
はてなキーワード:「ゲーム」とは
こんな感じかなーとClaudeで生成してみた
任天堂に依存して30代で何も残ってない男の後悔を私小説風で書いて。条件:-段落の頭は全角スペースでインデント- 短文を多用して、リズムを作る- 一行空けで段落を区切る-文学的な比喩を使う- 「■タイトル」形式で始める
三十四歳の誕生日に、私はコントローラーを握っていた。いつものように。当たり前のように。まるで手の一部であるかのように。
気がつけば十五年が経っていた。
ゼルダの伝説を何周したか覚えていない。スプラトゥーンのランクはカンストした。スマブラの全キャラクターを解放し、ポケモンの図鑑を埋め、どうぶつの森で四季を何度も巡った。経験値は確かに積まれた。しかし私の人生には何も積まれなかった。
画面の中の主人公は強くなった。私は何にもなれなかった。
友人たちは結婚していった。子供が生まれた。家を買った。転職した。起業した。夢を追いかけた。夢を諦めた。それでも前に進んでいた。私だけが同じ部屋で、同じ姿勢で、同じ画面を見つめていた。
母は何も言わなくなった。最初は心配していた。次に諦めた。今は透明な存在として私を扱う。
履歴書の空白は広がり続けた。職歴欄は砂漠のように白い。趣味欄には「ゲーム」と書いた。面接官は苦笑した。私も苦笑した。笑うしかなかった。
ゲームの中では英雄だった。王国を救った。世界を救った。何度も何度も救い続けた。でも現実の私は誰も救えない。自分すら救えない。
スイッチの起動音が鳴る。あの優しい和音。条件反射のように体が反応する。脳が喜ぶ。ドーパミンが放出される。また今日も同じループ。甘い毒のような日常。
通知が来る。新作の発表だ。心が躍る。発売日が待ち遠しい。予約する。カウントダウンする。発売日に徹夜でプレイする。クリアする。また次の新作を待つ。
この繰り返しが十五年。
三十四歳の私には何もない。貯金もない。キャリアもない。恋人もいない。友達もいない。あるのは膨大なプレイ時間の記録だけ。デジタルの墓標。
ハイラルの地図は完璧に頭に入っている。でも地元の地理すら覚束ない。ポケモンの種族値は暗記している。でも自分の健康診断の数値は見ていない。
画面の中の冒険は終わる。エンディングが流れる。感動する。泣くこともある。でもゲームを消すと何も残らない。心に残るのは虚無だけ。
鏡を見る。膨らんだ腹。猫背。生気のない目。これが三十四年生きた証だ。
任天堂は悪くない。ゲームは悪くない。悪いのは私だ。逃げ続けた私。選び続けた私。現実から目を背け、スイッチの電源を入れ続けた私。
でも人生にコンティニューはない。セーブデータから再開できない。取り返しはつかない。
全然違うんだけど本当にこういうやつ居そうで悲しくなったわ
リチャード・ドーキンスと、その信奉者たちに告ぐ。
君らが振りかざす「神は妄想だ」という主張が、それ自体、証明不可能な「信仰」に基づいた、見事なブーメランであることについて、以下に論理的に証明する。
まず、俺の主張の骨子を述べる。これは極めてシンプルだ。
【前提①】
いかなるルールも、それ自体をルールとして正当化することはできない。
(例:「物理法則がなぜこうなのか?」という問いの答えは、物理法則の中にはない。)
【前提②】
我々の世界には、安定したルール(物理法則)が、現に存在する。
【導出 →結論】
前提①②より、我々の世界のルールを「ルール」として成立させている、外部の「上位の世界」が、論理的に必ず存在する。
この結論に対して、科学教の信者たちが繰り出すであろう反論は、すべてこの論理構造の前では無力だ。
【反論1】「じゃあ、その『上位の世界』を創ったのは誰だよ?無限後退するだけだろ」
それは、我々の宇宙という「ゲーム」のローカルルールである『原因と結果』を、ゲームの外にいる『開発者』、つまり上位の世界に勝手に適用しているだけだ。上位の世界は、我々の常識に従う義務も理由もない。この時点で、君らの反論は終わっている。
【反論2】「観測できない存在を仮定するのは『神の隙間』論だ。科学的に無意味」
論破: まるで逆だ。俺の理論は、「なぜこの世界は安定していて、科学的な探求が可能なのか?」という、科学が存在するための土台そのものを論理的に保証している。存在の根拠を示すことが「無意味」であるはずがない。
そもそも、君らが持ち出す多宇宙論なども、観測不可能な「上位の世界(=マルチバース)」を仮定している。自分のことを棚に上げるのはやめたまえ。
【反論3】「そんな創造主がいるなら、なぜ世界はこんなに不完全で、苦しみに満ちているんだ?」
我々のちっぽけな道徳観や価値観(完全/不完全、善/悪)を、上位の世界の原理に当てはめるな。それは、ゲームのキャラクターが「なぜこんな理不尽なイベントが起きるんだ!」とゲーム開発者に文句を言っているのと同じで、全く見当違いだ。
言語と論理のルールにどこまでも誠実に向き合った結果、必然的にたどり着く「知的誠実さの帰結」だ。
ドーキンス氏とその信奉者たちは、「観測できるものしか存在しない」という、自らが証明不可能なドグマを信仰しているに過ぎない。
そろそろ、自分たちの立っているその地面が、実は何によって支えられているのか、考えてみてはどうだろうか。
リチャード・ドーキンスと、その信奉者たちに告ぐ。
君らが振りかざす「神は妄想だ」という主張が、それ自体、証明不可能な「信仰」に基づいた、見事なブーメランであることについて、以下に論理的に証明する。
まず、俺の主張の骨子を述べる。これは極めてシンプルだ。
【前提①】
いかなるルールも、それ自体をルールとして正当化することはできない。
(例:「物理法則がなぜこうなのか?」という問いの答えは、物理法則の中にはない。)
【前提②】
我々の世界には、安定したルール(物理法則)が、現に存在する。
【導出 →結論】
前提①②より、我々の世界のルールを「ルール」として成立させている、外部の**「上位の世界」が、論理的に必ず**存在する。
この結論に対して、科学教の信者たちが繰り出すであろう反論は、すべてこの論理構造の前では無力だ。
【反論1】「じゃあ、その『上位の世界』を創ったのは誰だよ?無限後退するだけだろ」
それは、我々の宇宙という「ゲーム」のローカルルールである『原因と結果』を、ゲームの外にいる『開発者』、つまり上位の世界に勝手に適用しているだけだ。上位の世界は、我々の常識に従う義務も理由もない。この時点で、君らの反論は終わっている。
【反論2】「観測できない存在を仮定するのは『神の隙間』論だ。科学的に無意味」
論破: まるで逆だ。俺の理論は、「なぜこの世界は安定していて、科学的な探求が可能なのか?」という、科学が存在するための土台そのものを論理的に保証している。存在の根拠を示すことが「無意味」であるはずがない。
そもそも、君らが持ち出す多宇宙論なども、観測不可能な「上位の世界(=マルチバース)」を仮定している。自分のことを棚に上げるのはやめたまえ。
【反論3】「そんな創造主がいるなら、なぜ世界はこんなに不完全で、苦しみに満ちているんだ?」
我々のちっぽけな道徳観や価値観(完全/不完全、善/悪)を、上位の世界の原理に当てはめるな。それは、ゲームのキャラクターが「なぜこんな理不尽なイベントが起きるんだ!」とゲーム開発者に文句を言っているのと同じで、全く見当違いだ。
言語と論理のルールにどこまでも誠実に向き合った結果、必然的にたどり着く「知的誠実さの帰結」だ。
ドーキンス氏とその信奉者たちは、「観測できるものしか存在しない」という、自らが証明不可能なドグマを信仰しているに過ぎない。
そろそろ、自分たちの立っているその地面が、実は何によって支えられているのか、考えてみてはどうだろうか。
つまりこういうことです。
僕らの頃はインターネットもなく、サブスクもなかったので、『エヴァ』からオタクになった若い世代は、『ガンダム』『イデオン』や、『王立』『トップ』といった文脈の中で作品を見る、ということが今よりずっと困難だった。—前島賢(大樹連司):文学フリマ新刊委託中 (@MAEZIMAS)June 14, 2025
マジレスすると、エヴァ放送当時、たとえばテレビのガンダムシリーズはまだビデオ化されていませんので、レンタルビデオ店があっても見れません。https://t.co/59heghKrGn—前島賢(大樹連司):文学フリマ新刊委託中 (@MAEZIMAS)June 14, 2025
こういうことって、若い世代に受け継がれないし当時を生きた人間でも「どうだったっけ?」となったり偽の記憶に上書きされたりするよな〜。仮面ライダーシリーズみたいな超メジャー作品でも、ある時期までレンタル店に置いてあるVHS、名エピソードの抜粋だったので全話視聴はかなり難しかった、とか。https://t.co/uc7OcrMISQ— 四海鏡a.k.a. ホンナタカヒロ (@shikaikilyou)June 14, 2025
Xで話題になってたこの話題(これ自体はシロクマ先生のデータベース消費論がツッコミを食らってることから派生した話題だったんだけど、そこは関係ないから省く)、これマジでそうなんだよ。
いまでこそSNSを開くと毎日毎日毎日毎日毎日毎日ガンダムの話をしている人たちがいるが、ある時期までは1stガンダムって「昔のアニメ」だったんだ。これは現在では忘れられがちな視点だ。要は仮面ライダーにおける初代と同じような扱い。前島賢は1982年生まれらしいけれど、増田は1983年生まれなので、だいたい同年代だ。幼少期はSDガンダムが最盛期であり、増田もまたSDから入ってリアルガンダムを見るようになり、さらに遅れて90年代終盤にようやく1stガンダムをちゃんと見た。
その流れがどこで変わったか(1stガンダムが“蘇った”か)というのはいくつかあって、やはり「ガンプラ」と「ゲーム」が大きかったと思う。あと他にも「エヴァブーム」(正確にはエヴァブームのあとのメディアにおける1stガンダムの扱い)、「ガンダム20周年」、「ガンダムエース」、「ネット世論」とかもあるんだけど。
ガンプラは現在でこそ1/144でも1/100でもRX-78がいくつもリリースされて、「もういいよ!他の機体出してよ!」と言いたくなるくらいだが、90年代はそうではなかった。90年前後はリアルガンダムの売上はSDガンダムの半分以下だった(https://torja.ca/entame-zanmai1711/ )。ガンプラの新作ラインナップは現行の新作シリーズとSDガンダムで占められており、昔のアニメである1stガンダムの機体が商品化されるのは異例だった。HG(いわゆる旧HG。カトキハジメがイラスト描いてるやつ)でRX-78などがリリースされたことはあったが、再評価の起爆剤となったのは1995年発売のMGだ。今の技術で真剣にガンプラを作ったらどうなるかというコンセプトで制作されたMGは、高価格帯(今から考えると安い)ではあったものの、ガンプラブーム世代を再びガンプラに引き寄せて商業的成功をおさめた。1999年には1/144のHGUCシリーズも始まった。ちょうど2000年前後の数年間は現行作品キットのリリースが数的にも落ち着いていた時期であり、代わりに頻繁にリリースされるMGとHGUCの新作キットがガンプラの主力となっていた。昔の作品と近年の作品と現行の作品のキットが同じカタログに並ぶようになった。ガンプラのGジェネ化というかMS大全集化というか、そのように呼べるような傾向が進んだ。
そして、ゲーム。これが大きい。米津玄師もガンダムに触れたのはGジェネFからだと語っていたが、90年代においてコンシューマーゲームの存在感は無視できるものではない。
やはりゲームにおいても90年代前半にリリースされていたガンダムゲームの多くはSDガンダムと現行シリーズだった。しかし32ビットゲーム機の登場から流れが変わる。ボイスやアニメが再生できるプレイステーションやセガサターンでは、過去作を扱ったタイトルが頻繁にリリースされるようになっていく。昔のアニメは見たことがないけれどゲームを通して過去作を履修する世代が生まれる。三国志のゲームで武将を覚えたり、ウイイレで欧州のサッカー選手を覚えるのと同じだ。アニメは見たことがないのに何度も何度もドズルの名台詞を聞き、リアルタイム世代でもロクに名前を覚えていないようなフライマンタやTINコッドを覚える。
増田はプレイステーション発売直前のプロモーションビデオで、開発中の「機動戦士ガンダム」の映像を見て、「えっ、初代ガンダムのゲーム出るの!しかもポリゴン!まるで本物!」といたく感動した記憶があるのだが、今見ると (https://youtu.be/Ajsls4wsaOI?si=t74InA4f8-UfdSYb&t=907 )なんとも言えない映像だな、、、
あとガンダム20周年ね。それに合わせて関連商品、関連ムックが数多く企画された。絶版状態だった「ガンダムセンチュリー」も復刻された。この時期になると1stはすっかり“蘇った”と言えるんじゃないかな。そのあとは新作グッズに最新作(SEEDなど)と1stが同格で選ばれることも珍しくなくなる。
ところで件のポストには「再放送があった」という意見がいくつか寄せられているけど、少なくとも90年代の関西では1994年ごろにMBS深夜にやっていたのしか記憶にないよ。1stTV版が再放送されまくっていてそれを浴びれたのって団塊ジュニアじゃないかな。
Permalink |記事への反応(17) | 00:24
小説でも漫画でも、シナリオは向こうからやってくるものであり、読者である自分は受け身で居られる。
しかし、シナリオ系ゲームは、その選択肢を選ばなくてはいけない。
ともすれば、その選択肢を選択可能とする(=フラグを立てる)ために、その他のミニゲームをクリアしないといけない。
そういうのはいいんだよ、と思う。
シナリオ系ゲームは、それらの能動性を求められる感じが個人的には余計な要素で、シナリオ的に興味を持つものが多いのだが、なかなか手を出す気にならない。
個人的には、ゲームの中のシナリオだけを楽しみたいだけであって、それを自分の手(=選択肢)で実現する達成感を得たいと思っていないし、テレビゲーム的な要素にもそもそも興味が無い。
幸いにして、そういうゲームのいくつかは、ノベライズなりアニメ化なりをして、(私にとっては不要な)読者による能動性が排除された物語として手に入ることもあるが、それでも、そうなるまで待つのがもどかしい。
「シナリオ」と「ゲーム」が乖離して、最初っからシナリオの方が純粋な物語として展開されたらいいと思う。
というか、シナリオとゲームの複合は、シナリオを好む層、ゲームを好む層にとって、好ましいものなのだろうか。
シナリオ層には変わった要素として、ゲーム層にはそのゲームをする意味として、好まれていたりするのだろうか。
まあとにかく、能動的に行動しないと好ましい結果が得られないという体験は、人生(特に仕事)だけで十分なんだよ。
だから物語くらいは、口をあけているだけで垂れ流されるような存在でちょうどいい。
FGOをほめてくれてうれしいけど、あれは本当におかしい才能のおかしな「小説」だから。
きのこの書いたメインストーリー500万字だし、歴史に詳しくなれて因縁話をたのしめるし。
イベのたびに、三田さんとか虚淵とか鋼屋ジンとかアムフィビアン?(この人のことはよくわかってないけどイベはおもしろかった)とか、まぁそうそうたる面々に書いて貰ってるし。
残虐行為をした歴史人物を可愛くもいつか手を噛まれそうにちゃんと書いてある
それを社長が絵にするわけよ
それを絵と声とドット絵みたいな戦闘シーンのおまけつきでいつでも読み直せるわけよ
ほぼ無料でな
ひるがえって中国は、いやそのほかは全部「ゲーム」だからこそおいしくねえのよ
ゲーム自体若い者をたぶらかす悪者だとおもってるからチョイワルオヤジがなかなか出せない
小説500万字って薄目のラノベ文庫本でいうと50巻以上いくのね
それなら置く場所もないし電書で買いたいとおもってたらゲームで無料配信してくれるんだからもういうことないの
そもそもの話として、ソシャゲって「物語として高いレベルのクオリティを目指す意味」なんてものあるの?
自分はゲーマーなんだけど、ソシャゲが「ゲーム」であると思ったことが過去に一度もない。優れた暇つぶしではあると思うけれど、その暇つぶしがゲームである必要、ある?ないっしょ。ラノベである意味もアニメである意味も小説である意味も、おそらくない。ソシャゲって劣化ラノベと劣化マンガと劣化ゲーム?の間の子で脳死で時間潰せれば良いもので、実際需要としてもそう言う需要に合致して消費されてるんじゃないのかな。ユーザーの多くはそこまで本気の何かを求めてないよ。
マンガでも小説でもゲームでもアニメでもなんでもそうだけど、本気で気合の入った、そのメディアの粋みたいな作品って需要にも咀嚼にもそれなりに負荷とかカロリーかかるものだよ。ソシャゲが本気でそう言うクオリティのナニカをめざしたら、仕事帰りの気力マイナスで電車の中でポチポチとか、できなくなっちゃう。
ソシャゲのシナリオの価値って、ユーザーの暇つぶしを妨げない、「クオリティの低さに苛つかない」くらいがちょうどいいと思う。んでもって昨今言うところの「シナリオが良い」ってのは、言葉通りの「良い」ではなくて、やっと「クオリティ低すぎて苛つく」「ユーザー舐めてるような取ってつけ素人仕事」じゃなくなった、足を引っ張らなくなった、ってだけの話だと思うよ。
なぜ映画や漫画の品定め、評価は自由なのにお笑い談義はアンタッチャブルなのとお嘆きの諸兄に。
1 ミルクボーイ
システム漫才の完成形と言ってしまえばそれまでだが、「誰かやっても面白くなるネタ」と「彼らだから面白い」を両立させたミラクル。共に不遇の大阪時代を過ごしたDr.ハインリッヒも決勝出場で舞台が大きく転回したかもしれない。
M-1大会2冠に最も近づいた、最も相応しいコンビ。審査員評で「もう一展開が」とはよく聞くフレーズだが、ワンアイデアからの怒濤(嵐と衝動)の展開は「華麗」と称すべき手際。
3 チュートリアル
至高のキャラ漫才。第一ステージで披露した「冷蔵庫」をM-1史上最も面白い漫才と評価する人も少なくない。「キラーフレーズ」という概念、評価軸が確立された。
ランク下、ランク外とされていたコント漫才の地位を高めた。準決勝止まりだった理由はこのネタを漫才で見る意味はあるのかといった疑問も生じたのであろう。
どちらも面白い。これがなかなか難しい。ツッコミ役の技量は勿論、アシストに極振りせぬことで構成、流れが崩壊するリスクがあるからだ。フット後藤以上にツッコミの評価を上げ、いまのツッコミ全盛に寄与した(ボケ不遇期とも言えよう)。やすきよが途中でボケツッコミが入れ替わるのはどうしてもボケが評価される、人気が出る状況に嫉妬したやすしへの配慮だと西川が語った昭和の漫才。仮面ノリダーの怪人シーンがやけに長尺だったのは貴明に対するスタッフの要らぬ配慮だったのかもね。
6 霜降り明星
心理トリックの一つにカレーとラーメンどちらが好きかとマジシャンが問う導入部がある。詳細は省くが日本人の大半がラーメンと答えるであろうことを踏まえたトリックだ。「ゲーム」「ドラマ」「漫画」のうち審査員の過半数が「漫画」と回答した。漫才師からパフォーマーへ。
7 錦鯉
非吉本、非大阪勢の評価を決定付けた。第一回大会の悪夢がようやく晴れて、大阪吉本にとっても変な憶測から逃れられ正当に評価される下地となったはず。また年齢に関して縛りや遠慮かなくなり、辞めるべき芸人を篩にかけるという大会趣旨(呪縛)からも脱した。個人的には大会を通じて三指に入る傑作ネタ。
8 中川家
トップバッターの重圧か大会では不調だったが(剛は出順が決まり一言こりゃあかんなと)、いわゆる「本格派漫才」が、二人のおっさんのしゃべくり、「ちょちょまい」がテレビに於いても、若い人にも評価されることを知らしめた(本格派の定義については面倒なので割愛)。
9 笑い飯
民族博物館を21世紀で最も面白い漫才とまで持ち上げたのは朝日新聞だったか。個人的には鳥人のほうが楽しめたし、何より西田の人形擬態の評価が突出してしまって、十人十色のネタのここが好きといった(和牛の旅館ネタならこんなとこ入ってきたらあきませんの川西の仕草とか)観客席での展開が寂しい。初登場時の粗削りが持つしたたかさがいちばん衝撃的だったコンビ。笑い飯の登場でNSCのネタ見せがダブルボケのオンパレードだったと聞いたが、一過性のもので当然すべて消えた。そもそもダブルボケはバツありボケ志望同士コンビの生硬の苦肉の策だったはず。悲願の優勝後の初仕事が準優勝スリムクラブの密着レポーターという屈辱の影響は、準優勝コンビが売れるとのジンクスから決勝進出での、さらに準決、二次予選でもパフォーマンス次第で世に出る確かな現状を示唆したともいえよう。
松本島田不在で栄光を掴んだアンタッチャブルは例年の悲壮感にまとわれることなく、そのお気楽な芸風も相まって良い方に転んだ。しかし今回は事情が違う。M-1は松本あってこその信頼度、納得感が第一の成功要因。M-1グランプリ存続は既定路線だろうが、終わりの始まりか一大コンテンツ新生かを占う。
オードリー、和牛、カミナリ、ハリセンボン、ザ・パンチが優勝、或いは好成績を残していたら、お笑い界の構図はどうなっていたのだろうと折々に思う(ウエストランドは翌々年にその未来を見せてくれた)。
新しい趣味を始めたくて「自宅でひとりで練習できる対戦系」という条件でリサーチしてるんだけど
数ある趣味の中でも「文化系で対戦」という領域の候補が一番少ないよね。
スポーツみたいに他人と対戦ができて自宅で練習できるものがいいんだけど
将棋、囲碁、チェス、麻雀しか思い浮かばなかった。いまならカードゲームがあるのかな。
スポーツはランニングをしてるから対戦競技かつ運動以外がいいんだよな。
競プロも良さそうだけど1対1の対戦ではなさそうだし仕事もプログラミングだからな・・・
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追記2
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ごめん、「ゲーム」はスマホゲームとかプレステとかスイッチみたいな意味のゲームね。
さすがに「将棋も麻雀もゲームなんで」と言われるとは思わなかった。おとなしくチェスでもやっとくわ。
追記3
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ブコメ読んで。オセロとかマンカラ、バックギャモン、ドミノいいね。インドのビリヤードみたいなやつはYouTubeで見たことある。
すっかり忘れてたんだけど「アソビ大全51」持ってたわ。ポーカーとブラックジャックも楽しいかもな。
将棋、囲碁、チェス、麻雀以外にも沢山ありそうな気がしてきた。
Permalink |記事への反応(33) | 22:36
読み返すとめちゃくちゃ偉そう。
そんな駄文です。
ファンフェスあたりで見切りをつけはじめたんですが、今回の中国のファンフェスを見てさっぱり見切りをつけました。
資本がどうとかの前に、プレイヤーが何を求めてファンフェスにきているのかわかっているなあと。
日本ファンフェスを擁護している意見に、「施設の問題」「消防法の問題」など並べている方がいまいしたが、ただたんのアイデア不足と「開発チーム」だしとけば良いだろ的な。
あとはもうその他トークは運営の自己満足の域でしかなく、これ2万とか払ってくるイベントか?って。
いや、開発陣が生で見たい!って人は良かったかもしれないですが、ffxivを遊んでいて開発陣の人重視じゃない人間にとっては、なんとも安っぽいトークショーだな。て感じでした。(配信だけでよかったかもってちょっと思ってしまった。)
ファンフェスの前月にコミコンとか行ったせいもあるかも。コミコンは規模が違うので比較にはなりませんが。
中国のファンフェスと同時に某ソシャゲのファンフェスも日本で行われてましたが…
パネルや映像化など「ゲーム」としての要素が多く、なるほどコレは行きたいな!となっていました。
立体物が使用不可にせよ、三国の風景パネルにしてグリダニアエリアとか作れば良かったのにね。
なんなら、アイデア募集!とか一般からアイデア募ったらよかったのに。
いま、たぶん、会社として開発チームをアイドル化しすぎていると思うんですよね。
ただ、ffxivはファンよりプレイヤーを大事にして欲しいなあと思いました。
あとグッズ展開がヘタと言うか…
万単位のグッズ等が売れるので、とりあえず出しときゃ売れるみたいな感じでしょうか。
グラフィックアップデートについては、自分のキャラに関しては文句はないんですが、今後新規顧客を掴んで行くのに向いている顔つきかちょっと疑問です。
昨今のナンバリングのリメイク時のリアル寄りの顔つきが、そこまで好評じゃない気がしているのにそっちいってしまったか。と…
いやでもミドラン男性の間延びしちゃった顔がどうにも耐えられなくて、メインストーリー中にわりと気になりすぎてセリフ入って来なかったや。
今後はプロモーションを中国・欧州に絞っていくんだとおもうんですが…そっち向けにこの顔にしたの?いやでもどうなの?好かれる?
ってなってる。(○神とかデフォルメ顔だしなあ)
そろそろグラフィックアップデートの報告がきますが、十中八九開発陣の泣き落とし報告書でしょうね。
色んなもやもやを抱えながら昔ならこんなこと思わなかったのになあ。って思って、ハッとしました。
最初に語ったようにまさに「夢からさめた」ような感覚を覚えたんですよね。
それからはグッズ見ても欲しいともおもわず、ゲームはなんとなく続けてはいるもののこれと言って、熱中する事もなく。
ストーリーは好きな感じだったんですが、もしかしたらこのちょっと冷めた感じになった自分にはちょうどよかったのかもしれないです。
あとはもう続けるのは「ここまでやってきてもったい無い」精神だけかもしれない。ハウスとか。
もうあそこに夢見る場所はないんだな。
特定のキャラを狙おうとするときも、物量に頼るんではなく、排出周期(天井カウント)を見ていれば天井引き継ぎによって計画的にキャラ取得できる「ゲーム」へとガチャ要素が昇華してる感じなんだよ
「ガチャに天井があって、そのカウントが引継ぎできるから石は配布等されるものを計画的に管理すればなんとかなる」みたいな話ならば、この表現はいささか称揚が過ぎる気もする。
中華ゲーのガチャはガチャというより別の概念のシステムなんだよな
国産ガチャが石を溜め込んで(または課金して)物量で運を乗り越えるギャンブル的キャラ配布システムだとすると
中華ガチャは一連分貯まるごとに回してようと貯めて一気に回そうと得られる限定キャラ数や獲得周期は変わらない
なんなら特定の強キャラを何体も重ねるよりも満遍なく確保していったほうがゲーム性を楽しみやすいからユーザーのガチャへのスタンスが真逆になる
特定のキャラを狙おうとするときも、物量に頼るんではなく、排出周期(天井カウント)を見ていれば天井引き継ぎによって計画的にキャラ取得できる「ゲーム」へとガチャ要素が昇華してる感じなんだよ
国産ガチャは「ガチャはガチャでしかないギャンブルもどきだよ」と割り切って公然とevilをやってる感じで、その射幸性ゆえに「ガチャを回すこと」が主目的になりやすい
中華ゲーは「ガチャはゲームの追加要素にすぎんから本編をちゃんと遊ばないと回せないよ、その分中身凝って作ってるからね」という意思を感じる
実際にガチャを一切まわさずに配布キャラだけでも攻略可能なように作ってあることを節々に感じる
その分、育成要素がキツくて時間をかけるか石割って育成リソースを集めるかバトルパス等を頼るかって感じになっている
でもそういう月額的な課金を継続してくれるファンを増やす作りの方が、ギャンブル性を煽って理性を失った0.何%の廃課金者をカモにするソシャゲビジネスよりも未来があると思う
ガチャが主目的になっちゃう古いソシャゲ的な作りだと、ログインだけでもらえるようなインスタントな石バラマキをしたり、毎日10連無料みたいなことをして呼び込まなきゃいけなくなるが
まあ中華ゲーも広告上は日本の頭の古いソシャゲユーザーに訴求するために配布アピールの広告を出してたりはするけども、実際は日本ユーザーが想像するような直接的な配布はなくって、ゲームをやり込んで石回収すると○連分になる、的なオチだったりする
でもそのほうが逆に良いと思うんだよ
インスタントなバラマキが恒常化するってことは、過去に課金して得たキャラの価値がすごい勢いで毀損されていく(インフレ前提)ってことだから
中華ゲーは全体的にコツコツプレイが最重要な積み重ねゲーになってて、国産みたいにぽっと出の新規ユーザーが人権キャラを無料ガチャで○凸できちゃったらモテモテみたいなことはあり得ない
後者は一見いいことのように思えるけど、既存ユーザーを蔑ろにしてることの裏返しとも言える
ビジネスだけを考えるならスマホゲーはいかに新規を取り込むか、いかに新規を優遇するか、という部分が重要なのは分かるんだけど
それが行き過ぎてゲーマーとしての心を失っているかのようなものが量産されてきたから「ガチャゲー」「ゲー無」「ソシャゲはダメ」みたいな刷り込みにつながっていく
モバゲーグリー時代からシナリオだけは評価できる作品等はあったにせよ、ゲームとしてどうなのって意味ではPay2Winの札束ゲーかつ廃課金のカモが無課金乞食を蹴散らすくだらん構造のものとして侮蔑は免れなかった
でも今のモバイルゲームで存在感を示してるタイトルってのはちゃんと時代の変遷とともに悪い部分を脱却して進歩しているものも出てるんだよ
まあ日本のマーケットでは未だにちょっと古い時代古い作りの「ソシャゲ」がセールス上位に来てることもあるから「変わらんなあ」と思ってしまう人が多いのは分かるんだけど
一番進歩的な二次元、アニメ調、このへんの作品の在り方を正しく評価できる人がいないってことならまさに老害化しているとしか言えんよな
ーーー追記ーーー
これでも中華ガチャの何が優れてるか分からんって人のために一目で設計思想の違いが分かるグラフを紹介しとく
https://starrailstation.com/jp/warp#global 統計サイトだが、ここの中段にある「引く回数別の星5跳躍」に注目
低い基礎確率と確率変動によって獲得周期がコントロールされることでギャンブル性を抑えてるわけだな
ただ中華アニメ調ゲームの本当の良さは中身が作り込まれてること
モバイルというハードウェア制約があってもなおコンシューマを超えるようなゲーム体験がある
さらに運営型であることを最大限に生かしてて更新のたびに、動画公開のたびに、想像以上の感動をくれる
漫画連載やドラマをリアルタイムで追っているときしか味わえない類の感動があるだろう?
そういう要素が運営型オンラインゲームにあることを思い出させてくれたのが中華ゲー
なぜ古いソシャゲにそれがなかったのかというと、ないことはなかったんだが
古いソシャゲは揃いも揃って「イベントを走らせる」。つまり毎日特定の作業に長時間拘束される
そこで消耗してしまい、ゲームが与えてくれる芸術的余韻に浸ってる間もなく性能や効率に向き合わされる
これが(青少年保護に手厚い)中華ゲーにはなくて、イベントで反復的な張り付き周回を求められない
まあスタミナ消化部分は反復になるが、スタミナという上限があるしすぐに終わるようになってて、古いソシャゲほど頻繁なログインが求められない
DAUを上げるために古いソシャゲが執心してた小細工部分を、膨大な開発力によりゲーム本体への魅力を感じてもらうことで持続力に代えて、一定の成功をしてる
恋愛工学の考え方って、いろいろ問題があるんだよ。まず、一番大きな問題は、人間関係を数値やテクニックだけで捉えてしまうことなんだ。恋愛っていうのは、本来もっと感情や相手を大切にする心が必要なんだよ。だけど、恋愛工学は「この方法を使えば必ず成功する」みたいなことを言って、相手を道具のように扱ってしまうんだ。これは、相手の気持ちを尊重しないってことだよね。
それに、恋愛工学はよく「ゲーム」や「戦略」っていう言葉を使うんだけど、恋愛をゲームみたいに考えると、本当に大切なことを見失ってしまうんだ。愛情や信頼を築くのが難しくなってしまうんだよ。そうすると、どんなに「成功」しても、心からの幸せは得られないんだ。
さらに、恋愛工学はしばしば一方的な視点からのアドバイスが多いんだ。つまり、男性が女性をどう攻略するかっていう視点が強くて、平等な関係を築くっていう考え方が欠けているんだ。これも大きな問題だよね。
だから、恋愛工学的な考え方に頼るよりも、お互いを尊重し合う気持ちを持って、真心で向き合うことが大事なんだよ。そうすれば、本当に素敵な関係を築けるんだ。分かったかな?