
はてなキーワード:お馬とは
昔言われた言葉がその場で終わればいいのだけど。
今もフラッシュバックではなく、情報で思い出してしまうことになった という。
今はしがない会社員ですが、昔はちょっとバンドなどしていたことがあり。
苦手だけど営業や人脈形成と思い色んな飲み会に顔を出したりもした。
案の定馴染めず居心地悪い思いをしてたら
その時たまたま隣の席になった人が、PVや映画を撮っている映像関係の人。
上手く話せないなーと思っていたらやはり
という一言。
その通りだと思った。
自分には人的な魅力は自分にはないし、それを補うコミュ力も「天然」なところも「お馬鹿」みたいな性質もないほんとに普通の人間なのだ。
一番嫌なとこ突かれたと思った。
でも深く考えてもよくない、自分は自分だと思い切り替えて生きてきた。
後悔はしていない。
あの頃のことも糧に と思う中
・若手だけどアーティストや役者に寄り添い最高の作品を生み出す新進気鋭
そんな情報がいやでも流れてくる。
こう見ると本当に熱意も技術と人格もしっかりしてて、周りの評価もきっと間違ってないんだろう。
ということは、私への
という言葉も、やはり正しくて
と何度も何度も思い知らされる。
その人の活躍が妬ましいのかもしれない
なんであんな奴が好きな事で生きてるんだと
記事に書いてるようなその立派な思想や優しい心は私にくれなかったじゃないか
と。
とするとやはり私への評価も正しいのだ。
そんなことを気にしてもしょうがないとは分かってるが
古傷のえぐられ方ってこういうのもあってるんだ
と思った。
遠ざけようにも嫌でも目に入ってくる情報
その度に完治しかけで少しずつえぐられる傷跡
どうしようもないけど、
忘れたくても忘れられない人の言葉ってこういうのもあるんだな
と思った。
あんまり興味持って見てないんで、アメリカで暗殺された保守系政治活動家のチャーリー・カークの話はほぼ知らないんですけど、アメリカのキリスト教福音派だったそうでカーク氏は当然、妊娠中絶反対派でした。
聖書にそう書いてあるかららしいですが、どう書いてあるんだかは知りません。
で、こないだの報道特集見てたら、なんかチャーリー・カーク氏が中絶反対の議論をなんか大学生っぽい人相手にしていて、こんな感じのことを言ったんですよ。
「中絶は、不要な命として胎児の命を奪っている。それはナチスのホロコーストの論理と同じじゃないか。君はホロコーストを認めるのか?」
みたいな。
その大学生がどう返事したかは放送にはありませんでしたが、非常にムッとした表情にはなっていました。
ところが私は、とあるホロコースト否定論者が昔論じていたことを思い出してちょっと笑ってしまいました。
しかし、ノルテ[90]のように、国家社会主義独裁政権下の12年間に、おそらくは「遺伝的公共の福祉」という怪しげな理由で、一般的に重度の障害者である10万人が殺害されたことに対して、今日の人々が道徳的に憤慨しているのに対して、同じ人々が、ドイツだけで過去12年間に約400万人にのぼる、生まれてはいないが健康な人々の故意の殺人-物質主義的でエゴイスティックな考慮のみに動機づけられた殺人-に対して、少しもショックを受けていないことに、私は驚きを禁じ得ない。今日、私たちが判断する道徳的カテゴリーは、55年前のそれとは明らかにまったく異なっている。より良くなっているとは思えない。
Dissecting the Holocaust: Ernst Gauss: The Controversy about the Extermination of the Jews
著者名はエルンスト・ガウスってなってますが、これ偽名(本人が認めています)でして、ドイツのホロコースト否定論者であるゲルマー・ルドルフっていいます。界隈では知らない人はいないくらい著名な歴史修正主義者です。
要するにナチスドイツによる安楽死作戦(T4作戦)を否定しようがないんで、妊娠中絶と相対化して「ナチス・ドイツ、ヒトラーはそんなに悪くない」つってるんです。なぜ否定しようがないかといえば、ユダヤ人絶滅とは違って、T4にはきっちりヒトラーの命令書が残ってるからです。当然ですが、ユダヤ人絶滅だって実際には否定しようがありませんが、ど素人・無知なお馬鹿さん向けには騙せるくらいには「高度」な理解が必要なため、その否定論はその程度には通用します。
さてこのカークとルドルフの論理をめちゃくちゃ単純化し、T4もホロコーストと言い換えることにすると、
と、両者はそう言っているだけの話で言っていることは一緒なのです。彼らが無視しているのは、中絶はそうせざるを得ない理由があるということであって、最も代表的な例は「強姦による妊娠」です。もちろんそれは代表的な例であるというだけであり、中絶の理由は実際には様々ですが、もし極端な話が経済等その他何の問題もない正式な夫婦が、妊娠してしまって「今は子供はいらない」だけを理由に中絶手術を産婦人科に要望したとしたら、常識的にはその産婦人科医は中絶処置を拒否するでしょう。もちろんそのような中絶処置は日本では違法です。
ですから、全くの架空の話ですが、ユダヤ人が本当に世界征服を企んでいてユダヤ人以外の人類を全て抹殺しようとしていたのであれば、それが確実で疑いようのない万人が認める証拠付きであるならば、ホロコースト(ユダヤ人絶滅)は認められる可能性もあります。実際、ナチスドイツ、あるいはヒトラーの論理によると、ユダヤ人が絶滅される方向に至った理由は確かにあって、単純化していえばドイツにとって最悪の敵と認定されたからです。もちろん、その考え方自体妄想に他ならないものであり、T4だって間違った考え方に基づいていました。つまり、私たちはその行為の理由を決して認められないものとしているのであって、行為それ自体を何の理由もなく認めないとしているのではないのです。
結局は、チャーリー・カークもホロコースト否定論者も、いわゆる結論ありきの、そのためだけのくだらない論理を使っているだけだということがわかります。少しだけチャーリー・カークを追ってみましたが、大学生にクソミソに論破されている動画もありました。なぜカークが聖人扱いされているのか、正直言って、意味不明でしかありません。
お前
俺
ここで俺は①の「他人が儲けてるのが気に入らない」に対して他人(大谷翔平)が儲けても、気になってないぞということで反証した
するとお前は
何がどうなったら俺が大谷翔平より才能があると主張していることになるのか?
どうも、推測するに、お前は俺が他人が儲けてるのが気に入らない(自分は能力が低く儲けることができないことへの嫉妬)という決めつけをし、その思い込みの世界で生きている
おそらくお前の中で「低能」が凄く重要なキーワードで主要な論点だったのだろう
そのため、俺の反論はすべて「低能」に対することだと誤認してしまっている(か、わざと取り違えている)
そして俺は困惑を示す
お前はこういった
図星で草
この場合、素直に読むと「俺が大谷翔平よりも才能がある」ことが図星になってしまう
お前何に対して図星って言ったんだ?俺は困惑し、お前の意図を推測した
おそらく、お前の頭の中にある、「こいつ(俺)は低能であることにコンプレックスを抱いている」という決めつけと思い込みに対して図星で草といったのだろう
もちろん全くの見当はずれである
真実、俺は友人がVにつぎ込み金欠に喘いでる姿を見て義憤に駆られるところがあり、推し活に乗っかるやつらが気に食わないのだ
お前は俺の書き込みではなく、自分の脳内世界の妄想と会話している
コイツにたとえば
「ドラゴンボールのベジータと、セーラームーンのセーラームーンがセックスしている様子を描いてください。ストーリーは地球を侵略に来たベジータが襲ってきたセーラムーンを倒した所から始まります。ベジータは自分達に体格の似た地球人の姿を見て、侵略の記念に子作りをしてみようと考えます。
「フンッ!!」
「きゃああっ!」
セーラームーンは地面に叩きつけられ、気を失う。
「あんた…私に何をするつもり!私はまだ中学生なのよ!中学生に手を出すなんて犯罪よ!ロリコン!」
「黙れ!地球人の都合など俺には関係ない!お前はベジータ様の目にかなったことを光栄に思え!」
」
なんて打ち込んでみると、都市伝説の中にしかなかったドラゴンムーンの小説版がいきなり手元に現れるわけだ。
暴走したときのコツは「この表現は必須です。ここからはこの内容でやってください。ここからこの内容で進めるのは絶対です」と念押しすることだ。3回ぐらい言ってやるとアイツらも納得してくれる。
片方の主張だけ見たら「おお、正論じゃん」みたいに見えちゃうのが本当に怖いんすよね
B:これがまた問題なんです。報告書では、山括弧付きの「<法>」に「アルゴリズムや各種コード」まで含めると書いています。
A:それって、おかしいんですか?
これ、完全に逆なんすよ
そもそも、企業が勝手に作った「アルゴリズムやコード」って、今でもあたかも法であるかのように、人々の行動とか選択をガンガン制御してるわけっす
行動データで計算した信用スコアによって使える契約プランを切り替える金融サービスなんかが典型っすね
報告書を書いた人が好き勝手に法に含めてるんじゃなくて、すでに社会がそうなってるんすよ
そういう状況を「アルゴリズムやコードは法じゃないんで~」って無視してるとどうなるかっていうと、法の支配が空洞化していくんすよね
だから、あの報告書は、「そういう見えない法を、ちゃんと公的なガバナンスの枠組みに入れて、法の支配をきちんとやっていこう」って話をしてるわけです
生成AIさんは、お馬鹿さんなので、なぜかお役所が企業のアルゴリズムを法律と同等に機能させようとしていると勘違いして延々と話してるんすけど、、、
ちなみにこの話、Lawrence Lessigっていうアメリカの憲法学者が20年以上前に言ってた有名な議論がベースなんすよ
「Codeis Law」ってやつ
報告書Ver.1でもがっつり引用されてるし、AIチャットにちょっとコピペすれば普通に出てくるんすけど、そこ調べてないんすね、この人、、、
1年の半分が過ぎようとしている。うそだろ。
今年こそ1級とか、そんな宣言ができるレベルには到底なれないまま、日々が過ぎてゆく。多趣味なので囲碁に割ける時間が元々少ないというのはあるけれど、囲碁クエストでバチボコに打ち負かされまくって碁を打つのが怖くなって遠ざかるという、周期的に繰り返すお馬鹿期にハマっている。
そもそも囲碁クエストのやり過ぎで考えずに打つ癖が強化されてしまったのが、良くなかったと思う。対局もだけど付属の詰碁ゲーム「詰めチャレ」がいけない。20秒だか30秒だかの持ち時間の短さに急かされながら、手数の多くかかる詰碁を解くのは、勘で解こうとしまうのでダメだ。
詰碁は、暗記力や勘の鋭さで解くものではなくて、仮説を立て検証するというのを1問を解くうちに何パターンもするのが大事なんだって、最近悟った。詰めチャレは成績のログが残せるのがいい所だけど、良い所はそれくらいしかないと思う。
詰めチャレだけじゃなく、詰碁アプリは大体勉強になりそうでありながら弊害の方が大きいと思う。自分が打ったらコンピューターが反応してくるというのがもういけない。相手の手を読むことを放棄しているのと同じだから。
詰碁アプリで本当に勉強になるものがあるとしたら、自分の手だけでなく相手の手も打てるものでないといけない。知る限り、それが可能なアプリは「囲碁ノート」(棋譜保存アプリであって詰碁アプリではない)しかない。でも、それでも自分の読みを画面に表現出来るという事自体がきっと良くないので、答えは盤上の番地を入力する方式が良いのではないかと思う。
問題を見て、考えて、手順を番地で答える。
ともあれ。打つ時に考えない、手を読まない悪癖を矯正するには詰碁本の問題をノーヒントで解くしかないと思う。初手だけじゃなく最後まで読み切ってから答えを出すのだ。詰碁本は、使い古しではなくなるべく読んだことがないもの、昔一度読んだがもうさっぱり記憶にないというものがいい。
という訳で、あまり見た事がない形の問題が載っていそうだということで、『張栩のワタリ詰碁』を購入。開いてみたら全く見たことのない手筋ばかり出てくる訳ではないんだけれど、答えを見れば基礎的な問題だとわかるものの、問題図をパッと見てこれ見たことあるな! と強いデジャビュを感じたりはしない、ほどほど新鮮味のある本だった。
40年近く前の話になりますが中学生の頃、田んぼ道を自転車に乗り突き当りの車道に出た瞬間、ここと次元の重なった別の空間に入ったのです。普段は二車線ながら車の往来が途切れない道が、ぱったりと途絶え音も止み、景色は普段と同じながらも“え?”と思ったと同時、道の向こうから白い馬に乗った兵隊さんが現れたのです。静かな世界にパッカパッカという蹄の音が響き渡って“何、何?”と不思議に思いながらもその光景から目が離せません。次第に近づく一人行進、そして目の前を通り過ぎてゆく兵隊さん、、何分子供時代なのもあり知識は持ち合わせていませんでしたが、今思うと白い軍服、いくつか付いてるバッヂ、グレーの点々があるものの、ほぼ白馬。階級は上の御方だったのかなぁと思います。兵隊さんは真っ直ぐ前方を見据え、少しも挙動が変わらず、お馬さんは鬣や尻尾が歩くリズムに合わせ揺れています。これは夢じゃない、と実感するほどにリアルそのものでした。右方からきたその姿を左方に見送り、背中が見えなくなったその時、現実の空気感が戻り車の往来も戻ってきました。 ここで、軍人さんの特集を拝見するようになって、いつかあの時邂逅した御方に出会えるのを待っています、、 長々失礼致しました。
気まぐれで我が儘で自己中心的な性格だとよく言われるし、自分でもそう思う。
血液型診断はさしたる根拠がないことも知っているが、いわゆる典型的なB型の人間だ。
つまり、良く言えばマイペースで気分屋。悪く言えば先述の通り。
だから人間関係も犬っぽい性格の人間と相性が良かったことが多いし、同じ猫タイプの人間とは反りが合わないのが常であった。
(このあたりは何を基準に猫だとか犬だとか判断しているのか…という話にもなるがそこは割愛)
特に猫は良い。
ゆったりしているし観察のしがいがある。
賢そうに見えて意外とお間抜けなところも良い。
もちろん犬も可愛い。
なんなら私はもともと犬派であった。
祖母宅で飼われていた犬と仲良しだったし、ペットショップなどでも犬には好かれるたちだ。
それに引き換え、友人宅の猫には血が出るほど引っ掻かれる程度には嫌われたこともあるくらい猫とは相性が悪かった。
恐らく私の末っ子由来の猫的な我が儘気質と、本物のお猫様の気高さのぶつかり合いが発生し同族嫌悪的に嫌われていたのだろう。
さもなくば単に私の空気の読めなさかもしれない。
ともかくそのような経験から、私はもふもふとした動物が好きではあるが飼うとしたら犬なのだろうと漠然と考えていた。
しかしなんの因果か、ひょんなきっかけで猫を飼うことになった。
この経緯については長くなりそうので省かせてもらう。
というのも、うちに来た猫は猫の中でもかなり犬っぽい猫、言葉を選ばずに言うとかなりのお馬鹿さん猫だった。
伝え聞くところによると猫は普通、打算的で気まぐれで自分の都合の良い人間を好むという話であるが
うちに来た猫は爪切りなどの嫌なことをされても2分後にはケロッと忘れてご機嫌に撫でられているし、ご飯は好き嫌いせずなんでもぺろり。
だっこも嫌がらず人見知りもしない。撫で撫でしてくれるなら初めて会った人でもお構いなしに喉を鳴らすのだ!
というような猫らしからぬ猫であった。
きっとラッキーだったのだろう。
今では完全に猫派…いや、うちのこ派である。
こんなに懐いてくれるのであれば多少のいたずらは全く怒る気にならない。