はてなキーワード:ごんぎつねとは
戦地に赴く父親がコスモスを摘んで、「一つだけあげよう」と…
戦時中、どの家も貧しく十分なご飯がなかった。ひもじい生活の中で育った少女ゆみ子は、「一つだけちょうだい」と言うのが口癖になっていた。そう頼めば、何かもらえると思ったのだ。イモ、カボチャの煮つけ、何を求めるにしても、かならず「一つだけ」と付け加えるのを忘れなかった。
戦争が激しくなり、ついに父親が兵士として戦場へ行くことになった。駅へ見送りに行く途中、ゆみ子は「一つだけ」と言って父親が持っていくはずのおにぎりをみんな食べてしまった。汽車に乗り込む前、ゆみ子はまた「一つだけ」とおにぎりをせがみだす。もうおにぎりは残っていない。父親は不憫に思い、駅構内のゴミ捨て場のようなところに咲くコスモスを摘んで、「一つだけあげよう」と言って渡す。
10年が過ぎ、戦争が終わって日本に平和な日常が訪れた。父親は戦争から帰ってこなかった。その代わり、ゆみ子の家の周りにはたくさんのコスモスが咲き乱れていた――。
校長によれば、この物語を生徒たちに読ませ、父親が駅でコスモスを一輪あげた理由を尋ねると、次のような回答があるという。
「駅で騒いだ罰として、(ゴミ捨て場のようなところに咲く)汚い花をゆみ子に食べさせた」
「このお父さんはお金儲けのためにコスモスを盗んだ。娘にそのコスモスを庭に植えさせて売ればお金になると思ったから」
小学6年生になったら両親たちの前で受精ダンスするじゃないですか。
今の子どもってもうやらないんですかね?
流石に知らない人はいないと思うんだけど、念のために受精ダンスを説明しておきますね。
まず受精。受精っていうのは卵子と精子が結びついて胚が形成されることです。
で、受精ダンス。これは文字通り、射精された精子が膣内を泳ぎ卵子と結びついて受精するシーンを表現した創作ダンスのことです。
小学生の時に踊ったよね?
いや確かに受精ダンスって言っても正確には受精の瞬間だけではなく、
膣内への射精された精子が子宮腔内・卵管へと遡上して受精し着床に至るまでの妊娠の過程を表現してる訳なので、
もしかしたら受精ダンスはローカル名称で妊娠ダンスとか精子ダンスとか別の呼び方が主流の地域もあるかもしれません。
もう少し説明すると、
時は平安時代末期、木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いにて牛の双角に松明をくくりつけ、怒涛の勢いで崖を下り寝静まった敵陣へ突撃し、慌てふためく平家軍その数10万を寡兵にて打ち破った逸話が如く、
卵子に向かって産道を力強く泳ぐ精子の鞭毛に見立てた長く伸ばしたる白きビニール紐(ポンポン作ったりする帯状のやつね)を両の手首に結びつけ、自らを3匹の精子となして、
皆で精子の大軍を作り、進軍するかのように走りながらも踊り狂い、ようやく到達した卵子を取り囲み包囲網を狭めながらぐるぐると周回し、
やがて選ばれた1人の精子が1人の卵子と手を取って踊り、受精できなった精子たちから祝福される。
そんな感じのダンスです。
「両親」とは父と母のふたりを指しているので、両親に「たち」を続けて書くのは重複表現だ!という話ではなく。
全校生徒の両親たちの前で踊るんです。
みんな踊ったよね?
いや確かに「次は6年生の出し物で、受精ダンスでーす!」っていきなり始まるわけじゃなかったですよ。
正確には劇の中のワンシーンだったので、受精ダンスしたってのを大げさだって指摘されるかもしれないですが。
(そういやどうでもいいんだけど、劇やってたのに学芸会じゃなくて学習発表会って名前の行事だったな…)
小学生が裏山に墜落したUFOから宇宙人助けてその御礼で過去に戻り、
父親と母親が出会ってセックスして受精ダンスして子どもが出来て大変な育児をして家族に愛されて今のあなたに育ちましたっていう
自分たちが生まれる経緯を追体験してあなたは大切な命なんですよー、みたいな。
劇のタイトルとか細部は超うろ覚えです。「命の物語~なんとかかんとか~」だった気もする。
宇宙人を助けたお礼で過去に戻るとか意味不明なんだけど、もしかしたらお礼じゃなくて人類の調査とかそんな理由だったかもしれない。
実は事故で死んだのは小学生で複製した体に記憶を埋め込むために過去の情報を集めて…みたいなストーリーに意味のある劇ではなかったはず。
下級生は「大きなカブ」とか「ごんぎつね」とか「スイミー」とかやってる中に、ボクら小学6年生は受精ダンスな訳ですよ。バカじゃねーの。
つまるところ、
小学6年生のボクらは性教育を受けた成果として、学習発表会に全校生徒の両親たちを前に性教育をテーマにした劇をして受精ダンスを踊った。
って話です。
今も昔もそんなことしてねーよ!ってツッコミでしょ?
リアルでもネットでもこの話をすると爆笑されて頭のおかしいやつ扱いされるか、ドン引きされて頭のおかしいやつ扱いされるかの2択です。
自分や同級生が精子になる話として聞けば爆笑かもしれないけど、自分の子どもが精子にされる話だと思えばそりゃドン引きだよね…
はなたれ小僧だった小学生のボクはなんも考えてなかったけど、冷静に考えて――いや冷静に考えるまでもなく頭おかしいよね?
大切な事だし、難しいのは分かります。
正直言うと、自分は当時に受けた性教育の内容全然覚えてないんだよね…
性器のついた男女の人形と性行為を説明したような絵本(紙芝居だった…?)を使った何回かの授業(内容は微塵も覚えていない)
共通スペースみたいな場所に好きに触っていいですよーって感じで展示物として授業の教材が置かれてたような?
すくなくとも自分に対しては実のある授業ではなかったのは間違いないです。申し訳ない。
授業をしてる先生が自分みたいな頭の足りないガキからは茶化されて、感受性の高い思春期の女子からは気持ち悪いオトナ扱いされるような
そりゃいろんなことを押し付けて、教師の鬱が問題になるのも仕方ないよなぁって。
でもさぁ、それにしたって学習発表会で性教育をテーマにした劇をするか?
性教育の劇をやろうって決めた当時の教師陣はマジでなに考えてたんだよ家族が人質か???
あの、アレあるじゃないですか。特殊性癖の有名なやつ。一大ジャンルになってるハイグレ化ってやつ。そんな感じで。
頭のおかしい学年主任が女子小学生を精子にして踊らせることに性的倒錯だとか征服欲だとか愉悦を感じてたって言われたほうがまだ納得いくよ。
けど先生方は真面目だったんだろ?真剣に生徒のためになると思ってやってたんだろ?だからこそ余計にわけわかんねーって!
親は子どもの晴れ舞台を見に学習発表会に行ったらお出しされるのが受精ダンスだぜ?
当時に親の反応まとめスレがあったなら100回声出して読みたいが、秒でインスタに受精ダンスが公開される時代じゃなくてマジで良かった。
今更なんだけど改めて自分の両親に劇の感想だとか、他の親御さんたちはどんな感じだったかなんて怖くて聞けねーもん。
これお出しされた後に教師と親でPTAの会合がどんな雰囲気だったか想像つかないよ。
小学生の自分はホントになんも考えてないガキだったんで劇なんてダサいぜ!めんどくさいわー程度にしか考えてなかったんだけど、
自分が中学生とか高校生になって、テストの点数を問われる形で性教育の授業をやって、異性のことを少しは真面目に考えるようになったときに
「あれ…あの小学生のときのアレってなんかおかしくなかった…??」みたいな。過去からやって来る薄ら寒さと恐怖というか。
真面目に性教育を受けていた同級生はもっと嫌な気持ちで劇をやっていたのかと思うと申し訳ない気持ちになってくる。
親とか友達とか密かに想ってる好きな子とか、大切な人たちの前で。
死ぬって。腹切って死ぬって。~命の物語~の終着点は今ここだよ。
さすがに親を前にして「精子するの楽しみ!受精がんばるぞッ!」なんて思ってた奴はいなかったと思うんだが、
もしかしたら無知なまま無邪気に前向きに胸を張って精子やってた同級生もいたのかなぁ…
あークソ!自分のトラウマが生成AIの作ったおもしろエピソードであってほしい…
思ってることはもっとごちゃごちゃしてて盛って茶化した感じで書いてるけどさぁ、真面目な顔しては語りにくいって。
ネットっていうのは集合知がなんとかかんとかで人類の英知が集まる場所らしいので、
ボクら同級生の体験以上に頭のおかしい性教育エピソードを披露してもらって
親の前で受精ダンスなんてどこにもある、ありふれた物語だよって教えて欲しい…
いやまじで。
こっそり教えてよ。
Permalink |記事への反応(11) | 14:35
機動戦士ガンダムのガルマが死んだのは、四人いた脚本家のうち山本優って人の発案らしいけれど、
それに怒ったファンからカミソリが送られてきたと知ってびっくりしたよ。
普通するかそんな事?ジョジョのあーんスト様の手紙なんかは微笑ましい部類だし、わざわざ晒す方が大人げないとすら思ったが。これはそういうレベルじゃない。
それ自体は過去の話にしても、ネットを見ていると今も同様の思考のファンは珍しくないから怖い。
ガルマさえ生きていれば歴史が大きく変わっただとか、妙に重要視している人が多いのが謎なんだよね。そりゃ感想は自由だけど、ごんぎつねを読んでごんは死んでないと言い張る並に無理筋の主張というか。普通に見てたらそうはならなくない?
アニメを見ているとガルマって元々普通に死ぬキャラにしか思えないんだけど。単なる世間知らずのボンボンで、そこまで重要とは思えない。
何なら味方陣営もリュウとかマチルダとかスレッガーとか割とガンガン死んでいるが、これらのキャラクターの死に関しても同様の嫌がらせはあったんだろうか?聞いた記憶はない。
ガエリオは本来ならば一期のラストでマクギリスに殺されてそのまま死んでた所を、二期で生かす事にしたせいで話がめちゃくちゃになったと思う。
朝起きてニュースを見たら、ウクライナとロシアの戦争がますます不安になる状況だった。
いつになったら平和になるのか。維新の党の不祥事もまた話題になっていて、政治のニュースを見るたびにため息が出る。
そんな気分を吹き飛ばそうと、昼はスタバへ。
無印良品で新しいノートを買ったついでに、抹茶ラテを飲みながらぼんやりしていた。
そしたら隣の席の女子大生らしき集団が「リアコがつらい」「タイパ悪すぎ」と盛り上がっていて、最近の若者言葉についていけてないことを実感する。
帰り道、雪で滑った。派手に転びはしなかったが、ちょっと恥ずかしかった。
家に帰ってホットミルクを飲みながら、ごんぎつねを読み返す。何度読んでも救いがなくて切なくなる。もし現代だったら、狐がSNSで「人間怖い」と愚痴をこぼしてるかもしれない。
昔、山の中に住んでいたごん――すなわち俺は、いたずらが大好きだった。
畑から芋を盗んだり、川で魚を捕ったり、人間に見つからないように悪さをして、それなりに楽しく暮らしていた。
ある日、村の兵十って男が母親を亡くした。
そんな大変なときに、俺はちょっとした悪ふざけで、兵十が捕まえたウナギをこっそり逃がしてやった。
別に深い意味はなかった。ただ、なんとなく面白そうだったから。
兵十は母親のためにウナギを持って帰ろうとしていたのに、俺がそれを邪魔したせいで、彼は母親に何も食べさせてやれなかった。
罪悪感に駆られた俺は、それからというもの、こっそり兵十の家に栗や松茸を運ぶようになった。
どうせ山にはたくさんあるし、少しくらい持っていってもバレやしない。俺なりの償いだった。
しばらく続けていたら、兵十が「最近、家にいいものが届くんだよな…」とか言い始めた。
よしよし、気づかれないようにしながら恩返しは続けようと思っていた。
ところがある日、俺は兵十の家にもっと栗を届けようとして、うっかり彼に見つかってしまった。
次の瞬間、ドンッ!と音がした。
激痛が走る。何が起こったのか分からなかったが、俺は撃たれていた。
兵十は俺を泥棒か何かだと思ったらしい。俺は倒れながら、やっと言葉を出した。
「俺が、お前の家に栗を運んでたんだよ…」
兵十は驚いた顔をしていた。でも、それを見て俺は思った。
いやいや、待てよ。そもそも、最初にウナギを逃がしたのは俺じゃないか?
それがなければ、こんなことにはならなかったんじゃないのか? でも、栗を届けてたのも事実だし…。
…これって俺が悪いのか?
実際には、教育効果を狙って鈴木三重吉が編集を加えたものが教科書に採用されている。
その編集の際に、ごんぎつねが死んだことに改変された可能性があり、オリジナルの、口伝の段階では実はごんは撃たれていない可能性が高いのだ。
ごんぎつねの読解力が問題になってるけど、親に本の読み聞かせして貰ってない世代なのでは?と思う
Xでちょっと話題になってたやつ、死んでないって意見も出て不思議じゃなくない?
昨今の小説でも漫画でもドラマでも映画でも、「実は死んでませんでした〜」ってよくある展開じゃん。個人的には冷める展開だと思ってるけど。
黒幕の最後の攻撃から仲間を庇って死んだと思われてた奴が、シーズン2とか続編で「実はあの時こんなことがあって…」みたいな理由を後出して持ってきて結局生きてた、みたいな展開。
そういう風に物語を作られちゃうと受け手のこっちだって、死体の描写とか、お葬式の描写とか、死んだことを確定させるシーンがない限り、実は生きてるかもなぁって思いながら見ちゃうもん。
ごんぎつねだって、文章に書かれたことだけを事実として見るなら生きてる可能性があるって考えてもおかしくないでしょ?
色々見てて一番引っかかったのは、「行間を読む能力が〜」とか言ってる人がいたことなんだけど、行間を読むって一歩間違えば、物語に描かれていない場面を自分に都合の良い妄想で補完しただけになっちゃうじゃん。そうなるともうそれは二次創作とか夢小説の類じゃないか?
それは正しく物語を読むことが出来ているといえるのか?
小学生の読解力云々言ってる人もいたけど、事実だけをきちんと見た結果、死んでないという意見を持つのであれば、正しく文章を読むことは出来ているとみていいでしょ。
これだけエンタメが溢れてる時代に、後出しで生きてました展開なんか別に珍しいものでもないんだからさ、生きてる派がいても死んでる派がいても別に不思議じゃないでしょ。
ごんぎつねSeason 2 〜後悔の弾丸(バレット)〜 の冒頭で、火縄銃で撃たれ瀕死の状態から助かったトリックをごんが得意げに教えてくれるかもしれないだろ。
なんかこう第二次性徴あたりの連中に「俺だけはこの良さが分かる」みたいに刺さりそうな雰囲気だけはあるけどさ。
散々盛り上げてからドカンとバッドエンドを叩きつけることで逆方向のカタルシスを生み出そうって発想がなんていうかこう、あまりこういう作品に慣れてない子供相手にインプリンティング狙ってるなあと。
物語的な主人公補正を最後にいきなりフラっと切り離して、陰鬱な終わり方にすることで「これぞリアル(ニチャァ」ってかましてくるの。
深夜アニメの視聴者層が全体的に高齢化してきて(今の若い子はアニメよりもVに夢中なので)、結果的に疲れたオッサンに「リアルとか辛いよね。幸せな夢に逃げようね」するアニメが増えて廃れていった感じの作劇方法。
まあ結構古い作品だから仕方ないんだけどさ、やっぱこう令和に見ると「うわぁ~~~古典って感じ~~~~」なのよね。
これをやたら持ち上げてるインターネットの人達って最近の本読んでないんじゃないかな?
ごんぎつね持ち上げるような連中は本屋大賞も芥川賞も全く読んでなさそう。
小学生の半数が、ごんぎつねを読んで、ごんが死んだという明確な描写がないため、ごんは生きていると考えている、小学生の読解力の低下が問題だって話。
いやいや、これを読解力の低下と結論づけるのは横暴だろう。
ごんは生きてるよ。
これがアベンジャーズなら確実に生きてる。他のヒーローの続編で生きてる可能性が匂わされたあと、「GONGITSUNE REVENGE」で奇跡の復活とげっから。見とけよ。
まず大前提として作品の中で直接的な表現を避けている場合は避けている理由がちゃんとある(ことが多い)
アスカがシンジのことを好きだというはっきりした描写がないのは
「好きかもしれないし嫌いかもしれない」
というシンジ側の目線に立って14歳の少年の心情に自己投影させるため
なので「好きとは明言していない」というのが正解であって
「いや、あれは好きなんだよ」
と決めつけるのは明らかな間違い
しかもこの手の明言を避けるレトリックは「実はそうではない」というオチに持って行くことが多い
ちなみにエヴァの17話「四人目の適格者」ではこのレトリックを上手く使っていてトウジが4人目だとは明言していない
状況証拠だけで4人目がトウジであることを伝えていて、分かりやすいぐらい明言を避けている
前述の通り普通はこの手のレトリックは「実は4人目は別の人でした」というオチに持って行くためのミスリードなんだが
さすがにどう考えても4人目はトウジ以外に無い状況になっていて視聴者に「なぜこのレトリックを使うのか?」と疑問に思わせた
そして18話「命の選択を」で明言がないままにラストシーンまで持って行き
と言わせることに成功している
ちなみにここから更なる仕掛けをしたのがエヴァ破なのだがそっちは省略
ごんぎつねは死んでいる
なぜなら当時はそういうレトリックが(童話向けに)ほとんど浸透していなかったので普通に暗喩表現しているだけ
文章だけを捉えて「これはこういう意味」という風に決めつけるのは限界があって
https://www.yanabe-e.ed.jp/01nankitiMap/nankiti_siryo/gon_zenbun.htm
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。
火縄銃を落とした後の、兵十の動きは速かった。
通りすがりの村人にAEDの手配を頼み、別の村人に救急搬送用の馬を呼んでもらい、
定期的に蒸し返される狐の死亡問題。
多くは国語的、情緒的アプローチと理数的論証との対立といえる。
どちらもアホ、バカ
文学作品の解釈なんだから作家性や歴史からアプローチするのが正しい。
音楽にはアナリーゼという分野がある、文学にも歴史分析の専門がある。
古典文学、例えば源氏物語を読むときに文字面の論理的解釈では足らないのであり、歴史的背景、作者の心情の推察、身分、出自、生育。
外国の文学を読むときはその国の文化的背景もイメージしながら読むだろう、当たり前だ。
なぜ同じことをごんぎつねでやらない?
昭和初期、愛知県半田市出身で不遇の幼少期、北原白秋を師と仰ぐ19歳が書いた童話
どう考えても狐は死んでる、普通に殺すわ。
さらには誰に向けて、なにを意図して書いたものか。なにを啓蒙しようとしたか、諭したいのか。どういう時代だったか。
勧善懲悪物語以外にはありえない、死で償う以外のストーリーはありえない。
ちょっとは頭使って考えろよ