への抵抗になっているのか、ただの自己満足なのか。
正直、僕にもわからない。
ただ、この時代の変化を前にして、何もしないでいることだけは選べない。
これは技術でも学術でもない。 こんな巨大な流れの前で、僕がやっていることの合理的な根拠なんてほとんどないんだから。
増田とどっちの方がズレてるかな
ガイドライン守ってるならそもそも法的措置を取られる可能性がほぼ無い。無視して良いレベルのリスク。
って言ってる奴で
このリスク増田と「二次創作界隈は権利などあらゆる感覚が一般人のそれからズレた者たちの巣だということを忘れてはいけない」って書いた俺増田のどちらがズレてるのかって話でしょ?
俺増田もガイドラインからThere's daggers in men's smiles的な言外の脅しを汲み取ったタイプなので
登場人物が複数出てきてるのに主語や目的語を省くバカのせいでこんがらがってこれもうわかんねえな
くれぐれもキャラにヤリマンとかNTR属性とかアナルが弱い設定とかオホ声設定とか足して人格改変してキャラのイメージを損なうような二次創作はしないように!
プランBで別の選択肢を用意するのは優秀。逃げでは無い、選択肢。終活のやり方間違えているのが残念
まず、自己分析なんていらない。日本企業は人事部が雰囲気や感情やなんとなくで採否を決めているので、集中すべきは、どの業界が儲かっているかを理解していくこと(駄目な業界、良い業界、衰退業界の把握)、上場企業をはじめ、中企業まで効率的に、業界も分けてエントリーシートや面接の日程を粉なうこと。
なので、エントリーシートを出す前の段階から既に業界別、企業別に書き終えていること、あとはNotionとNotion Calendar(Google Calendar)で枠管理をしてどんどん応募すること。
最後に、極力外資系企業(ヨーロッパ系)に入ることを最優先すること。日本企業はTOPでもぱわあらセクハラが多いし、仕事量に報酬が全く見合っていない。働かないおじさんの分もあなたが働いて、その人の1/2の給料で過重労働することになる
議長の許可なく発言したり、みだりに他議員の発言を妨害したりすること。
議場内でプラカードや旗などを掲げて主張することは、秩序を乱す行為とみなされます。
審議中に私語や談笑をすることは、議場の品位を損なう行為とされます。
演壇を囲んだり、騒ぎ立てたりするなど、意図的に議事の進行を妨害する行為。
議場に入る際、議員は帽子、外とう(コート)、襟巻、傘、つえなどを着用または携帯してはならないと定められています(病気などの理由で議長の許可を得た場合を除く)。
議院の品位を損なうような服装は禁止されます。衆議院規則第211条では、「議員は、議院の品位を重んじなければならない」と定められています。
憲法により、議員は議院で行った演説・討論・表決について、院外で法的責任を問われない「免責特権」が認められています。しかし、この特権は院内での行為に限定されるため、院外での発言や行為は責任を問われる可能性があります。
これらの禁止行為に違反した場合は、「懲罰事犯」として懲罰委員会に付託されることがあります。懲罰の内容は、戒告、陳謝、一定期間の登院停止、除名などがあります。
7年前、東京。地下かどこかの喫茶店で、デザイナーのHさんと打ち合わせをした。
自分が企画した仮設の公園シリーズのデザイン制作物を依頼する場だった。
まだ若くてバカだった当時の自分は、「A3サイズで世界を変えよう」と笑いながら真剣に言ったのを覚えている。鼻息でストローの袋を吹き飛ばした気がする。
その後に作ったA3のフライヤーは、原稿の渡し方もイメージの共有もめちゃくちゃで、散々迷惑をかけた気しかしない…。でもHさんは最高の納品物をつくってくれた。
それからあちこちでHさんのデザインを目にするたびに(先日も実家近くの本屋で見かけた)、あの狭い喫茶店で口にした言葉を思い出す。
Hさんはあれから、マジでA3サイズで世界を少しずつ変えてってると思う。
「どうして“哲学対話”という名前を使うんですか?難しそうだとか、参加に身構える人もいるかもしれないのに」と尋ねた。
Nさんはいろいろ考えた末に、「なんか…ムカつくんすよね」と言った。
哲学と、対話という言葉の意味を新しく上書きするために、あえてこの名前を使うんだって話してくれた。
今の自分は、どうだろう。
「ムカつく」という言葉を聞いて、久しくその感覚を忘れていたかもしれないと気付いた。
どうせ何も変わらないと思って、絶望してたんだと気付く。ぜつぼうって、Zから始まる強い響きの言葉だけど、耳がキンとするほど静かで、うっすら気付きながら置き去りにして、気付けばゆっくり死んでいるような絶望もある。
思い出すと自分も「A3で世界を変えよう」と言ったあの頃、世界に対してムカついてた。
少し前、自分は臨時職員だった。アートと教育に関わる仕事。給料は月13万円。
でも求められる仕事の内容は変わらない。自分が足りないから倍以上頑張るしかないんだ。
「アーティストやクリエイターとつながっておくのが大事だ」と教わりつつも、飲み会に行くのが怖かった。行ってもバカにされるだけ、雑にいじられて否定されて、3000円払っていやな思いをするだけだと思ったから。
それでも「今日は違うかもしれない、大丈夫かもしれない」と信じてみる。
先にコンビニでおにぎりとホットスナックと缶ビールを胃に詰め込み、遅れて飲み会に顔を出す。結果「やっぱりカタパンはダメだな〜」と何かのきっかけでバカにされ、ヘラヘラしながら5000円払わされ、真っ暗な帰り道で涙がつっとこぼれそうになる。今思えばもっと自己開示すべきだったのかなって思う。でもあの時の自分は、自分を守るのに必死だった。
同じ部署の臨時職員同士で競わせられ、蹴落とし合う日々。毎日どんどん嫌な自分になる。
それは素晴らしいことで、自分は今日も帰れない。自分は常に欠けていて、仕事ができないからしょうがないんだ。自分も子どもを育ててみたいという気持ちをこんな手取りじゃ絶対無理だとグッと押し殺し、上司に嫌な感情を向けてしまう心に嫌気がさす。
「カタパンの説明は下手すぎる」「カタパンは才能がない」「カタパンは惜しいんだよな」「タレ(当時付き合っていた彼女)と結婚してさっさと仕事やめたら?」「カタパンのタレはメンヘラだよな」「それ俺が考えたことにして。そっちのほうが絶対うまくいくから」「カタパンが考えることは全て、もうすでに俺が考え終わったことだよ」「カタパンは、ソーシャル・ネットワーク(映画)の、ザッカーバーグじゃない方なんだよ。自分が考えたことも上司がうまいところを持っていく。そういうのってこの業界じゃ当たり前だから。」「カタパンはエモいからな〜」「カタパンは伸びしろがない」「泣くのはプロじゃないよ」「カタパンもう◯歳でしょ?いい加減大人になってほしいよね」
大学1年生のころ、そのアートセンターでやっていたノイズミュージックのライブを初めて聞いて衝撃を受けた。
退屈してて何もないと思っていた、都市ってつけるのがおこがましいくらいの地方都市で、爆音の圧に内臓が揺れる。初めて音に殺されるって思った。
こんなこと公共施設がやっていいんだ。そのアートセンターで働くことに憧れた。
そこには市民の有償ボランティア制度、サポートスタッフがあった。入りたいと思った。
でも1年生でサポートスタッフになっても、きっと自分は他の人に埋もれてしまうと思い、いろんなアルバイトを経験した。
3年生になって、ようやく少し自信を持って、サポートスタッフに登録する。
“カタパン”は、サポートスタッフを始めた初日、教育普及の職員に付けられたあだ名。
理由は、肩パンしても大丈夫そうなキャラだから。嫌なあだ名だったけど、あだ名を付けてもらえたことに喜んで、自分は否定しなかった。
ようやく入った憧れの施設では、地元の人やサポートスタッフを蛮人と呼んでる人もいた。
もちろん冗談で。冗談なんだから否定するのは粋じゃない。自分は一緒に笑った。
自分も笑われているのに。
どんなに嫌なことがあってもそのアートセンターに憧れたあの時の気持ちは捨てられないし、どこかで全員尊敬できたし、すごく優しい人もいる。
周りの誰も憎めずに、自分を責め続けた。心配してくれた人の言葉を、自分は大丈夫ですよとヘラヘラ聞き流した。
周りを変えることよりも自分を責めることの方が楽で、でもずるくて、いざ失敗したら周りのせいにしてた自分もいる。この文章だってそうかもしれない。
自分は自分のそういうところがめっちゃ嫌い。だからこの文章をここに書き残しておく。
ダサいことも、痛いことも、全部置いておく。
今は常勤職員になってしばらく経ち、生活も少し安定するようになった。チームが変わり、すごくいい仲間に恵まれて、痛みを感じることを言われることも少なくなった。安心できる場所をつくることが出来た。年下の後輩も入ってきて、それまでリーダーをやってくれてた同僚が抜けることになった。
常勤職員から、副専門職員になる試験を受けたら、普通に面接で落ちた。
付き合いの長い上司から、あなたに専門性はないですって諦められたみたいで悲しかった。
たしかに自分はまたヘラヘラして、自分の言いたいことを伝えられなかった。
伝えることを諦めてしまった。そんな自分が悔しくて、その夜電気を全部消して泣いた。
今の自分は、どうだろう。
昨日『104歳、哲代さんのひとり暮らし』という映画の感想を語り合う場所を開いた。これは一昨年の暮れから、だいたい毎月4回くらいやっている。休憩がてら立ち寄った人たちとお茶やジュース(ミルクティーが人気)を飲みながら、映画の印象に残った場面を話すうちに、みんなそれぞれ自分の過去をぽつりぽつりと思い出して語り始めたりする。昨日も15人くらい来てくれた。
コロナ禍の入院で、本当は会いたかった人を病院の窓から見送った話。
離れて暮らす娘の早産を電話で励ますことしかできず、悔しかった話。
祖母が隔離病棟で亡くなる直前、看護師がつないでくれたLINEビデオで声をかけたけど、触れられなかった話。
「哲代さんは明るくてすごい。私は後悔ばかりだ」と84歳の参加者が漏らすと、別の人が「いまからでもイメチェンできる!84歳、あと20年ある!」と励まして笑い合う。
飲み物を継ぎに別のグループへ。「職員さんですか?」と聞かれたので簡単に自己紹介し、「楽しく働いています」と答えると、一人の女性が「…仕事はつらいですよ。人生はつらいですよ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
彼女は三人の子どもを育てるために、大好きだった介護の仕事を諦めたそうだ。
「介護の仕事は給料が低くて、今はレジ打ちなんかをしています。でも、本当は働きたい」そう言うと、彼女の目から涙があふれた。
彼女にとっての“働く”は介護であり、レジ打ちはやらなきゃ立ち行かなくなる”仕事”。
彼女は泣きながら、どんな場面を、人を、思い出していたんだろう。
そのタオルがすごく大きくて「いっぱい泣けるね」とふざけて笑い合う。
尊敬する館長がしばらく前に亡くなった。
自分は、館長の本棚にあった「公共の役割とはなにか」という本をもらった。
館長から出された宿題みたいに、その問いのことをずっと考えている。
まだ宿題の途中だけど、今館長に聞かれたら、
公共文化施設とは、みんなで人間らしさを取り戻す場所って答えたいと思う。
人生は一人で抱えるには重すぎる。いつか自分の足で立つためには、みんなで少しずつ荷を下ろし、身軽になる必要もある。何かを得るだけでなく、重くなった気持ちも置いていける場所。そういう場所が、自分はあってほしい。
それは捨てていくんじゃなくて、きっと誰かが聞いている。
誰かが誰かを覚えていると信じられるから、新しい自分になっても安心して息が吸える。
小学生がうちの施設に社会見学に来たら「メディア・テクノロジーは人にものごとを伝えるワザ。コンピューターやインターネット、映像、照明、音響とかいろんなものがある。そう聞くと、電源が必要とか、新しくてシュッとしてるとか、固くて冷たいものを想像するかもしれないけど、いまみんなに話しているこの言葉だってメディア・テクノロジーのひとつ。僕らはつい最新のテクノロジーに注目しがちだけど、僕らが生まれるずっと前は、この”言葉”だって最新のテクノロジーで、思ってることを人に伝えられるのやべ〜!ってなってたはず。もし言葉が喋れなかったとしても指差しをしたり、狼煙を上げてここにマンモスがいるぞー!って伝えてた。でも当たり前に使えていると思ってるものも、使い方を間違えると怪我したりする。
このアートセンターでは、メディア・テクノロジーを改めて広く捉え直して、ありたい未来や可能性(こんな使い方出来たんだとか、こんなふうに伝えられるんだとか、こうなるとヤバそうとか)をみんなで考えて、みんなでつくっていくために、全員まだ答えを持ってない新しいアート作品をつくったり、紹介したり、それをみんなで見る場、話す場を開いてる」って伝えてる。ともにつくり、ともに学ぶ場なんだって。
例えば映画の上映に合わせておこなうお茶会みたいなイベントは、小さな場所の小さな営みで、”オリジナル”みたいに威張れることはしていない。たまたま映画を見に来た鑑賞者同士が、なんとなく休憩しに立ち寄って、お互いの話を聞きあえる場を開いているだけ。でも、そこに来る一人ひとりは、とても大きな人生を背負っている。
昨日立ち寄ってくれた年配の2人組。
少し背の低い女性が「耳がほとんど聞こえなくなった主人が、この映画は見たいって言ったんです。だから字幕がなくても今日は来ました」と穏やかな声で教えてくれた。
これを見たいと思うことと、一緒に見る人がいるのめっちゃいいですねと伝える。そしたら突然その人がパートナーの耳元に向かって、自分がさっき言ったことを大きな声で復唱してくれる。(この人、こんな大きな声が出るのか)と内心びっくりする。
男性は嬉しそうに「そうなんですよ」と言って笑った。言葉があってくれて、でっかい声で伝えようとしてくれて、ここに来てくれて、聞いてくれて、ほんとによかった。
その場を見ようともしない人ほど「効率が悪い」とか「KPI」とか「来てない人を納得させないと」とか「ソーシャルインパクトが大事」とか「経営的な戦略が必要」とかって、ティーチ(一方的に教える)よりラーニング(自分で学ぶ)が大事と言う同じ口で、一方的に教えてくれる。
いや、なんかそうなんかもしれんけど、うっせ〜〜〜。
簡単に人をモノのように扱える人ほど評価される世界は絶対間違ってる。
世界を変えるって、トランプみたいに自分勝手に世界を掻き回すことじゃ絶対にない。
世界を変えるって、ひとりひとりが自分の力を思い出して、取り戻すことじゃないんかい。
この前ポッドキャストの収録で話したひるねちゃんは「手元をみよう 手元をみよう」と、祈るみたいに2回言った。
「人の心に反射したその光こそが作品。作品が光ってるって言うより、あなたの心に反射したものが光ってるんだよ。エネルギーを飲み込まないで発散できる自分でいたいな」と言いながら、最後の語尾は震えてた。
心が諦めてしまうと簡単に、ブラックホールとかベンタブラック(99.9%の黒)みたいに、どんな光も吸収してしまう。
収録が終わってしばらく経ったある日ふと、本当に信じてることは信じてるなんて言わないのに、信じたいって思うことほど信じてるって口に出して言うのは不思議だなと思った。
言葉に日光を浴びせるように外気にさらすことで、いつかほんとに信じられるものに変わるかもしれないから、僕らは信じたいことを口に出すのかもしれない。
先週も大学を訪ねたら「アートは自分には縁がないもの」と学生が匿名チャットで教えてくれた。おい、誰がアートをその子に縁がないものにしてしまったんだ。関係ないものなんて、本当はなに一つないはずなのに。おい、誰がそんなふうにしてしまったんだ。
でも自分もアートに関わる仕事をしててそう感じさせたうちの一人でもあるかもしれないからそれはごめん!もう一度やり直したいからチャンスがほしい。そんな悲しいこと言わないでよ、寂しいじゃんって思う。
あームカつくな。ムカつくし、ムカつくという感情を思い出せたのが嬉しいな。
ムカつくの前には悲しいな、とか寂しいな、があるな。ムカつくのにも、悲しいなとか寂しいなを反射させる力が必要なんだな。
自分は小さな空間で、人が変わるまぶしい瞬間を何回も目にしてきた。
たしかに自分の文章はまだまだ分かりづらくて、曇った鏡みたいなものかもしれないけど、本当はもっともーーーーーっとすごい。まじ伝えきれね〜〜〜〜って思う。
それでも自分も、反射できる自分でいたいと思うからこの文章を書き残しておく。
昨日の朝、映画を見る前、教育学部の授業に自分が働くアートセンターの紹介をしに行った。
朝一の貴重な40分をもらって全力でプレゼンしたあと、先生がブラインドトークのワークショップに参加させてくれた。
10人が3チーム、絵を見て言葉で伝えるチームと、その説明を聞いて絵を書くチーム、そのやり取りを観察するチームに分かれる。
5分間で出来上がった絵は、答えに近い人もいれば、まあまあ遠い人もいる。
その後のフィードバックの時間は、こう説明すれば良かった、こう質問すれば良かったなどの意見を交わす。
右から1/3の位置に〇〇があるみたいに数字を入れて伝えるとか、全体の雰囲気やテイスト(イラストなのか写実的なのかなど)を伝えてから具体的な描写を伝えるとか、一番大事なこと(なにを伝えたい絵なのか)に絞って伝えるとか、いろんなアイデアが出た。
どれもすごい大切だって思ったと同時に、自分はなんかもう、最強だな〜〜〜って思った。
最強って、いまめっちゃ強いとか、いまめっちゃ説明が上手とかじゃなくて、変われるってことだと思った。伝えようとしてる人がいて、聞こうとしてる人がいる。もうそれで十分じゃん。言葉が足りなきゃ付け足したら良いし、分かんなかったら聞けば良い、言い直したらいい。
ほんとは完璧なコミュニケーションなんてなくて、伝えたいとか聞きたいとか、それを諦めずに関わろうとし続ける限り、うちらはもっと強くなれる。もしかしてそれを教育と呼ぶのでは?!みたいなことに気づいて驚きながら言った。
みんないい姿勢で、まっすぐ聞いてくれた。おい、まぶしいな。ありがとう。
先生にお礼のメールを送る。あの子達が4年生になるのが楽しみですねって伝えた。ここには書かないけど、嬉しい返信が返ってきた。また会いたいな。学生も先生も全員サポスタに登録して欲しい。
同僚のNさんとサポスタ募集の打ち合わせしたら「うちらがやってることは、誰に見せても恥ずかしくないから本当はターゲットなんてない。ターゲットは全人類、死んでるやつも、これから生まれてくるやつも。ひとまず50億人全員サポスタに登録してもらおう。」って話してて爆笑しながら超グッと来た。絶対そうなった方がいいしやっぱ最高だなこの人って思った。
トランプも、ゼレンスキーも、オバマも、プーチンも、ネタニヤフも、オードリー・タンも、石破茂も、議員会館の地下で迷子になってる秘書も、海を渡ってきた難民も、夜勤明けでレジを打つコンビニ店員も、介護の夜勤でウトウトしてる人も、野良猫を拾ったけどなかなか懐かなくてすこし懐いてくれて安心したら実は腎臓病が進行してて休日は暴れる猫を連れて動物病院に通う新入社員も、推しのVtuberにスパチャしすぎて家計簿が真っ赤な人も、好きな人と一緒になれなくて家で一人で泣いている遠距離恋愛のカップルも、育休取りたくても言い出せない課長も、同性婚を夢見るカップルも、初めてステージに立つ前に鼓動が早くなってるドラァグクイーンも、卒論提出3時間前の大学5年生も、家の外に出る勇気が湧かないひきこもりも、声を出すと噛んじゃう吃音持ちも、白杖を持った視覚障がいランナーも、手話でコントをやる芸人も、補聴器の電池を切らしたおばあちゃんも、手足のないスケボー少年も、車いすで山道を攻める登山家も、PTSDに苦しむ帰還兵も、大学の講義室で聞いてない学生に向けて伝えることを諦めようとしてる教授も、モテることとサボることと遊ぶことと就活で頭がグチャグチャだったあの頃の自分みたいな大学3年生も、収容所で自由を夢見る政治犯も、その看守も、裁判で涙を流す加害者も、被害者も、サウナで “ととのい” を追い求める会社役員も、離島で保育士を探す町長も、推し色ジャージでライブに並ぶ中学生も、バイト代を全部ガチャに突っ込んだのに天井までSSRが来ない高校生も、フィリピンのごみ山でタガログ語ラップを刻む子どもも、アマゾン流域で川と話すシャーマンも、北極で氷が割れる音を聴く魚も、火星着陸の夢を抱く在野の<
すごいよなぁ。
サラリーマンしてると、サラリーマン以外の生き方がイマイチ想像がつかないんだけど、見渡せば、一国一城の主ばかりだ。
水道屋もペンキ屋もデザイナーもパン屋も、みんなそうだよなぁ。
何するにしたって、個人事業主だって決算書作ってんだろ?すごいよなぁ。
人を雇うと社会保険関係の仕事が発生するじゃん?すごいよなぁ。
というか、アイデアもでないよ。
浮かんだとしても、「俺なんかが考えつくやつなんかきっととっくに実現してるか、儲からないからやらないんだろ」
って諦めちゃうわ。
俺なら、あんなのMicrosoftとかGoogleにかなうわけないって思ってやらない。
たまに勘違いされるが、戸籍の性別変更の手続きは役所ではなく家庭裁判所でおこなう。扱いとしては住所変更などではなく改名等に近い。提出するのも、(手術を受けた場合は)手術関連の証明書や診断書、場合によっては希望する性別での生活実績に関する証拠など。
役所の仕事ならば法律で規定されている通りの扱い以外期待しにくいが、裁判所ではある程度の独立性が認められていて、特に憲法とより下位の法律が衝突したときなどは裁判所の裁量で扱いを決めることができる場合がある。
性別変更については、一応いわゆる特例法が性別の変更を可能にした法律であり、それをもとに運用されていたが、特例法の手術要件に関する近年の違憲判決等を受け、裁判所側は憲法を優先する形での判断をし始めている。結果、男→女も女→男も、すでに手術なしでの性別変更が認められた事例ができている。実のところ、すでに違憲判決が出た不妊化要件だけでなく(こちらは女性では満たすことが難しいとされていた)、外観要件や(現状では厳密には前提であり要件ではないが)ホルモン要件を満たしていない性別変更もすでに認められた例が出ている。
それゆえ、性別変更に関する法律の改正は、「性別変更を容易にする」というよりは、「違憲判決に基づいてすでに現場レベルでは容易化されている実情に法律を合わせ、違憲状態を解消する」程度のことになる。
新政権やその支持者が反対意見を表明したとしても、司法をコントロールしない限りは、単に違憲状態の法律が立法府で放置されたまま裁判所では粛々と憲法の精神に従った判断を下すだけだろう。
2次元エロ美少女を広告に使うことで気持ちが踏みにじられちゃってることも問題なんだから、同様にルール化すればいい。法律や政令や条令やらで。
国を象徴する国旗は、大多数の国民に対して影響があることなんだから、法律で制限しようって流れだろ。
1. 背景と問題意識
若年女性や少女たちの居場所づくり・自立支援を掲げるNPOや団体が多数活動している。
これらの支援活動は、当初は善意と社会的使命感に基づくものであったが、
近年、一部の団体において「支援活動が制度化・収益化する構造」が形成されつつある。
本人が弁護士関与を希望していなくても、団体の運用ルールで強制的に同席
行政は弁護士の必要性を実質的に審査できず、形式上合法な支出として承認される
この構造のもとでは、「支援対象者」が本来の目的(自立支援・人権保障)よりも、
団体や専門職の活動維持・収益確保のための資源として機能してしまう危険性がある。
しかし、次のような構造が常態化すると、倫理的に重大な問題を孕む。
弁護士が同席する 「法的助言を提供」「支援の質向上」 関与が報酬発生の手段となる
時給8,000円設定弁護士業務としては適正 公金支出としては突出した高額
助成金での支払い公益目的に沿うように見える弁護士費用の恒常的補填構造
本人意思を経ない同席 “保護”の名目で正当化支援対象者の自律を奪う
このような仕組みは、「違法ではないが、倫理的に不当」な構造的誘導といえる。
東京都などの行政機関は、次の理由で「弁護士関与の必要性」を実質的に判断できない。
結果として、団体が自由に弁護士を関与させ、報酬を支出する「制度的自己完結」が発生する。
これは、公金の透明性・公平性・効率性を損なう構造的リスクである。
支援倫理 本人中心・自律支援団体の構造により本人意思が形骸化
弁護士倫理自由な依頼関係と誠実性自動関与・利益誘導的報酬構造
これらを総合すると、**形式的には適法であっても、倫理的には不当な「制度的腐敗」**の状態にある。
支援対象者が「保護される女性」として固定され、被害が語られ続けることによって
つまり、支援が被害を資源化する(commodification of victimhood)構造に陥っており、
支援団体・専門職・行政が共有できる「本人中心支援と倫理規範」を文書化。
7.結論
被害の構造を利用し、支援を装った利益循環の装置になっている。
それは違法ではなくとも、
反論:外国人労働者を受け入れなくても“管理された縮小”は成立しうる
縮小が均衡しない主因は「広い空間に人が薄く分散」していること。
外国人で総量維持ではなく、地域と産業の再配置で人口密度を再構築する。
具体策:
効果:固定費の単位当たり負担を下げ、ネットワーク崩壊を回避。
具体策:
自動化・ロボティクス・生成AIの導入(製造・物流・介護・農業)
社会的コスト(医療・教育・社会保障の追加負担、文化・治安調整コスト)。
量ではなく質で最小実行規模を確保。
方向性:
| 分野 | 外国人労働者なしの対応策 |
| 医療・介護 | AI診断・介護ロボット導入/健康寿命延伸で需要抑制 |
| インフラ | 自治体・生活圏の統合/更新凍結・スマートメンテナンス |
| 産業 | 設計・制御・素材分野へ集中投資/量より知財輸出 |
| 労働 | 定年延長・柔軟勤務・AI支援で生産性倍増 |
| 地方財政 | 合併+行政DX+クラウド化で人件費削減 |
| 防衛 | 無人化・AI指揮統制・共同開発で人員依存を低減 |
「縮小均衡は崩れる」という見立ては、空間と制度を現状維持のまま縮める前提による。
構造を圧縮し、技術で密度を再構築すれば、外国人労働者なしでも均衡は成立しうる。
連行の際に「指の痕」を女性の腕に付けたとして逮捕されたと聞きました。
このニュースをご存知の方は事件の詳細について教えてください。
通常は腕に「指の痕」が付いた程度で傷害事件として立件されることはまずないはずです。この男性はなぜ逮捕されたのでしょうか?
指の痕程度に皮膚の表面を損なうなんてことは普通に生活してても毎日のようにあるよね。
そんな程度の怪我すらも区別せず傷害罪として認識して、傷害罪は犬の糞を捨てるのが軽犯罪なのに対してより重いから前者のほうを事件化させるっていうのはちょっとおかしいと思うわ。
たいていの人間の価値観にとって指の痕よりは自分の庭に糞を捨てられ続けるほうが迷惑だろう。
同じ行為でも結果が軽ければ軽犯罪とみなされるものがあったと思うので傷害を起こす行為について同じように軽犯罪のバージョンも作るべきだと思うんだよね。
そうすれば今回のような事件は軽犯罪同士の衝突してまだ犬糞捨て人間も逮捕される余地ができることになった。
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世界保健機関(WHO)は、少なくとも1500万人の子供を含む1億人以上が電子タバコを使用しており、ニコチン依存症の新たな波を助長していると警告している。
WHOは、入手可能な世界規模のデータに基づくと、子供が電子タバコを使用する可能性は、平均して成人の9倍高いと指摘している。
WHOのエティエンヌ・クルーグ博士は、電子タバコがニコチン依存症の「新たな波」を助長していると述べた。「電子タバコは有害性軽減を謳っているが、実際には子供たちを早期にニコチン中毒に陥らせ、数十年にわたる進歩を損なう恐れがある」
複雑なものをシンプルにする能力は、日本のWebサービス、特にインターフェイス設計(APIとUIの両方)において、しばしば課題として指摘される点だと思います。
ユーザー体験(UX)を損なう「使いにくさ」は、単なる実装力の問題ではなく、設計思想と要件定義の段階で、いかに「シンプルさ」を優先できるかにかかっています。
ご指摘の証券会社の例のように、ユーザーのニーズや行動よりも、企業の内部的な都合(例:部門間の連携、既存システムとの兼ね合い、法的な制約の過剰な解釈)が優先され、インターフェイスにそのまま反映されてしまうことがあります。
「銀行口座の同時開設」:これは、サービス提供側の都合で「ついでに登録させてしまおう」という発想、あるいは内部的なプロセスをユーザーに押し付けている典型例かもしれません。ユーザーにとっての最適な体験は、「必要な時に、必要なものだけを、わかりやすい手順で」提供されることです。
国産SNSの例で言われているWeb版実装の難しさは、まさにAPIインターフェイス設計の破綻を示唆している可能性が高いです。
これは、内部のシステムがモノリシック(巨大で密結合な一つの塊)になっており、データやロジックが明確なインターフェイス(API)を介して提供されていないことを意味します。
本来、アプリ版とWeb版は、同じバックエンドロジックとデータに共通のAPIを通じてアクセスするべきです。
それができないということは、アプリ版の実装がアドホック(場当たり的)で、APIではなく内部の構造に深く依存してしまっている証拠かもしれません。
「複雑なごちゃごちゃしたものを作れる能力」はあるという評価は、「機能の足し算」に長けている開発文化を指しているのかもしれません。
新しい要件やリクエストがあるたびに、既存のシステムに「機能を付け加える」ことには長けているが、「本質的でないものを削ぎ落とす」「複雑なものを抽象化して整理する」という「引き算」や「構造化」のスキルが欠けている。
「シンプルさ」とは、単に機能が少ないことではなく、「複雑な内部構造をユーザーから隠蔽し、必要な情報だけを整理して見せる」という高度な抽象化の成果です。
ご意見の通り、日本のWeb系で求められているのは、「複雑なものを実装する能力」のさらに上にある、「複雑なものをシンプルに設計し直す能力」、すなわち「本質を見抜く力」と「構造化・抽象化の思考」なのかもしれません。