
はてなキーワード:ぎっくり腰とは
※タイトルの藻女は誤字でなく、当事者だけど喪女という表現が嫌いなのでマイルド?に言い表してみました。
いない歴=年齢。
まぁ、30代の時分には焦って婚活したり怪しげなマッサージも本気で検討したりしたけど、40を超えてみると、
「もう、いいか」
と、良くも悪くも諦めがついた。
自分一人と猫を養っていけるなら、それで十分。
女というある意味「見られる性」を卒業して、ここからは自分ファーストで自由に生きようと吹っ切れた矢先。
これまで順調だった生理が急に不順になった。
ストレスで稀に飛ぶこともあったので、それかなと思ったけど、3カ月ぶりに来たと思えば、1カ月以上ダラダラ続く。
凄く嫌だったけど婦人科で診察を受け、最初はピルを処方されたりしてたのだけど、今回は、様子が違った。
1カ月以上、とにかく量が多い。
それを医者に言うと、即内診、子宮体がん検診、その場でMRI予約、、、まぁ、何も出ないでしょうと、たかをくくって昨日結果を聞きにいったら、子宮内膜増殖症とポリープがあるとか。
一応、経過観察もできるらしいけど、放置すると癌になる可能性も出てくるし、不正出血はこのまま続くだろうとのこと。
年齢も44歳。
それに、パートナーの有無にかかわらず、何なら結婚したとしても、子供は絶対欲しくないと思ってた子供嫌いなので即答。
摘出しましょう。
したっけ、そこから話は早く、医者もこちらを向きなおり、手術の前の診察などの予定を聞かれる。
そして、心の準備がいる。
結果、来月に改めて相談となった。
1週間かかるらしい。
そこまで聞いて急に不安になる。
健康だけは自信があったのに、まさかこんな大事が待ち受けてるとは。
看護婦さんに手術の説明や不安を少し聞いてもらったけど、モヤモヤする。
子宮を使うつもりは元々なかったけど、結局、一度も子宮の頑張り(20年以上の生理や排卵)に応えてやれなかったなという思いはちょっとだけ出る。
健気じゃない。
妊娠どころか、妊娠する可能性があるイベントが一ミリもない中、毎月せっせと妊娠した時のために子宮内の準備をしてきたことを考えると、期待に沿えずにごめん、と母親にすら思わなかったことを感じる。
(またいずれ書くけど、母親との関係があって、私は子供が欲しくないので、罪悪感とか感じたことはなかった)
でも同時に、子宮は私の体の一部だけど、それだけが私の人生じゃない、私本人の意志で生きる、という反発もある。
「女は子宮で考える」とかいうグロテスクな男目線のフレーズや、昨今の子宮を持ち上げるような風潮も、多少見聞きしてたから、余計、子宮が自分の全てのような考えには抵抗がある。
でも、腎臓を一個摘出するのと子宮を全摘するのでは、だいぶ、印象が違うよな、と。
私も子宮は女の特権とか、そういう考えが実はあったのか、と愕然としたり。
昨日はしばらくAIに自分の考えを壁打ちさせて、とにかく考えをまとめるのが精いっぱいだった。
結果、子宮が全てではないし、結局残しても、使うつもりは端からなかったのなら、無駄な感傷で癌のリスクを残すのは本意でない。
ただ、子宮でもほかの臓器でも同じく、自分の中に生まれた時からあったものが取り出されることはやっぱり多少の感慨はあることを認める。
例えるなら、多機能なスマホを持ってても、買い替えるまですべての機能を使い切らない、知らないまま終わる昨日もたくさんあるのと同じ、と納得させた。
子宮は目に見えないけど、ずっと私の中で来るべき日に備えて、妊娠の準備をし、今月もダメだったのね、と言わんばかりに血を外に出してきた。
幸い、生理痛やPMSがほぼなかったので、生理がメンドイな、ぐらいにしか思わずに来たけども、最後の最後で痛恨の一撃。
それでも、一緒に生きてきたことには変わらない仲間なので、恨み言を言ってグッバイするのは嫌。
必要以上に惜しむのも違うかな、と思うけど、お疲れ様、ぐらいはちゃんと伝えたい。
出血もまだとまらないけど、これが最後かと思うと、子宮の涙にも思えてくる。
子宮の血、つまり見えないだけで、子宮はボロボロでこんなに長い間血を流し続けている。
それはもう、私が引導を渡して開放する時期なのかもしれない。
むしろ、最後に子宮体がんのリスクを一緒に連れていってくれるのだと思うと、どれだけ健気なのかと。(都合よすぎる考えかな)
子宮を摘出することに関しては最初から理性的には迷いはなかったけど、自分の中で感情的な抵抗があったのは驚きだった。
同じ症状でも、子宮は出来るだけ残したいという人も多いらしい。
産婦人科医のポッドキャストでも、昨今の子宮崇拝の風潮のせいじゃないかと言ってたけど。
※タイトルの藻女は誤字でなく、当事者だけど喪女という表現が嫌いなのでマイルド?に言い表してみました。
いない歴=年齢。
まぁ、30代の時分には焦って婚活したり怪しげなマッサージも本気で検討したりしたけど、40を超えてみると、
「もう、いいか」
と、良くも悪くも諦めがついた。
自分一人と猫を養っていけるなら、それで十分。
女というある意味「見られる性」を卒業して、ここからは自分ファーストで自由に生きようと吹っ切れた矢先。
これまで順調だった生理が急に不順になった。
ストレスで稀に飛ぶこともあったので、それかなと思ったけど、3カ月ぶりに来たと思えば、1カ月以上ダラダラ続く。
凄く嫌だったけど婦人科で診察を受け、最初はピルを処方されたりしてたのだけど、今回は、様子が違った。
1カ月以上、とにかく量が多い。
それを医者に言うと、即内診、子宮体がん検診、その場でMRI予約、、、まぁ、何も出ないでしょうと、たかをくくって昨日結果を聞きにいったら、子宮内膜増殖症とポリープがあるとか。
一応、経過観察もできるらしいけど、放置すると癌になる可能性も出てくるし、不正出血はこのまま続くだろうとのこと。
年齢も44歳。
それに、パートナーの有無にかかわらず、何なら結婚したとしても、子供は絶対欲しくないと思ってた子供嫌いなので即答。
摘出しましょう。
したっけ、そこから話は早く、医者もこちらを向きなおり、手術の前の診察などの予定を聞かれる。
そして、心の準備がいる。
結果、来月に改めて相談となった。
1週間かかるらしい。
そこまで聞いて急に不安になる。
健康だけは自信があったのに、まさかこんな大事が待ち受けてるとは。
看護婦さんに手術の説明や不安を少し聞いてもらったけど、モヤモヤする。
子宮を使うつもりは元々なかったけど、結局、一度も子宮の頑張り(20年以上の生理や排卵)に応えてやれなかったなという思いはちょっとだけ出る。
健気じゃない。
妊娠どころか、妊娠する可能性があるイベントが一ミリもない中、毎月せっせと妊娠した時のために子宮内の準備をしてきたことを考えると、期待に沿えずにごめん、と母親にすら思わなかったことを感じる。
(またいずれ書くけど、母親との関係があって、私は子供が欲しくないので、罪悪感とか感じたことはなかった)
でも同時に、子宮は私の体の一部だけど、それだけが私の人生じゃない、私本人の意志で生きる、という反発もある。
「女は子宮で考える」とかいうグロテスクな男目線のフレーズや、昨今の子宮を持ち上げるような風潮も、多少見聞きしてたから、余計、子宮が自分の全てのような考えには抵抗がある。
でも、腎臓を一個摘出するのと子宮を全摘するのでは、だいぶ、印象が違うよな、と。
私も子宮は女の特権とか、そういう考えが実はあったのか、と愕然としたり。
昨日はしばらくAIに自分の考えを壁打ちさせて、とにかく考えをまとめるのが精いっぱいだった。
結果、子宮が全てではないし、結局残しても、使うつもりは端からなかったのなら、無駄な感傷で癌のリスクを残すのは本意でない。
ただ、子宮でもほかの臓器でも同じく、自分の中に生まれた時からあったものが取り出されることはやっぱり多少の感慨はあることを認める。
例えるなら、多機能なスマホを持ってても、買い替えるまですべての機能を使い切らない、知らないまま終わる昨日もたくさんあるのと同じ、と納得させた。
子宮は目に見えないけど、ずっと私の中で来るべき日に備えて、妊娠の準備をし、今月もダメだったのね、と言わんばかりに血を外に出してきた。
幸い、生理痛やPMSがほぼなかったので、生理がメンドイな、ぐらいにしか思わずに来たけども、最後の最後で痛恨の一撃。
それでも、一緒に生きてきたことには変わらない仲間なので、恨み言を言ってグッバイするのは嫌。
必要以上に惜しむのも違うかな、と思うけど、お疲れ様、ぐらいはちゃんと伝えたい。
出血もまだとまらないけど、これが最後かと思うと、子宮の涙にも思えてくる。
子宮の血、つまり見えないだけで、子宮はボロボロでこんなに長い間血を流し続けている。
それはもう、私が引導を渡して開放する時期なのかもしれない。
むしろ、最後に子宮体がんのリスクを一緒に連れていってくれるのだと思うと、どれだけ健気なのかと。(都合よすぎる考えかな)
子宮を摘出することに関しては最初から理性的には迷いはなかったけど、自分の中で感情的な抵抗があったのは驚きだった。
同じ症状でも、子宮は出来るだけ残したいという人も多いらしい。
産婦人科医のポッドキャストでも、昨今の子宮崇拝の風潮のせいじゃないかと言ってたけど。
よかったのかな。
特発性大腿骨頭壊死症。
大腿骨の付け根が壊死して、そのうち激しい痛みと歩行ができなくなる病気らしい。
原因と治療法がないために難病とされていて、人工関節に置き換える手術などが必要らしい。
もともとヘルニアがあって、足の痛みはそのせいだと整形外科の先生に言われたのが20年近く前。
その時は股関節のことなんてろくに調べてもらえず、ヘルニアの手術をしようと紹介状を書いてもらったのに大病院の大先生に門前払いされてしまったことが原因で病院嫌いになり、それ以降は自己流の保存治療を続けていた。
ぎっくり腰の症状が出ている中、やっとの思いで病院にたどり着き、待合室で予約時間から2時間以上待たされた挙げ句、ろくに話も聞いてもらえないで5分で追い出されたときの惨めな気持ちが分かるだろうか。
手術にリスクがあることくらい100万回調べた上での覚悟を持って望んだのに、ろくに人の話も聞かないで「今はそんな状況じゃない」とだけ言われた。
予想すらしてなかった一言に何も言い返せず診察室をあとにした。
紹介状を書いてくれた整形外科の先生が太鼓判を押す名医から言われたのだからそれが正しいのだろう。
何度も自分を納得させようとしたが、腰に痛みが走るたびにその時のことを思い出して奥歯を噛み締めた。
そんな事もあって、それからの20年間はちょっとした痛みなら耐えることが当たり前になっていた。
あまりにも痛みを表に出さないので、知人からすっかり腰痛は良くなったものだと勘違いされたこともある。
そんなわけ無いだろ。毎日痛みと戦って、自分に今できることだけ必死にやってるだけだ。
医者が当てにならない以上、そうやって自らを奮い立たせる以外にできることはなかった。
だから、足の痛みも、自分の努力が足りないのだと、筋トレやウォーキングの頻度を増やすことで解決しようとしていた。
ところが、それとは反するかのように、足は毎日少しずつ痛みを増していった。
1年前は痛みなく歩けたのが2万歩だったのが、段々と数千歩でかばうような歩き方になって、今はひどいときは寝起きから片足を引きずるような状態だ。
これではあまりにも日常に支障があると思い、とうとう観念して整形外科に行ってみることにした。
勢いのある若い先生も、最初は人の足をアチラコチラと動かしながら「臀部のストレッチ不足ですね!」なんて決めつけてたものの、念の為撮ったレントゲン写真を観て空気が変わったのを感じた。
一言目は「ここではこれ以上診断できないので、大きな病院の紹介状を書きますね」だった。
さっきまでの自信と勢いはどうした。
左足の大腿骨に比べて、右足大腿骨の付け根部分(骨頭というらしい)が明らかにまだらに透けているのがわかった。
「写真を見る限りこの部分が壊死をしていることで痛みが生じています。恐らく、というか間違いないと思いますが、これは難病に指定されている病気です。」
正直、この人は何を言っているのだろうと思った。
足の痛みはヘルニアが原因で、そのヘルニアは手術するような状況じゃないと門前払いされて、その後ずっと耐え続けてきていよいよ耐えられない痛みになってきたのだから治療すべきはヘルニアだろう。
ストレッチや筋トレなどどうしたら痛みがなくなるか問いかけてみても、医者は「今ここでできることはもうないです」ときっぱりと答えた。
どこの病院に紹介状を書いたらよいか問われたので、ひとまず調べてから改めてお願いしたいといい、その日の診断は終わった。
それで今増田を書いている。
やはりまだ現実を受け入れられていない。
信じようとした医療に見捨てられてそこからは根性論だけで痛みに耐えてきた。
はてなに長寿のために何万歩歩けという記事が上がってくるたびに、そんなものは歩くことができた人間が語るだけの生存バイアスだと苛立った。
その反面、痛みごときで死んでたまるかと意地になって歩き続けてきたことが、むしろ自分の肉体を使用期限を短くしているだけだった。
この20年近く、ある意味生きる原動力になっていたような憤りはどこに向かえばよいのだろう。
ありきたりな言葉で言えば、なぜ自分がこんな目に合わないといけないのだろう。
整形外科の医者が言うには、恐らく人工関節に置き換える手術になるだろうとのことだった。
今まで腰痛以外に大きな病気もしてこなかったので、手術という響きにもそこそこの抵抗感がある。
しかし、やはりそれ以上に、ここまで痛みに負けないぞと自分を奮い立たせて努力し続けてきたことが徒労だった事実に心が折れそうになっている。
頭の中で雑音が響くたびに、「よかった?なにがよかった?今まで散々痛みに耐えてきて良くなると信じて頑張ってきて、その全てが無意味だったのに?」とまた別の雑音が脳をかき乱した。
紹介状を書いてもらったとして、これでまた誤診だったり門前払いにあったりしたら、自分の心は耐えられるのだろうか。
逆に思っていた以上に深刻な状況を言い渡されたらどうすればいいのか。
仕事が手につかず2日かけてちょっとずつ書き足しつつ増田を書いたが結局何が言いたいでもない自分語りにしかならなかった。
この虚無感とどうやって向き合えばよいのだろう。
なんかごめん。みんなあったかいよ。
確かに20年前に見つかったからってその時の症状で手術するかと言われたらしなかったと思う。
20年前の痛みと自分の中では連続しているつもりだけど、別の要因だった可能性だって当然ある。
腰痛は相変わらず生活を制限してて、でもあのときの若さで手術するほどじゃないっていうのは医者の言う通りなのだと思うのだけど、せめてもう少し寄り添ってほしかったと思うよ。
その時のみじめさが思い出されてこれから大きな病院に行くのが不安でしかなかった。
自分はこれほどつらいのに、あの時はその道のプロからそんなものは大した痛みじゃないって言われたんだよ。
それで頑張って痛みに耐えてきたら、今度は難病ですって言われて、はいそうですかってすぐに納得できるほど人間ができてればよかったのかな。
ちらしの裏に書いた愚痴にこんだけ寄り添ってもらえただけでも運がいいのだと思う。
珍しい病気だけに身バレしたくないけど誰かの希望になるようなことがあれば書いてみようと思うよ。ありがとう。
Permalink |記事への反応(25) | 10:24
疲労が溜まるとすぐ腰にくる。昔はよくぎっくり腰になっていたが、歳を重ねるうちにぎっくりを未然に防げるようになった。そのかわり腰の筋肉が異常に張って、打ち身みたいな痛みを抱えることになる。
色々と教えてもらって整体やらマッサージやら行ってはみるが、駄目なときはずっと駄目で、低周波治療器使いながら横になるしかない。立ち仕事なので腰をやるとパフォーマンスに影響出て辛い。
最近気づいたのは、座る椅子とかの高さが大事。妙に低い椅子に座るくらいなら立ってたほうがいい。あと温感シップは俺の場合は駄目っぽい。
今も腰が痛い。仰向けに寝てもだめ、右を下にしても駄目。色々体勢試しながら寝ることにするよ。眠れるかはわからんが。
右腰が痛くて、立てなくなった。なので、整形外科に行き、ぎっくり腰ではないかと調べてもらったが、ぎっくり腰ではないとのことで、骨にも異常もなく、筋肉系統とのことだった。
ロキソニンテープをもらって、しばらく貼っていたが一向に治らない。なので、リハビリに通うことにした。理学療法士の人に教えてもらって、色々とストレッチを教えてもらったら、大分よくなってきた。機械治療も並行してやったが、それは気休め程度で、ストレッチが良かったように思う。ただ、ほんのり腰が痛いのが続き、リハビリを継続していた。
そしたら、4月になって急に悪化した。
爪周囲炎が悪化してサワシリンを飲んだ翌日から痛くなったので抗生物質のせいで腎臓がやられたのかと思ったが、整形外科の先生曰く、腎臓原因の腰痛だったら、結石とか腎盂炎とかで激痛で立っていられなくなるはず、とのことで、結局またロキソニンテープを処方してもらった。けれども、一向によくならず、痛みが右腰だけでなく、背骨あたりにも痛みがあり、更に左腰も変な気持ち悪い感覚がでてきた。理学療法士の人と話していたら、痛くなった2日前に子供を持ち抱えて車に乗せたたことを思い出した。2日前だから直接の原因だと思わなかったが、理学療法士の人に「2日前でも後から痛みが現れてもおかしくない、それですよ」と言われた。それから、またストレッチを色々教えてもらったが、一向によくならず、現在に至っている。
とりあえず、ロキソニンテープのおかげもあって、沈静化してるが、痛みは持続していて、全く治る気配がない。とりあえず、腹横筋を鍛えると腰痛は緩和されるというので、今、ドローイング、プランクを毎日やっている。が、日が浅いせいか、効果を全く感じない。サイドプランクやリバースプランクをやったほうがいいのかと思うが、あまりやりすぎると、却って悪くなりそうで、やっていない。
これから、どうしたらいいか、正直、悩んでいる。初めて腰痛になり、これほどまでに腰痛が気分を落ち込ませるとは思わなかったので、何か先の見えないトンネルの中に入ってしまったようで、途方に暮れている。腰痛を馬鹿にしてはなかったが、全く治りそうがないという状態を前にして、だからみんな腰痛で悩んでいたのかと、知れてよかったと思うと同時に、無限に続く腰痛地獄に陥ってしまった感じがして、どこから出てきたかよくわからない哀しみの中に今、溺れ苦しんでいる。
【追記】
アドバイスを色々とありがとうございます。メンタルがかなり落ちてたんですが、みなさん腰痛で悩まれていること、色々と苦労されていることを知り、自分だけではないのだなと知り、頑張ろうかなと思い始めました。重ねてありがとうございます。
自分の腰痛は、そもそもアキレス腱断裂が遠因で、治療の間、片足の筋肉が極端に落ちたこと、まだ瘢痕が残っていて痛みがあり、筋トレが十分できず、筋力が戻ってないこと、それに伴って、左右のバランスが崩れているところもあり、単に腰を痛めただけでないのかなと思っています。なので、余計、もう治らないのかなあと諦めてたところもあるのですが皆さんのアドバイスに触れ、地道に頑張ろうかなと思いました。教えていただいた鍼灸や接骨院も選択肢として、色々、試そうかなと思っています。増田に書いて良かったです。ありがとうございました。
Permalink |記事への反応(19) | 00:43
4日前に事務所の引っ越しをしている時、ぎっくり腰になり動けなくなりました。
その日の内に整形外科を受診し、痛みと炎症を抑える注射を患部に2本打ってもらいました。
この注射が思ったより痛くて声が出ました。
ピーンと筋がつっぱた感じです。
治療後は自宅に直帰して、お風呂はNGと言われたので、シャワーだけ浴びて安静にしてました。
翌日も安静にするようにと先生に言われていたのですが、引っ越しの準備が途中だったので、腰にコルセットを巻いて翌日から2日間痛みを我慢して作業をしました。
結果、無理がたたり腰の痛みが半端なく、歩行不能状態になりかけてたので、慌てて先日通った整形外科を再受診しました。
時系列で状況を説明したところ、先生からこっ酷く叱られました。笑
兎に角、立てないほど痛みが酷いので、痛みが取れるまでは自宅で大人しく療養します。
ほんと、反省です。
今後は気を付けます。
細川徳生
4日前に事務所の引っ越しをしている時、ぎっくり腰になり動けなくなりました。
その日の内に整形外科を受診し、痛みと炎症を抑える注射を患部に2本打ってもらいました。
この注射が思ったより痛くて声が出ました。
ピーンと筋がつっぱた感じです。
治療後は自宅に直帰して、お風呂はNGと言われたので、シャワーだけ浴びて安静にしてました。
翌日も安静にするようにと先生に言われていたのですが、引っ越しの準備が途中だったので、腰にコルセットを巻いて翌日から2日間痛みを我慢して作業をしました。
結果、無理がたたり腰の痛みが半端なく、歩行不能状態になりかけてたので、慌てて先日通った整形外科を再受診しました。
時系列で状況を説明したところ、先生からこっ酷く叱られました。笑
兎に角、立てないほど痛みが酷いので、痛みが取れるまでは自宅で大人しく療養します。
ほんと、反省です。
今後は気を付けます。
細川徳生
4日前に事務所の引っ越しをしている時、ぎっくり腰になり動けなくなりました。
その日の内に整形外科を受診し、痛みと炎症を抑える注射を患部に2本打ってもらいました。
この注射が思ったより痛くて声が出ました。
ピーンと筋がつっぱた感じです。
治療後は自宅に直帰して、お風呂はNGと言われたので、シャワーだけ浴びて安静にしてました。
翌日も安静にするようにと先生に言われていたのですが、引っ越しの準備が途中だったので、腰にコルセットを巻いて翌日から2日間痛みを我慢して作業をしました。
結果、無理がたたり腰の痛みが半端なく、歩行不能状態になりかけてたので、慌てて先日通った整形外科を再受診しました。
時系列で状況を説明したところ、先生からこっ酷く叱られました。笑
兎に角、立てないほど痛みが酷いので、痛みが取れるまでは自宅で大人しく療養します。
ほんと、反省です。
今後は気を付けます。
細川徳生
4日前に事務所の引っ越しをしている時、ぎっくり腰になり動けなくなりました。
その日の内に整形外科を受診し、痛みと炎症を抑える注射を患部に2本打ってもらいました。
この注射が思ったより痛くて声が出ました。
ピーンと筋がつっぱた感じです。
治療後は自宅に直帰して、お風呂はNGと言われたので、シャワーだけ浴びて安静にしてました。
翌日も安静にするようにと先生に言われていたのですが、引っ越しの準備が途中だったので、腰にコルセットを巻いて翌日から2日間痛みを我慢して作業をしました。
結果、無理がたたり腰の痛みが半端なく、歩行不能状態になりかけてたので、慌てて先日通った整形外科を再受診しました。
時系列で状況を説明したところ、先生からこっ酷く叱られました。笑
兎に角、立てないほど痛みが酷いので、痛みが取れるまでは自宅で大人しく療養します。
ほんと、反省です。
今後は気を付けます。
細川徳生
34歳。結婚十年目。子供なし。近々夫の実家である東北へ引っ越しをする。
現在は関東に住んでおり私の両親は車で30分の距離に住んでいて健在である。
最後に両親に会ったのは二年前。
両親に会いたく無い。
とても会いたく無い。
会いたく無いが引っ越し前に会わずに次は葬式になったら絶対に後悔する。
でも会いたく無い。
例:幼い頃から「ブス」「デブ」名前をもじって「恥美(はじみ)」などと言う。
どうする事もできない傷や痣を笑ってくる
私が幼い頃から仕事が休みの日は平日朝からビールを開け、最近はトイレが間に合わず廊下で漏らすことも増えたらしい。(姉談)
最後に母と会った二年前、父から「母が腰を痛めたが自分は仕事を休めないので見に来て欲しい」と言われ様子を見に行くとぎっくり腰で動けず尿を漏らした布団の上で母は寝ていた。
なんとか母を起こし病院へ連れて行きニトリで新しい布団を購入、両親の晩御飯を作っている最中に母が口をつけていたマグカップの中身は日本酒だった。
車の中で下痢を漏らした母の服を買いに行ったこともある。(大人になってからアレは酒の飲みすぎてお腹が緩くなった結果なのではと気付く)
高校生活は自分の中でかなり頑張ったので母に卒業式には必ず来て欲しいと告げていたが、会社の飲み会を優先された。
・共通して酒を飲むと絡み酒になり声が大きくなる
上記を見続けた結果、兄弟全員お酒は飲み会やイベントの時しか飲まない。
私は三人兄弟の末っ子だが、真ん中の長男を溺愛し母の日や誕生日などを祝った姉や私より母の過干渉から逃げるように家を出た兄が十年ぶりに帰ってきた時の方がテンションが高かった。
なんならラインにこれでもかと絵文字が沢山入ったものが来た。父親からは「ママがご機嫌でした」と報告もくるほどだった。
兄の連絡先は私以外家族の誰も知らないため、昨年私の誕生日には母からラインが来たが、誕生日おめでとうスタンプのあとに「お兄ちゃんのことで話があるのでご飯に行きませんか?」だった。
せめて「お祝いに今度みんなでご飯に行こう」を言って欲しかったのは私のワガママなのか。
母親の浮気(未遂)で離婚騒動に発展した際に母から「◯美はしっかり者だからパパの方に行ってね」と言われた。
なお、姉と兄はその時点で18歳を超えており親権問題は私(中三)だけだったが、兄を引き取る気満々だった。
こうやって会いたく無い理由を並べているが、別に愛されていないわけではない。
大怪我をした時に学校まで送迎して貰ったり、やりたい事もやらせて貰った。
専門学校の学費も出してくれ、趣味で行き詰まった時など話を聞いて助けてくれた。
振袖を買ってくれた。(レンタルがバカ高くて買った方が滅茶苦茶安かった)
一度離婚で揉めた時も味方で居てくれた。
他にも小さな事だけど沢山ある。
悪い家族ではない。
これで愛されていなかったら割り切れたのかもしれないが、愛されている自覚があるだけにしんどい。
父親のデリカシーの無さも愛情の裏返しなことを頭で理解しているし、母親も私を嫌っている訳ではない。
嫌いだったら「会わない」という選択が取れるが、嫌いではない。
夫には両親に会いたく無い理由を説明しており、無理に会わなくても良いと言ってくれていたが今回の引っ越しにあたり
「流石にご両親に挨拶をしたい。会うか会わないかは◯美に任せるが会っても会わなくても後悔すると思うよ」と。
会わないで次が葬式とか具合が悪くなって入院したから会いに行くのは絶対に後悔する。
ただ会ったら会ったでデリカシーのない父親とアルコール依存症疑いの母親のやらかしのフォローに回るのもストレスがマッハになる。店で母が漏らす可能性がある。
実家暮らしの時は「そういうもの」として生きてきたが結婚して実家と距離を取りやっと実家の違和感に気付いた。
・相手が嫌がったらそこで止めなければいけない
一応両親に酒の件は何度も伝えてあるが変わらなかった。
今現在子供はいないが、子供が出来ても両親には会わせたくないと思ってしまうところがこの辺りにある。
会わない後悔より会った後悔の方が良いと思い結局姉と相談し、居酒屋や焼肉屋などではなくちょっと良い鰻屋を予約したが会う事を想像すると胃が痛くなる。
どんな店でもお酒を飲むのはわかっているが頼むから控えて欲しい。
ちなみに兄に食事会のお誘いを送り「既読無視をしたら家族のグループラインにお前を追加する」と追記したところ中々のスピード感で「忙しいので無理」ときた。
本当に会いたく無い。
我慢できないほどではないが、腰が重い、ずっと誰かに押されてるような感覚。
そして、4年ほど前、コロナ禍になって1年ほど経ったころにぎっくり腰をやった。
そこで色々対策した。
子育てのような「腰痛持ちには地獄の作業の連続」もこなしている。
同じく腰痛に苦しむ人用にやったことと効果の体感をシェアしてみる。
1日2回、朝晩15-30分ずつ程度。
腰痛が酷い頃は、朝晩両方入浴して、そのあとにストレッチしていた。
オガトレ等の有名youtuberのメニューの中から、よさそうなもの、合ってるものを組み合わせてメニューを膨らませていったら、20分以上かかるようになった。
結果的に、2年くらいほぼ毎日続けたが、腰痛が良くなった感覚はなかった。
むしろ、合わないメニューを試すと、丸一日腰が痛くて仕方なかった。
柔軟性もほとんど向上しなかった。
朝の入浴は腰痛に効果があったが、どうしても日中眠くなったり、疲れやすかった。
副交感神経が優位になるとか、そういうことだったのだと思う。
座っていることが苦痛なのに、予約時間から平気で1~1.5時間くらいの待ち時間があった。
ジジババの通院がくそ多い。
痛みで通院していて、待ち時間に安いパイプ椅子に座って余計腰が痛くなって帰宅した。
そして、結局、リハビリでもストレッチを実践しつつ、「家でこれをやって」とメニューを教えてもらうだけなので、ストレッチと同様に役立たずだった。
通院に時間がかかる分、自己流ストレッチ以下のコスパ・タイパだった。
自分一人では伸ばせないところを伸ばしてもらい、一人でのストレッチや整形外科以上の効果を感じた。
それと、インナーマッスルの重要性の指摘されたのだが、目からうろこだった。
実際、コロナ禍で運動不足になったり、リモートワーク中にぎっくり腰をやったので、その通りだったのだと思う。
コロナさえなければジムに行ったり、運動習慣はある方だったから、盲点だった。
EMS(電気でインナーマッスル鍛える機械)があるところはおすすめ。
ただし、続けて通院するには金と時間がかかるので、もったいなくて最悪の状況を抜けたら辞めた。
整骨院で「インナーマッスル・運動不足です」と言われてから、ジム通いを再開した。
コロナ前までは、数年のジムでの筋トレ経験もあったから、いわゆるベンチプレス等のBig3メニューを中心に始めた。
身体が固すぎる。
5年前の1/3程度しか上げられない。
それと、プランクも全くできなかった。
30秒が精いっぱい。
それにもかかわらず、ベンチプレスとスクワットだけは5年前と同じくらい上がるんだ。
「なるほど、これが運動不足や体のバランスが崩れか」と得心した。
そこから、ジムに通って、デッドリフトや腹筋等を軽い重量でやり続けた。
これを2、3か月続けると身体がちょっとずつ柔らかくなるんだ。
これは衝撃だった。
他の種目でも実感するが、筋トレは"うまくやれば"柔軟性を上げられる。
すると、フォームもどんどんまともになって、半年もすれば重量が再開した時の倍になった。
あまり重いものを持つのは怖いので、重量よりも回数を重視して筋トレした。
ただ、筋トレの弱点は腹筋を鍛えにくいことだった。
プランクは楽しく無さすぎる。
これも絶大に良かった。
「運動不足」を自覚してから、楽しく運動を生活に取り入れるように社会人サークルをネットで探して色々参加した。
プランクだと地味で怠い。
肩や首のコリもとれた。
筋トレが出来なさすぎるときには、パーソナルトレーニングを受けた。
特にジム経験が無い人やフォームがおかしい人にはパーソナルお勧め。
一回5000円くらいなので、安くはないが、まあ治療費を考えれば、2,3万円分くらいお願いしてフォームを仕込んでもらうのが良い。
アスレチック・トレーナー(AT)という資格は、主に身体を治すための筋トレ資格。
この人たちは身体の機能がおかしいかどうか、そしてどこがおかしいのが原因か、悪いところをどう直すか指導してくれる。
ゴールドジムとかのマッチョ系のトレーナーより、ATの資格もちのトレーナーが腰痛持ちには頼りになる。
あとはこういう人たちはプランク以外の体幹トレーニングも色々教えてくれる。
ストレッチの代わりに朝にスクワットやランジみたいなトレーニングを自重でやるようにした。
せいぜい2,3分。
ジム通いをしてるので、自重のトレーニングなんて屁みたいなもの。
たった自重のスクワットとランジを10回やるだけで、腰の不安感が大きく違う。
他にやったこと:
1.グルコサミン等のサプリ:効果も実感しないし、飲み忘れ等で自然消滅した。
2.サポーターやコルセット:お世話になったけど根本的な解決にはならない
3.ランニング:割と良い。スポーツが嫌だったり、出来ないときには代替策に多少なる。
まとめ:
結局、運動が一番効いた
腰で困ってる人の参考になれば。
数日経った今はかなりマシになった。
シャワーを浴びていてシャンプーを取ろうと体勢を変えたら腰に痛みが。
手のひらくらいの範囲に「ズンズンズキンズキン」といった感じの痛み。
「話のネタになるな」とか考えたりして、痛みから気をそらせようとしたが無駄だった。
とにかく動けない。
かなりの時間をかけて、バスタオルを手に取るまでたどり着いた。
風邪まで引いたら辛すぎるので、次は体を拭かなければならない。
主に左側を痛めたが、右手を動かすのも辛い。
上半身はまだマシだったが、足はタオルを触れさせるのが精一杯。
もうこれは諦めて、部屋に戻った。
次は服。
足を満足に上げることが無理なので、下は無理そうである。
このままでは風邪を引き、咳き込むたびに痛みが走るのは最悪だと思ったので、
割り切ってベッドに潜り込むことにした。
横になるのも時間がかかったが、どうにかなった。
そのまま数時間を過ごし、実際に就寝する前にはなんとか服を着ることができた。
数日間、着替えはなし。無理。
痛みがかなりマシになり、一昨日ようやく着替えることができた。
こんなに快適なのかと驚いている。
不幸中の幸いもいくつかあった。
シャワー中だったので、体の冷えを最小限に留めることができた。
ユニットバスなので、すぐに手を壁につくことができた。これは大きかった。
トイレの手すりもあってよかった。
それから肘付きイスだったのも助かった。
とにかく腰に負荷をかけるのが辛いので、支えがあるのは大きい。
スマートフォンで気を紛らわす事ができたり、ベッド付近にノートPCがあったのもよかった。
ネットがあるのは本当に助かった。
宅配も考えたが、相手がいることなので自分のペースで動けないことを考えると備蓄があってよかった。
腰をやられるとこんなにも動けないのか、新年早々そんなことを身を以て知った。
これだけのコンテンツを作り上げるのがただただすごい。。
※chatgtp:YouTubeの動画タイトル一覧を取得して公開すること自体は、著作権法に違反する可能性は低いです。
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怠けたい心が変革を生む
イチゼロ習慣をやめよう
気が散りやすいのも才能
体力はすべてを解決する
ライフログで身を守ろう
寝具にはお金をかけよう
ギリギリは頭が悪くなる
会話泥棒に気をつけよう
上手な利他力発揮のコツ
寝室は静かでなくていい
1日1やめ運動のすすめ
脅す人には注意をしよう
目標を追い求めすぎない
わが道を行く最大のコツ
歯磨きは歯間磨きが主役
楽しくなければ学べない
時間割引率の引き下げ方
試せることは全部試そう
遊びこそが最高の脳トレ
私達は自分の実力よりも2割ぐらい自信過剰だと思うとちょうど良い
勝間和代の、キャリアは5年かけて、強みを活かす仕事100%の状態まで持っていこう。そうすれば、短時間労働になるし、収入も上がります。
悩むのは悪いことではない
運を良くする技術を学ぼう
自炊は実は最高のぜいたく
私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である。
なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。
私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである。
精神科に通いつつ、投薬とカウンセリングの治療をおこなっている。
そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳の記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。
(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなたの言葉はあなたの感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)
正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。
早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。
当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法が流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。
楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合は母親もほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。
行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日の練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。
でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまうタイプの人間だった。
父親も叔母もスポーツで学生時代に成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。
それが母親の成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。
長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。
ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。
こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。
極め付けはようやく出来始めた友人関係を破壊されたことだった。
中学に上がると、小学生の選手育成クラスから中学生クラスに上がって、ここがジュニアの女子の選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子のさらにその上澄みだけが入る、一番練習がハードなクラスがあった。
いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイトと連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。
(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲームの一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)
けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。
私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスでちゃんと私の記録は伸びていた。
だけど母はその伸びでは満足できなかった。
母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。
私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。
そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。
私はかなり嫌がった。もともとジュニアの女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。
母は私に、「あんな肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたはダメになってしまう」と言った。
嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスのコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。
中学1年の女子が高校生の男子のクラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。
私が苦しんだので、母の不安は解消された。
実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。
注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたことである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナスの感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。
「あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから。
この頃から、試合や合宿で遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。
体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。
しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息を悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。
だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻き、ブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。
ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分の学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてからは予備校漬けになった。
受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業は自分の特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。
大学には簡単に合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。
とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。
ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分の偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。
ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。
1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。
とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。
学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリのラインだった。
振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。
このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショックや東日本大震災の影響があった時期で、特に女子の就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。
でも、留年したのに就活が全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親がマイナビリクナビでエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。
面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。
このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからたしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトはしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論は英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。
結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶はぼんやりしている。
ひとり暮らしの家を引き払い、実家にカンヅメになって母親の監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。
ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存で病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。
この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。
働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的に闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。
本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。
この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分の価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分の価値がボロボロと溢れ落ち、人生がダメになっていくことについて、母親への不健全な復讐の欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。
この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場を経験した。就職先は人売りのSESだった。
これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場が自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。
リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤の生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。
自社開発の案件にアサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事も客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手が全然わからず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴とスポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミットが全然出ないの?
年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。
社長から「新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。
これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始の休みを挟んだ後、ボツボツと休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。
心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解とワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。
この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援がPermalink |記事への反応(21) | 22:15
妻とのセックスに飽きてくると、とくに疲れてたりすると、面倒くさいけどノリノリのふりをして襲い掛かる感じを演出しないといけないので「本当はしたくなかったのに」というのに該当すると思う。
そういう時はよくある。そもそも妻から毎回求めてくる感じになってて、こっちから求めないので、その点は申し訳ない気がする。
「もしこれが初対戦の相手ならこの面倒くさい感じはないだろうか?」と想像してみるけど相手の好みレベルが10ならどんなに疲れててもノリノリになると思う。
ぎっくり腰とかで激痛に耐えてる時だと好みレベル10の新規対戦相手でも「本当はしたくなかった」ってなるかもしれない。
いやでもそんな相手に求められるという事の満足感は非常に高いので、わからない。まあ現実にあり得ない事を想像しても無駄か。
なお20代の頃は自分がこんな感じになるなんて全く予想してなかった。
妻に求められたらどんな時でも最高でしょって思ってた。加齢と飽きという現実は厳しい。