
はてなキーワード:かかりつけ医とは
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私たちは、だれもが当たり前に生きられる日本を、次の時代に引き渡さなければなりません。
そこで政府は暮らしの基盤である重要8項目をユニバーサル・ベーシック・サービス(UBS)として保障していきます。
海外の研究機関も、UBSを必要に応じ無償で利用できる公共サービスの集合と定義しており、私たちはこれを日本の実情に合わせて前進させます。
日本はすでに、世界に誇る基盤を持っています。1961年に確立した国民皆保険、そして無償の義務教育です。
これらは、世代を超えて日本の力になってきました。私たちはこの土台を、令和の現実に合わせて“広げ、深め、つなげる”。それが本方針です。
・国民栄養保障を掲げ、子どもの食の機会格差をなくすため、学校・地域での食支援を恒常化。地場産品の活用と災害時供給網の冗長化を進めます。
・フードロス対策とフードバンクを地域ケアと一体化し、誰も取りこぼさない仕組みにします。
・空き家・公的不動産を活用した良質な公的賃貸の供給を拡大。入居までの行政手続きをワンストップ化します。
・住宅の断熱改修支援を強化し、災害・エネルギー価格変動に強い、住まいのレジリエンスを高めます。
・かかりつけ医機能と地域包括ケアを強化し、予防・未病に重点を移します。
・電子カルテの標準化と連携を前倒しし、オンライン診療・薬剤配送も含め、生活に寄り添う医療アクセスを整備します。日本の皆保険の強みを守りつつ、負担が障壁にならない設計を徹底します。
・義務教育の無償原則を堅持しつつ、教材・給食・移動など“学ぶための実費”の負担軽減を段階的に拡大します。
・高校・専門・大学・地域カレッジまで見通したリスキリング公共カタログを整備。誰もが職業と人生の節目で安心して学び直せるようにします。
・自治体と連携し、生活路線・医療や買い物へのアクセスを守る地域交通を基幹サービスとして位置づけます。需要応答型交通(DRT)やスクール・メディカル連携便を全国標準メニュー化します。
・運賃の一体決済とMaaSの公共版を整備し、高齢者・子育て世帯の移動障壁を下げます。
・通信をUBSの中核に据え、ユニバーサル・サービス制度の対象をブロードバンドへ拡充する法制を検討します。全国どこでも、手頃で安定した高速接続を当たり前にします。
・公共施設のWi-Fi整備、子ども・学び直し世帯へのベーシック接続の提供、災害時の非常通信の冗長化を進めます。※現行制度は主に加入電話・公衆電話・緊急通話を対象としており、これを時代に合わせて強化します。
・生活基礎エネルギーの価格安定枠組みを整備し、急激な価格変動から生活を守ります。
・断熱・高効率機器・再エネの地域導入を一体で進め、光熱費の構造的な低減とエネルギー自立度の向上を図ります。災害時には公共施設をエネルギーハブとして機能させます。
・待機や探し回りをなくすため、保育の受け皿拡大と利用調整のデジタル一元化を加速。病児保育・一時預かりを地域標準にします。
・介護は在宅・施設・医療の連携を強化し、ケア労働の処遇を底上げ。家族介護者(ケアラー)支援と休暇制度の実効性を高めます。
これは、国が最低限の土台をしっかり引き受けることで、民間の創造性と選択肢がいっそう花開き、地域と家庭の負担が軽くなり、子どもたちが未来を描けるようにする構想です。
医療と教育がそうであったように――使う時にためらわない公共の選択肢が、社会全体の活力を底上げしてきた事実を、私たちはすでに知っています。
すると「動物性タンパク質とプロテインと大豆を食べるのを辞めるといいらしいよ」と言われた。
なるほど・・・。
え?
じゃあタンパク質をなんで採ればいいの?
「ブロッコリーぐらいしか思いつかないよね」、oiお前、おい。
えんどう豆(ピープロテイン)
大豆より消化が穏やかで臭いも出にくい。パウダーで手軽に摂れる。
中東料理やインド料理で多用される。スープやカレーに入れると食べやすい。
ヘンプシード(麻の実)
補助的にタンパク質が摂れる。
ヘブンシード?
イセタン?
すまん。
40年間一度も食ったことがないものを口にいれるのはちょっと怖いぞ。
結論、ウマが合わないので通わないことに決めてるからそこはいいんだけど、気になってるから話させてくれ
家から一番近い小児科が、子どもを何の症状で連れて行ってもかならず+αで皮膚症状の薬を処方する
熱が出て連れて行けば「解熱剤+喉鼻の薬+皮膚症状の薬」
鼻水が止まらず連れて行けば「喉鼻の薬+皮膚症状の薬」
たいがい「顔がかさついてる、背中が赤い、薬出しとくから塗って」「1ヶ月分しか出せないから来月また取りに来て」「本人来なくてもお母さんが受け取りに来るだけでいいから!」と翌月の予約を取られ毎月行くことになるんだが、正直親から見て肌が荒れたり痒がったりしてるように全く見えない
そりゃ荒れるときもあるんだけど、比較して今は落ち着いてるな、本人も気にしてないなって時でも必ずこの対応
出される薬は大体ヒルドイド系の保湿と、軟膏
子どもをしっかり見て処方しているという感じではなく、なんか、かかりつけ医として毎月一定数の患者が必要なのか…?とか、処方するほど病院になにかポイントが入るのか…?とか疑ってしまう
子どもの年齢的にも我が家が直接負担する医療費はないんだが、使い切れない薬が溜まっていくのが心苦しく、よほど緊急じゃなければこの小児科には行かないことにしている
弊社は障害者雇用を推進しており、同僚にはいろんな事情を抱えた精神障害者がいる。たとえば統合失調症だ。仕事の相談をしつつ一緒に弁当を食べているときに、ふと統合失調症の症状が話題になった。その人によれば「最近は良い薬が多いので業務に支障はないが、それでも具合が悪いと、周りの人全員から視線を向けられているような気がする」そうだ。
また、具合が悪いと幻聴も聞こえてくるらしい。「基本は嫌な奴やクソリプの類と同じで、無視が一番」らしいのだが、幻聴が言葉になってハッキリと聞こえたときにはすぐにかかりつけ医に向かうそうだ。こうしたバリアを抱えながら、弊社の事務としてなくてはならないメンバーとして活躍してくれるのには頭が下がる。先月も大量の書類を処理してくれてありがとう。
一方、そんな彼らの回復や自立を妨げるようなポスターが、近頃不気味な増加を続けている。集団ストーカー撲滅を訴える、例のアレである。最初は横浜駅、次に渋谷駅近辺、押上駅構内とここ数年で急増し、弊社のそばにも貼ってある。下町の商店街なんかだと、十以上見掛けることもある。断れないのか、真偽が判断できないのか、金一封をもらっているのか。私にはわからない。
集団ストーカーの存在の真偽はあえて問わない。しかし、こうした誰かに後を付けられている感覚は精神疾患の妄想でよく見られる。そのことを熟知しているはずの薬局にまで貼ってあった。私は愕然とした。
以前、かかりつけの薬局で同工異曲のチラシを見掛けたときには、精神科も近いこともあり、「さすがにいかがなものか」と思って問い合わせ窓口に通報した。後日、撤去したというお詫びの電話が来たが、経緯を確認しようとしたところ、「担当者が産休(?)に入ったためわからない」と平謝りであった。幾ばくかの不信感が残った。
私は、これは公衆衛生の問題だと思っているし、市民の精神疾患の知識が向上することも強く望んでいる。ポスターを見て症状が悪化する患者がいるかも知れないという想像力を働かせてほしい。滑稽な妄想として笑っているわけには行かない。これもフェイク対策として注目されるべき事案だ。ここをなおざりにすることは、他のフェイクに対しても脆弱であると言っているようなものではないか。そして、そもそも首都圏でこんなにポスターを大量に配布する活動をしているのは、一体全体何者なんだ?
話は母がガンになったところから始まる。
就職と共に家を出て2年ほどして、母がガンにかかっていることを知った。最初はガンと言ってもピンキリだろうと呑気に構えていたら、余命半年も無いらしい。
母が心配していたのは、典型的な昭和世代の価値観をもつ父のことだった。今でこそ男性も家事をするのが当たり前の風潮があるが、私の親世代は全く異なり、母は専業主婦で父は家のことは何一つ出来ないような人だった。
医者の話によると母は半年以内には亡くなる。その後、父がどうなるかを想像すると、
・二人暮らしから一人暮らしになる(下手したら後追い自殺するんじゃね?)
・酒に溺れる(弱いくせに酒飲み)
・まともに食事をしないので体調を崩す(仕事が忙しいと昼食を取らないなどのため痩せ型)
と、ろくな未来が想像できないため、仕事を辞めて実家に帰ってきた。
まだ社会人3年目だったため、不安もあったが、「親の余命が残り少なかったので親と過ごすため仕事を辞めた。親は死んだ」となった場合に次の仕事を探す時に「家族思いの良い人」になるし、たいして不利にもならないだろうという計算もあった。「自分の人生の時間のうち、1年位を母のために費やしてもいいか」という気持ちがあったのも確かだ。
結局、実家に戻ってから2ヶ月ちょいで母は亡くなってしまった。
母が亡くなってからは「やるべきこと」が多くて悲しんでいる暇はなかった。保険やら役所やら銀行やらの手続き。抜け殻になってる父は役にたたないので、全て代行した。その後、実家の片付け。母が居た痕跡を消したい訳では無いのだが、とにかく”母が居たそのままの家”は良くない。父には生き続けてもらわないといけない。時々思い出すのは良いが、感傷に浸りすぎない環境を整えないとまずい。母に思い出の中で生きてもらうのは良いが、父には今を生きてもらわないと困る。このため二人暮らしで家事の分担を決めて、家計の管理をどうするかなどを父に相談し、実際に家事を分担することで、今後、私と二人で生活していくことを想像させた。運動不足の父に散歩を促すように犬ももらってきた。文句を言いながらも犬にねだられて毎日散歩するようになり、身体的には母と暮らしていた頃より健康になった。
生活を立て直している最中に父方の祖父が亡くなった。祖父は母が無くなる前から寝たきりで病院でただ寝かされて”生きているだけ”の状態だった。父は「できる限りのことは行ってほしい」と望んだため、いわゆる延命治療を行っていた。意識もなく寝たきり。胃ろうを行い、無理やり栄養を流し込まれててただ生命を維持されているだけだった。そんな祖父を見て思ったのは「自分はこうはなりたくない。ここまで延命してほしくない」という事。父は普段から「わしは70歳くらいでころっと逝くわ」と言っていて、延命治療などは望んでいない。ただ、それでも自分の親には長く生きていて欲しいらしい。本人がどうしたいかと、自分の親に対する対応のずれに違和感を感じたが私が口を出すことでもないので、何も言わなかった。
あとから考えると、この頃は色々と大変だった。父と二人暮らしになったのだが、私は父の事をそれほど知らない。とにかく仕事人間だったため、子どもの頃の記憶に父が居ない。平日は私が寝てから帰ってきて、起きる前に出社する。日曜は家には居るがとにかく寝ている人だった。小中高と大きくなるにつれ、家族より友人との付き合いのウェイトが大きくなり、父への興味は薄れ、父の事を知らないまま育った。1つ父に関して大きな出来事というと、リストラされたこと。銀行員だったのが関連会社に飛ばされた。何年かは銀行に席を置くが、その後は関連会社の在籍になり、給料がかなりダウンするとの事。私が高校生の頃だったた、家計の心配などに回す頭はなく、落ち込んでいた父を見て、単に「でかい会社は信用できない」という印象だけが残った。この頃から"絶対的な親"というより"それほど強くない一人の人間"として父の事を見ていたように思う。
母が亡くなってからはとにかく父に話しかけた。幸いにも私は仕事で独立できたので、その話。ひとり社長の会社だが、父は独立したことを喜んでくれた。父はとにかく新聞を読んでいた印象だったので、私も日経新聞を読み時事の話などをふった。銀行員だったから経済には詳しいだろうと経済の話をふったら思ったほど知識が無くて驚いたこともある。父との関係は成長過程で作られたものでなく、母が亡くなってから作った割合が大きい。二人で暮らしているので、調理が面倒になると頻繁に二人で飲みに行った。週1ペースでは飲みに行ってたので結婚するまでに父とサシ飲みしてる回数は200回は超えるんじゃないかな?
そこから私が結婚して家を出るが、実家に作業場を残し日中は実家で仕事をしていた。一緒に昼飯を食べにくことで父が一人にならないように気をつけてた。趣味がなく、人付き合いもない父。一人にすると間違いなくボケる。とにかく人と関わらせなければならない。それを言い訳に子育てに使いまくった。自分の仕事が忙しいときは子どもの面倒を頼み、余裕があるときは父と一緒にあちこちに出かけていた。
母が亡くなってから15年経った頃、父の様子がおかしくなった。トイレでしょんべんを撒き散らしていてズボンがしょんべんで濡れている。外出した際に赤信号に気づかずに渡ろうとする。認知症だった。
父に言われていたので、すぐに施設を探した。区の相談窓口に行きケアマネージャーさんを紹介してもらい、入所可能な施設を探してもらう。幸いにもすぐに施設は見つかり入所させた。ここから父の電話攻撃が始まる。自分がどこにいるかわからない父はすぐに私に電話をかけてくる。「なんか部屋が変わってるねんけど」「飼ってた犬がいないけどしらんか」話す内容は毎回同じ。1ヶ月の電話の回数をカウントしたら150回を超えている。1日5回のペース。精神的にかなりきつい。余裕がある時は普通に話せるのだが、仕事が詰まっている時に電話がかかってくると本当に切れそうになる。こちらがまいってしまい一時的に父の電話を着信拒否したら、施設を出ていき行方不明。幸いにも警察に保護されて無事だったが、電話の拒否もできなくなる。結局、電話攻撃が落ち着くまでに1年以上かかった。
定期的に見舞いに行き外食に連れて行っていたが、認知症が進むと父を外に出せない。ランチで寿司屋に連れて行ってる時にゲップ、屁をこく、しつこく酒をねだるなど、行動が制御できなくなっていく。医者に酒量をコントロールするように言われているので、日本酒1合で止めるが、我慢ができない父。大将に「飲ましたりーや、可愛そうやで」と言われたのには本当にムカついた。結局、コロナの流行もあり、外食するのも止めた。このあたりで「父はなんのために生きているんだろう」と考えることが多くなる。妻をなくし、好きだった酒もタバコも私が止めさせ、美味しいものも食べに行けない。残っている楽しいことは、正月などに孫と会えるくらいだろうか?ただ、認知症が進むに連れ、会話ができなくなる。短期的な記憶ができないため、会話が続かない。「(孫の名前)、もうこんな大きくなったんや」という話が10分おきにループする。孫側からしても会話に付き合うのが大変だと思う。それでも家族が集まって賑やかな状態の中に居ることが楽しそうには見えていた。楽しませることが出来て良かったと思ったまでは良いんだけど、施設に戻るのを本気で拒否して声を荒げられるのは勘弁してほしい。
この後、脳梗塞、大腸がんなどがあり、その都度「ああ、もう寿命かな?」と思いつつもなんとか生きていたのだが、少し前に大腿骨を骨折して動けなくなった。肺炎などを併発してなかなか骨折の手術が出来ず、ベッドに寝たきりになってる間に筋力が極端に落ちた。肺炎が収まり骨折の手術は出来たが、食欲が戻らずほとんど食事をしていない。延命治療を拒否し胃ろうは行っていないため、現在は点滴にカロリー摂取を頼っている。点滴の管が太いために腕からではなく、首に点滴の針をつけている。認知症の父に状態が把握できるわけもなく、意図せず外そうとしてしまうため、手を拘束せざるをえない。見舞いに行くと部屋に入る前から「助けてください、助けてください」と父の声が聞こえる。自身の状況が把握できず、拘束されているのは本当に怖いと思う。非人道的だと思うが、看護師さんからしてもどうしようもない。説明をしても5分すれば忘れる。誰かが立ち会っている間は拘束を解いて問題ないため、見舞いに行き拘束を解いて状況を説明しているが、私が帰って5分すれば忘れてしまうのだろう。何年かの間に、私も同じ話をすることにすっかり慣れてしまっていた。
父の状況を見て、自分が将来、安楽死する方法を調べていた時に知ったのだが、日本でがん患者などが自死しようとする場合は餓死する方法があるようだ。水分だけを取り、食事をしないと体を動かすためのエネルギーが足りず、緩やかに亡くなるらしい。
「食えなくなったら終わり」と父本人が言っていて、今すでにその状況にある。何らかの病気の対応のための一時的な絶食ではなく、本人が食事を拒否している状態。カロリー摂取のための点滴を止めれば、父は緩やかに亡くなるだろう。
もう死なせてあげて良いかな
追記:
認知症になった後の治療行為が全て延命か?と問われると難しいです。
大腸がんになった際にかかりつけ医に相談しましたが、そのまま放っておくと腸閉塞になり苦しむことになると聞きました。今回の骨折も、理想的な話をするのであれば、すんなり手術が済み、リハビリが順調に進み、骨折前の生活に戻る可能性もあったと思っています。尿路感染もあったため、救急で運ばれた病院で「延命治療を望むか?」の確認をされ、本人も家族も望んでいないことを伝え、胃ろうはしないで欲しいことを伝えました。その際に「途中で止めれない治療、止めることが殺人になってしまう治療は行わないで欲しい」ことは明確に伝えています。骨折の手術のため、一時的に食べれなくなる事はあると思いますし、その間に栄養を点滴に頼ることもおかしいとは考えませんでした。点滴を取る可能性に関しては担当医に相談し「医師としては勧めれないがそういう判断もおかしいとは思わない」と回答を頂いています。このため、法的に点滴を外すことは可能と考えています。(このあたりは対応してくれる医師とそうでない医師がいるのでは?と推測しています)
両方ですね。自身の判断が客観的にどのように見られるんだろうというのを知りたかったので、ある程度目に止まるようにキャッチーなタイトルを付けました。ただ、自身の判断や行動が人の命に関わるのに、それを直視せず、柔らかな言葉に変えて誤魔化そうとする事が単純に嫌でした。母の時は気づいた時には手遅れで、運命だとか、体調が悪いのにきちんと病院に行かなかった自己責任だと思いながらも、ほとんど恩返しのような事が出来なかった心残りがあります。父に関して単純に流されるままに医師の指示に従うということもできるとは思いますが、最後まで向き合い続けるほうが、自分の心残りが少なくなるのでは無いかと考えています。
心配頂きありがとうございます。ただ家の事は何も出来なかった父ですが、そういう時代に生きた人なので、そこに対して何か不満もなく、搾取されているとも思わないです。介護の話だけを取り上げて書くとしんどい話ですが、子どもが生まれた事を喜び、友人と飲み会にも行っているので、自分の人生にはそれなりに満足はしています。
しんどくて、やりたくないならやらなくて良いと本気で思っています。実際に動いてみて思ったのですが、幸いにも今の世の中それなりに福祉サービスは充実しています。関与したくないならできる限り関与しない方法を探せば良いです。例えばですが、私はシモの世話はやりたくないですしアクシデントを除いて対応したことはないです。目の前のことにいっぱいいっぱいになってる人には、周りが逃げる方法を教えてあげてほしいです。あとできれば、介護している人に対して「かわいそう」、「ちゃんと面倒みたってな」というような言葉は本当に心をえぐるので避けて欲しいです。
優しくかわいい娘と思って読んでた方、すみません。中年のおっさんです。意図的に男女をわからなくしたつもりはなかったんですが…
https://anond.hatelabo.jp/20250610200055
こちらは人かAIかの創作だと思いますが、ある意味救われます。こう考えていてくれた良いなと
追記2:
救命救急の病院から療養型の病院へ転院し、1週間様子を確認しましたが、回復の見込みは無いと判断し、点滴(中心静脈栄養)を中止しました。
末梢静脈栄養への切り替えも考えましたが、父を長く苦しめることになるだけだと判断し、何もしない状態で父を見送ります。
Permalink |記事への反応(40) | 00:04
出産、子育て、発達障害、それぞれ単独属性レポは色々見てきたけど、発達障害者の出産・子育てレポはあまり見た事が無かったので書いてみる。
発達障害持ちで出産・子育てしたいけど不安、といっている増田を見かけた事もあったので、一例として。
・30代
・でき婚
・正社員。クローズド就労。同じ位の年収の人と二馬力で暮らしています。
手帳持ちで未婚、近くに親族もいなかったため、役所の保健士さんにも病院のお医者さんにも警戒されているのを感じたが、
心配してくれる人が多いのは助かるので、色んな助言に素直に従う事を心掛けた。暫く心掛けていたら、みんな優しくなって、色々助けてもらえて有難かった。
一方で、厳しさと悪意をごっちゃにしてそうな様子の人からの助言・指導に対しては、表面上「うんうん」と言って聞き流す事も心掛けた。
素直さと聞き流しを両立するトレーニングは、出産・育児に限らず、仕事でも役に立って、いい経験になった。
・当時の反応
無計画妊娠でも、友人とか職場の人、精神科のかかりつけ医、産婦人科、家族、義理のご両親と親族の方々、沢山の人が助けてくれたり、応援してくれて有難かった。
職場に妊娠を報告したところ、現場仕事を他の人にやってもらうことになり、妊娠中はデスクワークに移れて、定時帰宅するように言われ、職場の理解に本当に救われた。
とても有難かったので、職場の組合で意見を求められた時に、「産休や介護休暇等、休職する職員の分の仕事を肩代わりする職員に肩代わり手当て等を出す事を検討してほしい」
という案を増田から出した。肩代わりする職員よりも、産休を貰う側の職員が提案した方が理解が得られやすいと思ったから。
①資格取得
私の職種は資格取得を促されがちな職種だったので、残業が無くなった妊娠期間中に資格勉強出来て良かった。
②水泳
妊娠が分かって5ヶ月目くらいまでやってた。妊娠前は21時まで残業がデフォだったので、水泳教室に通える時間に帰れるようになって助かった。
ヨッピーの育児本に「体力をつけろ!」ってアドバイスあったけど、妊娠中のスポーツとして水泳おすすめ。
勤め先の社食は安くて栄養満点だったんだけど、男性職員用のボリュームだったから、妊娠前は2食しか食べてなかった。
妊娠後、甘い物とか外食を我慢して社食3食食べる形で体重管理してたら、栄養管理の面を含めて病院に褒められた。
妊娠7ヶ月頃までは社食を食べていたけど、退職して、それ以降は交際者と結婚、同居を始め、料理の練習をするようにした。
出産後に料理の練習をするのは大変なので、この間に献立を考える練習をして良かった。
夫婦で食べるご飯と、一人で食べるご飯、小さい子供が居る時のご飯、それぞれ方法や最適解が異なる。
小さい子供に手軽に栄養取らせるご飯の作り方については、ヨッピーの育児ハック本が役にたった。
総合的なおすすめ本、ダントツでNHK出版の「最新科学でハッピー子育て」という本。夫婦で読めて本当に良かった。
NHKスペシャル『ママたちが非常事態! ?』(2016年1・3月放送)を本にしたものなんだけど、
猿や人間の長い歴史においては集団での育児が基本となっていて、ワンオペ育児がどれだけ異常な事かとか、
女性だからホルモンのおかげで育児に向いているという事はなく、男性も育児を行うとオキシトシンが分泌されるから、
男女差が育児の向き不向きに繋がる訳ではない事とかが短いページの中でまとまってて、初めての妊娠の不安がかなり軽減された。
お母さんお父さんどちらにも寄り添っている本で、スタンスも良かった。
配偶者に本を読んでもらうのがハードル高い場合はDVD版の「NHKスペシャルママたちが非常事態! ?」を一緒に見る、というのも手だと思う。
この本を読むと、母親だけとか、夫婦だけで乗り切ろうとせず、地域や親族みんなを上手く巻き込んで頼る事を頑張ろう!と思えるし、
夫と協力して頑張ろう、と思えて、出産あるあるとしてよく言われる夫にイライラ、は全くなく済んだ。
夫婦お互いが相手のやり方に口出しせず家事育児出来てるのは、夫のおかげが一番だけど、この本のおかげも大きいと思う。
配偶者と同居するには転居・転職せざるを得ない状況だったので、出産後のタスクを減らすために、妊娠中に転職活動を行った。
お腹が大きい状態で転職活動すると、「人間関係等が嫌になって転職活動しているのではなく、家庭の事情で転職活動している」事が
増田は以前から運転していたけど、交通ルールの再確認を出産前に改めて行った。
増田が運転役を買って出る事で、実際にママ友親子や友達家族を乗せる場面が増えて、一人っ子のわが子にも色んな繋がりが増えてよかった。
電車とか公共交通機関での子供が発端のトラブル、よく炎上してて、社会に理解が求められる、というのは確かにそうなんだけど、
車で移動すればそもそも災難やトラブルに巻き込まれる場面がぐっと減るし、子供ものびのび過ごしやすいので、おすすめしたい。自転車に比べて天候にも左右されないし。
あと、寝ずに泣き続けがちな子も、車に乗せると輸送反応の影響か、寝てくれる事が多くて、夜泣き対応時は車にお世話になってた。
妊娠が分かってから、私の方で主導して母を連れて義両親に挨拶を行った(母ありがとう!)。
義理のご両親・ご家族がとても素敵で優しい方々だったので、義理の親族の勧めのおかげで里帰り出産が出来た。
増田の地元は無痛分娩を追加費用無料で24h体制で行っている病院があって、スタッフの方が皆優しくご飯も美味しくて、出産後の回復が早く済んだ。里帰り出来て良かった。
義理のご両親・親族に里帰り出産を勧めて貰えたおかげで、「子供の顔を見せるために、出来るだけ早く帰って夫と義両親に会いに行こう!」という気持ちに自然となって、お互いに良かった。
最近は核家族化が進んでいるけど、子供が色んな人と接点を持つためにも、義理のご両親・親族との交流を大事にしたり、手を借りる事ってかなり有用だと思う。
上手く手を借りれたら、こっそり「皆の手を借りれる自分、偉い!」と思うようにしてる。
ネットでよくある 「発達障害持ちは育児家事仕事能力が無いから産む資格なし!」みたいな声を鵜吞みにせず、
自分の欠けてる能力を他に頼って補完する事が出来れば問題ないし、
寧ろ、誰でも完璧ではないのだから、足りていない所を色んな手を借りて解決する事は、普遍的に有用なスキルだと思う。
一方で、パートナーの親族は選べないのは事実なので、自分は運が良かっただけ、とも思っている。
義理のご両親や親戚と上手くいっていない人の話は、その人に共感して聞くようにしている。
義実家と配偶者のうち、義実家の方ばかり大切にされて辛い、という人を男女問わず沢山見て来たので、
私の方から進んで「基本的に夫君を優先するね」と夫と両親両方に伝えて、その態度を続けた。
親御さんの気持ちはごもっともなので、実家でも義実家でも「夫を一番大事にしています」という態度を一貫するように心掛けた。
すると、夫も私を優先しています、という態度を示してくれるようになり、私が発達障害由来のフラッシュバックでメンヘラになって夫に迷惑がかかったときも、
夫はどちらの両親にも「増田さんはとても頑張っています。上手くやっていきたいので見守ってください」と言ってくれて助かった。
トラブルがあった時も、両親が「増田が、夫君を大事にして遠い所でよく頑張っていて、お父さんお母さんはとっても嬉しい。いつも応援してるからね」
と言ってくれて、私は発達障害を持ってしまうとしても、もし、もう一度産まれてくるなら、両親の元に生まれたいと思った。
増田はコンサータのおかげで仕事中寝ずに働けるんだけど、(薬が無いと前日9h寝てても会議中寝てしまう)
コンサータもインチュニブもカフェインも取れなくなって仕事に支障が出た。
気分調整には漢方を処方してもらって、眠気問題は、つわりを理由にして、時々休憩室で10分寝たりしてた。
眠気問題は解決出来なかったけど、自分に出来るアウトプットを出す事は諦めないようにしていた。
家に帰っても、期限が迫った仕事の事は次の日にすぐ取り掛かれるように段取りだけ考えたりとか。
出産後も授乳するなら薬が飲めないから、発達障害持ちの妊娠・出産で一番苦労するのはこの点だと思う。
WHOも言ってるんだけど、免疫効果とか、様々なリスク軽減において母乳育児って子供にとって大きな効果がある。
だから、職場復帰するまでの7か月は母乳育児してたけど、復帰後は薬飲むためにミルクに変えた。
寧ろこれ以外の悩みは些細だった。
勿論、出産直後の授乳とか、出産後のダメージで便秘になったりとか大変な事はあったんだけど、
「お父さんお母さん~人に聞いた!子育てで一番大変だった時期は?」みたいなネットの調査記事で、殆どの回答が「出産後1か月」だったのを読んで、
「今が一番大変なんだから、これ乗り切ったらどんどん楽になる!」と思えたのが大分救われた。
寧ろ、自分が普段から自身の機嫌のコントロールに苦労しているからこそ、わが子が泣いていても「頑張っていて励まされる・・・」と思ってわが子を尊敬してた。
実際、1か月過ぎたら、夫と合流して母と離れても、自然と家事とか買い物とか出来るようになってて、かなり楽になった。
子供の個体差も大きいだろうから、一概に「子育ては良い!」とか思わないけど、私個人としては、学生時代よりずっと楽しい生活だった。
発達障害の診断もない時代に、クラスでただただ浮いていて、受験勉強が大変だった中高時代の方がしんどかった。
①子供と大人どちらの衣類も洗える衣類洗剤(例:ヤシノミ洗たく洗剤 無香料・無着色のやつ)
→赤ちゃんと大人の衣類を分けて洗うのは面倒だったので、最初は赤ちゃん用衣料洗剤で全部の衣料を一緒くたに洗ってたんだけど、
赤ちゃん用洗剤って一回の洗剤使用量がすごく多くて、2週間に一回洗剤を買わないといけなって費用が嵩んでた。
ので、子供用も大人用も一緒に洗えるヤシノミ洗剤に変えたら、濃縮洗剤で買い替え頻度がぐっと減って経済的になった。
→うねうね動く赤ちゃんのわきに体温計を挟むのは大変なので、精度の高い赤ちゃん用の非接触型体温計があれば瞬時に体温が測れる。
保育園に預けるなら毎日登園前に体温を測る必要があるので、使用頻度が高く、贈り物にもおすすめ。
出産を控えた友人に贈った所、出産後、毎日使っていて重宝していると言ってもらえた。
万が一、出産にトラブル等があって、お子さんが・・・、という事があっても、体温計なら大人も使えるので、贈りやすい。
コロナ流行時に買っているご家庭もあると思うので、家に非接触型体温計があるかどうか確認の上、贈るようにしている。
Permalink |記事への反応(11) | 17:15
吐き出し先がないから吐かせてほしい。
適応障害の診断は妥当だと思っているし、休職についても主治医と相談して判断したので後悔はしていない。
が、今日定期診察でかかりつけ医に行ったら、上司から主治医に問い合わせがあったらしい。
上司「増田の適応障害の適応とは何に対する適応なのか。増田はこの職業に適性がないのではないか。休職期間満了後復職できないのであれば解雇だが、解雇したら生活保護しかない。その斡旋はしているのか」
とのことだった。
主治医もこんなこと聞いてくる上司は初めてと言っていたし、私も意味が分からなくて唖然としてしまった。
適応障害を知らないのか。生活保護への偏見に満ちているし、今の業種にこだわらなくても転職だって可能だ。なんかめちゃくちゃ失礼で唖然としてしまった。
休職期間満了と同時に退職しようと思う。その満了日が来週なんだけど。
夜逃げみたいな辞め方で同僚には申し訳ないが、もう耐えきれない。ごめんなさい。
【追記】
休職期間が1ヶ月なのは、就業規則で「勤続1年未満の者は1ヶ月。どんな理由であれ延長は認められない」となっているんだよね。私は半年前に転職してきたので、1ヶ月しかもらえないらしい。
傷病手当で1年半休職できるのは知っているけど、就業規則がそうだからダメだと上司に言われたよ。
それを聞かされたのは、↑文中の「今日」当日にラインで就業規則のその条項のページだけ送られてきて知った。
会社と労災認定やら休職が短すぎることを争う気は今のところないかなあ……なんか疲れちゃって。
タイトルの通り、なぜあんな病院に行ってしまったのかと毎日後悔しています。2ヶ月前にいきなり元気がなくなり、かかりつけの動物病院にいったところ軽度の椎間板ヘルニアと診断され安静を指示されたのでケージで安静にさせていたのですが、夜には足にふらつきが出た為、近所にあった椎間板ヘルニアの手術を行なったことのある病院を探しそちらに電話し翌日の診察を依頼しました。
たまたま、年末でかかりつけの病院が休みだった為そちらに行ってしまったのが最大の間違いでした。
翌日には後肢に麻痺が出て立てなくなっていた為、そちらの病院にて造影剤を用いたレントゲンを行い手術を行いました。
手術に関しては場所の特定もわかりやすく手術は成功したと聞かされました。
その後1か月ほど、毎日リハビリを行なっていたのですが、症状がよくならず、再生医療や鍼治療を検討するためにいろいろな病院に相談していた所もしかしたら椎間板物質が取り切れてない可能性を指摘されMRIでの診断を提案されました。
かかりつけ医から、MRIを撮影できる病院を紹介頂きMRIを撮影したところ、椎間板物質がまだありヘルニアの症状が現在も残っていることがわかり、治す為には再手術が必要なこともわかりました。
2回も連続しての手術、短期間での3度の全身麻酔とかなりリスクは高く、さらにグレード診断は4だった為本来であれば9割は手術により症状が改善する所が、術後の経過が長い為、(この時点で発症から2か月が経過していました。)歩ける可能性はかなり低くなっているが手術はした方が良いとの事で手術をしました。
手術は成功したのですが、やはり発症からの経過時間が長かった為、神経の状態が悪く今後歩ける可能性は低いとの結果を伝えられました。さらに、初回の手術にて開けられた穴が不必要に大きい為、背骨の骨折のリスクがある事も伝えられました。
初めから、MRIなどがある大きい病院に行っていれば今頃歩けていたのかと思うと自分のバカさ加減が悔しくて腹が立ってきます。
1回目の手術をした病院にそれらの不備を訴えたところ今回の椎間板ヘルニアの手術には自信がなかったや、造影剤での手術ならこんな事もある、取り切れてなかったのは不思議だ、などと言われましたが、最終的には手術ミスを認めて手術費用は返金するとお約束頂いたのでその日は、一度検討する事にし帰宅しました。
ですが、そのお約束いただいた和解案を急に撤回されるなど、かなり納得のいかない対応をされています。
本来であれば、椎間板ヘルニアはグレード4までなら手術をすれば9割が症状が改善するのでみなさんは、自分たちと違いMRIがあり手術経験が豊富な病院で手術してほしいです。
実は「行く必要もないのに薬をもらいに病院に通うから老人ホームになってる」って既に否定されている、根拠がないってご存じですか?
印象論なんですね。
その俗説、調査されていまして、実際には適切な医療にかかれないままにあちこちをたらい回しにされていたに過ぎなかったんですね。
そのためにかかりつけ医という制度ができたと言うのが近年の流れです。そこが常に持病をコントロールしながら、必要に応じて専門医に紹介すると言う流れですね。
また、高額療養費の削減という話で行くと、常に病院にいって身体のメンテナンスをしている人の方が、最終的な医療費は低くて住むと言う研究もあります。
夏くらいから痛み、痺れを覚えかかりつけ医に相談し、ずっと口内炎の軟膏をもらっていた。
病名:舌癌の疑いがある(ほぼ確定)と診断。
歯科医師いわく、口腔内の傷やできものは体内でも治りが非常に早く、二週間以上経っても治らないのはおかしいそうだ。
かかりつけ医は専門外だったので口内炎らしきものとしかわからなかったのでしょうと。脱力する。
患部を見たが、とてもじゃないが癌に見えないし口内炎にも見えない。
なんなら言われないと何もないように見える。舌の側面だし血管が青黒くあるだけ。
触ると固いだけ。癌の顔をしてない!
間違えて口内を噛んでしまって、少し白っぽい口内炎になった時の方が癌に見える。
配偶者の舌によく血豆ができているが、そっちの方がまだグロくて癌らしいのに。
言われないとわからない…
もう半年経とうとしている…。
かかりつけ医に、口内炎が二週間以上続くのはおかしいという知識さえあれば、と悔やんでならない。
これを読んでいるみなさんに伝えたいのは、口腔内のできものが二週間続いたら専門医にかかってくれ、という一点のみです。
初診千円で癌の早期発見ができるなら安いです。
今年は何もいいことがなかったしできなかったので、これだけ書いておく。
https://anond.hatelabo.jp/20210412195129
普通に稼いでるとなんの支援も受けられない。配偶者、子供が2人いる。
簡単にいえば「椎間板ヘルニアをもっと凶悪にした感じ」の病気だ。もうかれこれ20年以上治療・経過観察している。若い頃に脊椎形成術を2度受けているが、これ以上やっても背骨がつながっていくだけで再発必至。
15年前に発病。通常ならステロイドで憎悪をコントロールできる病気と言われているが、それでもコントロールできないものを「難治性」と呼んでいる。喘息発作も多く、3ヶ月に1回くらい入院する。コロナ、インフルとかになっても即肺炎になって入院する。何度もバイオ製剤を試しているが、どれも費用が高額な割に効果が薄い。先日、最近までつかっていたバイオ製剤の使用を止めた。年末は色々と入用だからお金がなくなる。
お薬代や治療費がかなり高額になりがちな喘息だけど、指定難病でもないし医療費助成制度は一切ない。一昔前は喘息だと公害助成金というものがあって、治療費が100%助成されていたらしいけど、今はもうなくなっている。川崎病で有名な川崎市だけがまだ残っていると聞いたことがあって、川崎に引っ越すことを検討したことすらあったが…多分今更引っ越しても助成されないでしょう…
脊柱管狭窄症の腰椎形成術を受けるともしかしたらまた歩けるようになるかもしれないのだけど、重度の喘息のため全身麻酔が使えない。使うと発作のリスクがかなり高いらしい。それにより障害が固定されて認定された。しかし、このまま症状が進んで(たとえば排泄障害が出たり)しまうと死を覚悟して手術しなければならなくなる。おそらく、その日も近い。
最近は発作頻度がかなり上がってしまったり、COVID-19のこともあり、かかりつけ医から離れてくらしていると処置が間に合わなくなるリスクがあるため、かなり家賃は高いけど都心に住んでいる。というか、以前はタクシーで45分くらい離れたところに住んでいた。喘息発作になると近所の大きめの病院をハシゴするのだが、お薬手帳をみると
こんなに薬を盛られて(喘息の治療として可能な薬がすべて処方されている)いるからウチではなにも処置ができない(からかかりつけ医に行け
となる。COVID-19が流行する前まではまだなんとかなっていた?が、一度、なったときはたらい回しにされた後に結局、かかりつけ医に搬送されてなんとか生き残れたが、深刻な呼吸器へのダメージが今でも残るくらいに大変な目にあった。お陰で肺の一部が壊死してしまった。肺活量がかなり落ちた。
そういった経緯もありかかりつけ医の近くに住んでいる。今では発作になったら病院に直接電話して救急(発作が起こるのはいつも夜中)から診てもらう。応急処理で帰宅できると判断されると無慈悲なぐらいに返される。当たり前だけど…そんなときに深夜料金のタクシー代もむかしはかなりかさんでいた。かかっていた金額を割ってみると今の家賃と良い勝負だったりもする…でも、やっぱり家賃が高い…
屋外での移動には電動車椅子を使っている。しかし、屋内では使えない。屋内用の車椅子も介護保険でレンタルはできるが、介護保険適応前にメルカリで買った中古の自走式のものを利用している。普通の住宅なのでバリアだらけでとにかく不便だ。先にあるリンクの方は単身者なので障害者用賃貸住宅を利用しているのだろうが、家族がいるとそういった施設がない。ワンチャン、ファミリー向けの公団とかに当選すれば、更に運良くバリアフリー住宅にあたれば良いが、普通に家族を養うくらいに稼ぎがあると所得制限で応募資格すらない。だから配偶者とは離婚して、子どもたちが独立するまで我慢して、然るべき施設に入るとかしないといけない。でも、働いて稼いで子どもたちをなんとかしなければならないのでそうもいかない。
都内の移動といってもこうなるとほとんど家から出ることは通院くらいしかなくなるのだけど、外出は電動車椅子を使うけど、都内はほとんど予約なしで電車に乗れる。駅員さんにスロープを出してもらって、降りる駅でまたスロープを出してもらう。大江戸線だけは特別。ホームと車両との距離や段差が少いので自力で乗車できる。ところが遠方に行くとなると難易度があがる。地方の駅というか自分の実家のある駅はちょっと前まで有人で切符をチョキチョキ切ってたくせに最近は無人になってしまっているらしく、前もっていわないとスロープをかけてくれる駅員がいない。そういえば以前、連絡なしで旅行した車椅子の人が炎上してましたよね。そういうことです。
遠方への移動となると電動車椅子ではバッテリー切れのリスクがあるため、できれば自走式の車椅子で移動したい。でも、車椅子ってめちゃくちゃ高い。特に外出で使えるいわゆる「アクティブ車椅子」といわれるもの。自分の身体に合わせて作ってもらうというのもあいまってとにかく高い。だから各自治体で装具購入助成制度とうものが存在するのだけど、介護保険で電動車椅子をレンタルできていると「レンタルしてください」の一点張りでまったく支援してくれない。もちろん、自走式の車椅子もレンタルできるのだけど、ほとんどが室内用のもので外出に適したものではない。自治体からしたら「車椅子は車椅子」くらいの感覚なのだろう。
身体障害者手帳を取得するとタクシー券をもらえる。でも、電動車椅子は折り畳めないため乗ることができない。厳密には折り畳めるタイプのものもあるけど、それらは介護保険レンタル対象ではない。運良く電動車椅子で目当ての駅まで行けたとしても、そこから電動車椅子を目的地まで持っていく手段がない。そういう車を持っている人が知り合いにいたりすれば良いのだが…おそらく、方法としては介護タクシーを事前に予約しておくとかになるのだろうが、だいたい介護タクシーって街に1台しかないとかだから奪い合いになる。身体障害者になって2年になるけど、いまだにタクシー券を使えた試しがない。都内で使おうにも、車椅子なしで自宅マンション前まで帰ってこれたとしても、マンションの自室まで歩いていけないから、匍匐前進で自室まで戻るしかない。喘息でステロイドを長期利用していて、骨粗鬆症もあるので骨折のリスクもあるのでできるだけこの方法は取りたくない…
運良くフルリモートでお仕事をさせてもらっているが、喘息の発作頻度がCOVID-19後に確実にあがっていて、あまり勤怠も良くない。解雇されても文句は言えない。今の会社を解雇されたら、おそらくもう普通に働くことはできないだろう。というか既に普通に働けていない。会社の好意でおいてもらっているだけだ。
国の支援というものは本当に困っている人たちに対してあるべきもので、私なんて者はまだ働けているのでそのレベルに達していないということなんだろう。しかし、既に生活は苦しい。同じくらい稼いで豊かに暮らすことはできるとは思うが、医療費や居住費がとにかく病気のせいで高い。なんとか副業等で所得を増やすかなりしなければならないとはおもいつつ、身体が動かないのでそう簡単に副業というわけにもいかない。障害年金も検討したが、初診日の関係で(未納期間があり)受給条件を満たしていない。未納期間はあったけど、かれこれ20年以上厚生年金も収めているのに、なんだかなぁという気もするが…そもそも、未納だった期間も病気療養中だったので、まぁ、身体の弱い自分を悔やんで呪うくらいしか今はできない。
とにかくリビングコストが高いので所得を上げるか、無理やりリビングコストを下げる(その代わり死ぬリスクが上がる)か、方法は2つに1つしかないのだろう…単純に所得をあげればいいのか?という問題もある。もちろん、税金はあがるし、社会保険の医療費区分もあがるので限度額もあがる可能性がある。しょっちゅう入院している自分的には致命的だ…
なので「どうしたらいいのかわからない」という状況だ。まだしばらく悩むんだろう…
生活保護を申請するしかないけど、先進医療は受けられなそう。でも、そうなると所得制限にはひっかからなくなるから公団とかに住めるかもしれない。だけど、一度生活保護に落ちるとなかなか戻れないと聞く。今はとにかく日々そうならないようにかろうじて繋ぎ止めているという感じだ…
いざとなったら生活保護を申請すればいいさと書いてはいるものの、前述の装具購入助成とかでもそうだけど、支援してもらえるものだと思いこんでいると絶対に痛い目を見る。
と言われているけど、過去に生活保護申請したことがあって、結局、申請する条件を満たしていなくて(配偶者が働いているのに家に金を入れなかったから)断念したことがあった。だから国には頼れないし、国は国民を守ろうとも思っていないくらいの感覚でいなければならない。某ひろゆき氏が
と発言していたけど、それは単身者に限るという条件つきだと思ったほうがいい。中途半端に働けて稼ぎがあると本当にただの地獄だ。
「東京秘密基地チャンスじゃない?」と言ってきたのは夫の方である。
なんならこの記事を書いてほしいと言ったのも夫で、書くのは私。アップロードするのは夫に任せてある。
夫33歳、妻35歳子なし、結婚歴7年。離婚歴があり、セックスレスの経験もあるため、2度目の結婚では、セックスレスを恐れて週に1回は夫を抱くように意識している。
もう「抱かれる」というスタンスではいけないと思えるのは、2回目の結婚生活だからである。
今までの私は、彼氏が途切れたこともなかったし、20代はマンコの価値が高くて、セックスはいつでもできたし、風俗に行くなんて考えたこともなかった。
そんな矢先、夫が1週間出張でいないことが増えた。
夫はアングラなものが好きで、よく『東京秘密基地』についてTwitterで眺めたり、知人から話を聞いたりしていて、とても興味がある様子だった。
一方わたしは、3Pに興味があり、人生で一度はやってみたいことの一つである。
しかし夫は3Pは興味がなく、叶えるには『東京秘密基地』だろうなと思っていた。
なので、せっかく夫が言ってきたこの機会に、お試ししてみようと思ったわけ。
そして初めて女性用風俗を試してみて感じたのは、思いもよらず、自分の過去のトラウマからの解放であり、「あ、私自由になりたかったんだ」という気づきだった。
うだるような夏の暑さ。陽が傾き暑さが少し和らぐ時間帯に、暑い中待つのは疲れるので、商業施設の中で待ち合わせをした。
相手にはどんな服装で行くか事前に写真を送っておいたので、男性が気づいてくれて「あ、どうも」といった感じで合流した。
長身でスラリとした男性で、サングラスをした姿が、めちゃくちゃ友達に似ていて笑いそうになる。
東京秘密基地では、サイト上でおすすめのホテル情報がまとめてあり、その中から良さそうだなと思っていたホテルへ向かう。
ラブホテルなんて久しぶりだし、慣れていない中、ありがたいことにエスコートしてくれる。フロントのお姉さんに、部屋の中にお水が何本あるか確認もしていて、商業だ〜と感心してしまった。
部屋に入ると話ながら、照明を調整し、キャンドルに火を灯し、持参したアロマディフューザーでアロマを炊いてくれた。持参したBOSEのスピーカーからは、ヒーリングミュージックがかかり、その様子は、まるでプロのヘアメイクさんが、仕事場を整えているようだった。
あっという間に準備が進む中、お風呂にお湯がはられ、ふたりで歯磨きをしてた。なるほど、歯磨きするのか、などとドギマギしながら歯を磨いた。
「なんで女性用風俗で働こうと思ったんですか?」と聞いてみると「叶えたい夢があって、将来事業をやりたくて、そのためにまとまったお金をと思って始めたんだよね」と。
嘘でも「綺麗な応援したくなるようなストーリー」に、正直「この人マーケ上手いな」と思った。
だって、正直、政策金融公庫にお金借りて事業なんて始めたらいいわけで、会社をやるために風俗をするなんて綺麗な嘘だと思った。
だから「叶えたい夢があって、風俗をしている」というストーリーラインは、頼むお客さんからしたら、「夢を応援する一助として指名する」言い訳にもなるわけで。すごく上手だなと思ったわけだ。
私がシャワーを浴びて、次に男性がシャワーを浴びている間、ベッドの上でぼんやりと鏡越しにシャワーを浴びている様子を眺めていた。
こういう部屋のつくりはラブホテルならではで、よく考えられているなと、また感心した。
壁に反射したキャンドルの灯りが綺麗で、ガラスのキャンドルホルダーも、きっといいものなんだろうなという気がした。
カウンセリングとして、「性の悩みはある?どこが好き?」などと聞かれた。例えば中イキできないという悩みのある方は、中イキできるようになったりするらしい。
わたしは悩みはないが、女の子扱いされたいし、ロマンチックな感じがいいと答えた。
そしていざ「ファンタジーマッサージ」が始まった。「オイルマッサージと指圧どっちがいい?」と聞かれてオイルにした。
「ファンタジーマッサージ」とは、性感マッサージのことを、東京秘密基地がオブラートに包んだ言い方で、ワードセンスには脱帽である。
なんてことないマッサージから始まり、夫以外の人と触れるのは久しぶりで、初めて世界に触れた赤ちゃんになったような新鮮さがあった。
くちびるが柔らかすぎて「なんのリップ使ってるんですか?」と食い気味で聞いてしまった。
信じられないくらいテクニックがあり、全く潮を吹かない体質の私は何度も潮を吹いた。何度も何度もオーガズムを得て、女の快感には天井がないんだなと知った。触られただけでもイってしまう身体になってしまった。
「あ、私もう浮気しないな」
と思った。
野良の男と浮気するくらいなら、お金を払ってファンタジーマッサージを受けた方が満足度が高い。
無我夢中というか、必死というか、未来の不安も、過去の辛い経験も忘れさせてくれる。今ココにしか自分が存在しないような感覚こそ、私がセックスが好きな理由だったなと思い出した。
そして「今、私は自由だ」と全身の細胞が沸き立つように感じた。
ちょうどその頃「内的家族システム」に関する心理学の本を読んでいた。
人間の人格はいくつかのパーツに別れており、複数の人格を常に使い分けているという話。妻としての自分、会社員としての自分、誰しもがいろんな顔を使い分けて生活をしている。
そうした表に出るパーツとは別に、深層心理には、過去のトラウマを受けた時にそのトラウマを引き受けるためにできた人格(パーツ)があり、そのパーツは、トラウマを受けた年齢で時が止まっているそう。
私はいわゆる毒親育ちで、10代の頃は親とか経済的な貧困から抜け出したかった。自由になりたかった。
そのことをふと思い出したのだ。
私は人生をかけて自由になりたかった。そのために一生懸命仕事をして、自分のお金で今風俗に来ている。
トラウマを引き受けたパーツは10代のままで止まっており、自分が今35歳でもう10代でないことを、そして人生うまくやっていることをパーツに伝えることからトラウマの治癒は始まるそう。
20代の頃はお金を払って風俗に行くなんて思ってもみなかった。でも今こうして自分のお金で風俗に行けることに謎の自信を覚えた。
ハイブランドのものを買って、自分は大人になったんだと思うように、私は女性用風俗を通して、全身で自分は大人になったんだと思えた。
もうとっくに自由になっているはずなのに、深層心理は10代で止まっていて、自由になっていることを知らなかったことに気づけたし、過去の私の願う「自由になりたい」という思いにはケリがつけられたのだ。
ファンタジーマッサージをして、何をしてもイク身体になった私は、とにかく夫とセックスがしたくなった。「早くしようよ」とせがんで、夫はというと、何をしても気持ちがいい身体になった私をみて可愛いと思ったらしく、すぐ射精に至った。
正直、自分は良くても相手がヤキモチを妬いたりしたらどうしようと思っていたが、そんな心配は露知らず。
私は人生をかけて自由になりたかったことに気づいたこと、そして自由を叶えられたことに気づけたこと。悟りを開いたような発見の多さに、「大きくなって帰ってきたね」と感想をくれた。
私にとってはすごくいい経験だった女性用風俗だが、全ての人におすすめしたいと軽々しくはいえない。
「話を聞いて一晩考えたんだけど、私相手のこと好きになっちゃって、夫いるのにって罪悪感覚えて泣きそうw」
「今まで遊んでこなかったツケがきてるw」と女友達は笑っていた。
性というものはある程度、相手を消費する感覚がないといけない。ガチ恋になるリスクがあるなら、おすすめはできないが、ある程度相手を消費する感覚があるなら、ぜひファンタジーマッサージを体験してみてほしい。
「他の人試したいとかないの?」と夫に言われたが、私的にはいいと思ったら同じ人をリピートしたいと思った。
身体を預けるという意味では、医者ガチャと同じものを感じたのである。いい医者に出会ったら、かかりつけ医にするように、私は同じ人をリピートしたいと思う。
日頃の不摂生に加えてクーラーをつけていなかったのが仇になった。
買い物に行ってくると同居の親に断り、少し離れた場所まで足を伸ばした。離れていたのは2・3時間程度だろう。
帰宅途中に親からLINEがきたので確認をすると、たすけて、てがしびれる、めまいなどとひらがなオンリーの誤字まみれの短文が次々と届いた。
まずい状況なのではないかと慌てて帰ると、親はリビングで倒れていた。そばにはかろうじて飲んだのか経口補水液が半分飲まれて置いてあった。
LINEが送られてきていたし、まだ意識はあると症状の確認をすると、か細い声でLINEと同じ答えが返ってきた。
状況からして熱中症だろうと辺りをつけ、Xで得ていた知識をもとに脇や首などを冷やしつつ、聞かれそうなことを親に尋ねてから119番通報した。
救急隊員には、住所・親の名前・症状・症状が出始めたのはいつからなのか聞かれたのでわかる範囲で答えていく。内心パニックだったが、まだ親の意識はあったし来てもらえたらなんとかなると思い、頑張って答えた。
救急車が来るまでに、保険証とお薬手帳を探し出し、もしかしたら入院になるかもとバスタオルと下着・歯ブラシを袋に詰めた。後は、かかりつけ医と持病などを答えられるようにした。本当ならもっと持っていくものがあるのだろうがパニックで思い出せなかった。とりあえず何か持っていかなければならないと思うことができたのはネットのおかげだ。
救急車の音が外から聞こえた時は安堵した。親は後で長い時間がかかったように感じたと答えていたが、実際のところは10分ほどで来てくれていた。親の意識があってよかった。意識がなかったら、この10分は地獄だっただろう。
救急隊員が来てからは親に質問されることが多かったため、出番はあまりなかった。横で時たま補足するくらいだったのは本人の病状確認もあるのだろう。
搬送が決定してからは火元の確認や戸締りなどをするように指示された。玄関の施錠も頼まれた後に、親の靴を持ってくるように言われて、気遣いができる人だなと感心した。確かに靴がないと帰れない。
救急車に乗ってからも搬送先が決まらずやきもきした。15分ほどあちこちの病院に電話をしてやっと決まったので出発すると言われた時はこれまた安堵した。
コロナの予防のため、念のためマスクを親にしていいか確認した後マスクをしたが、しばらくして酸素濃度が下がったのが警告音が鳴り響いた時は心臓が飛び跳ねた。意識があるから大丈夫、血圧も測っているし大丈夫、何かあったら救急隊員がなんとかしてくれる、すぐに病院だと自分に言い聞かせた。
快晴の土日だったので出かける人々が多かったのか道が混み、避けようにも避けられなかったのかもしれない。結局アナウンスを行い真ん中を通行した。
交差点に突入する時も、どんどん車が曲がってきて救急車が通りにくそうだった。
今回親は軽度の熱中症で意識があったからよかった。でもこれが熱中症でも重度の人や事故にあった人、一分一秒を争う人だったらどうなるかをすごく考えた。
高齢者1人亡くなったんだねで終わることが怖かった。
この増田を書こうと思ったのは、熱中症は怖いから気をつけてくれっていうのと救急車が来たらすぐに道を開けて欲しかったからだ。
寄りにくい道もあるだろうが、救急車が見えたり音が聞こえたなら気にかけて欲しい
交差点も曲がる前に止まってくれ。
歩行者も横断をやめよう。
道を開けてくれた車は本当にありがとう。
車乗りの義務だけど、ぐんぐん走れるようになった時は嬉しかった。
あとやっぱり救急隊員って運転上手いんだな。揺れますよとか言ってたけど道路の舗装の関係の揺れとかそのぐらいだしアクセルのかかり方とか上手かった。訓練して事態に備えてくれてるの分かって良かった。金持ちだったら寄付したかった。差し入れもダメだし、金ないから手紙書くぐらいしかできない。
病院に搬送された後は、点滴打って少し休んだら帰れたのでもうそんなに書くことがない。
やったことといえば、カルテに必要事項を書いてスマホでもう1人の親に連絡したぐらいだ。
仕事を切り上げて車で迎えに来てくれたのは帰宅の面で助かった。倒れた親は帰りの車で戻したのでタクシーだったらタクシーの人が困ったと思う。看護師が気を利かせて袋をくれていたのもファインプレーだった。
そんなわけで親はいろんな人のおかげで無事に助かったし、学びを得た。
病院代は9000円ぐらいかかったから親にはケチケチしないでクーラーをつけろ、寝ろ、飲め、食え!ときつく言い聞かせた。
親の言い分としてはクーラーの清掃をしていない状況で埃まみれのクーラーを使うのが嫌だったらしい。そんなわけで清掃業者を手配した。近いうちにくるがそれまでは我慢して埃まみれのクーラーで過ごすように伝えた。
・睡眠不足
・水不足
・食事不足
親は全て当てはまった役満だったので当然といえば当然の結果だった。
帰宅途中でよかったし、同居してて親の保険証やかかりつけ医を知っていたのもよかった。
これを読んだ増田達には、熱中症に気をつけることと、救急車の道を開けることを強くお願いしたい。
救急車の道が開かないのは友人の医療関係者も同乗する時に本当に困るよと言っていたので地域が変わっても困ってるんだなと思った。
本当に頼むぞ!それで助かる命があるかも!
デーモン閣下の発表を読みました。
でもそこで改めて疑問に思ったのが「じゃあなんで厚生労働省はかかりつけ医を持ちにくくなるような全国転勤を認めているの?」ってことです。
だってさ、厚生労働省がかかりつけ医を持つことを推奨していて、その上で公式のがん検診啓発特使が「かかりつけ医を持つことががんの早期発見に繋がる」と言っているわけじゃん?
これってつまりさ、「全国を飛び回っていて長期のかかりつけ医を持つことが出来ない奴は、ガンの発見が遅れて死ぬ」ってことだろ?
んで当の厚生労働省は全国転勤に対してまともに規制もしないし、ましてや自分たち所属の官僚を全国転勤させまくっては、長時間残業とのコンボでまともに人間ドッグも受けられずにガンで殺していってるんだろ?
https://demon-kakka.jp/information/2024/06/post-64.php
弊社(株式会社パワープレイミュージック)所属のデーモン閣下(悪魔。アーティスト。10万61歳)は今年2月に、日頃よりお世話になっているかかりつけ医に勧められて、内視鏡による検査を致しました。
その際、本来の検査目的ではない部位において早期の癌を見つけることができました。
「なるべく早く専門医による治療を受けたほうが良い。」とのアドヴァイスを頂いたため、3/16(日)に開催された「ジゴロック大分地獄極楽ROCK FESTIVAL」の出演を最後に、既に決定していた仕事のほとんどをキャンセルさせて頂き、4月から5月にかけて検査入院と手術を致しました。
手術後も問題なく回復を致しまして、5月下旬に退院を致しました。
現在は、体力を回復させるため、トレーニングをするまでに至っております。
デーモン閣下は、厚生労働省「上手な医療のかかり方大使」を5年、広島県「がん検診啓発特使」を12年間務めており、その活動の中で「かかりつけ医を持つことの必要性」や「がん検診を定期的に受けて早期に発見すれば治る可能性が高い。」ということを訴えてきました。
そのため、実体験として「かかりつけ医の勧めにより受けた検査で早期のがんを発見できて、手術により完治できた。」ということを公表することで、より強いメッセージを伝えられると考えましたので、この度ご報告させて頂きました。
親の口癖は「この子は自力で幸せになれないのだから、わたしたちが幸せにしてあげるのよ」だった。
弟ははっきりと「障害者」だから、施設に送迎しようが専門のお医者さんに送迎しようが、そのへんでわめき散らそうが、「障害者だから」と許された。
親の心情はわからない。わたしはそこまで気が回らない。動き回る弟(成長すれば体格もよくなる)を力で止めて、騒ぐのを周りに謝りながら止める。
それに比べて、障害者でないわたしが心身どちらでも体調を崩すと「医者にかかるようなことをしてみっともない」「精神科にいくなんて周りに知られたらどうなるか」だった。
そして、わたしが覚えていないだけだと思うけど、親からわたしの幸せを願う言葉をかけてもらったことは記憶にないし、
この相談は結果的に、「あなたを精神科の病院に通わせるが、知り合いに見られないようにちょっと離れたところで降ろす(送迎する)」だった。
バスが市街地までいかない地域だったので自力で行けなかった。近くまで送迎してくれただけ感謝すべきなのだろう。
書きたいことはいっぱいある。結婚を諦めたこともある。県外に転職しようもんなら「お前は弟を捨てて施設に入れる気か」と父に怒鳴られたこともある。母親は「お父さんの言うことだからわたしはなにも言えない」と味方になってもらえなかった。
唯一味方だったのは、入社した会社を定年まで勤めあげて職場から表彰された経験をもつ、いまは亡き祖母だった。「行かせてやったらいいじゃないか」この一言に救われて今がある。
しかし転職した会社で、医師から処方された薬で薬疹を起こして入院をし、会社を辞めたと報告したとき、父からは「親に許可も得ず勝手に会社を辞めるな」と言われた。
そして、自分の努力不足のせいでもあるが、自分の幸せのために何をすればいいのかが本当にわからない。どう考えても、周りに相談してもわからない。
「親に逆らわないこと」「弟を最優先すること」「わたしは健常者なのだから頼ってはいけないこと」こんな感じで大学卒業まで過ごした。大学時代の記憶は、ひたすら泣いていたのと、体が鉛のように重くて授業に出られなかったこと。
「弟を幸せにするためのお金稼ぎ以外にわたしが生きている意味はあるのか」
「弟がいなくならないのなら、いっそのことわたしがいなくなって逃げてしまいたい」
1人暮らしをしている今でも、かかりつけ医から、「親はいま近くにいないでしょ?親がどう思うかは関係がないから大丈夫なんだよ」といわれる。
でも、どうしても考えてしまう。逃げられない。逃げたい。だれかわたしを刺してくれないか。終わらせてくれないか、この人生を。