
名前を隠して楽しく日記。
テイカーの分まで働いてるから真っ当に働いてる人の仕事量がとんでもないことになるんだよね
高齢者の社会保障カット・障碍者の基準を厳しく引き上げ・産休育休の撤廃・女性優遇の排除などなど
制度にかじりついて公金チューチューしてる寄生虫どもを一掃しないと、俺たち真っ当な労働者の環境はよくならないよ
ついつい手癖で「会社 VS労働者」という構図にしてしまうのは理解できるけど
今はそういう時代じゃない
「真っ当な労働者 VS社会制度に寄生するクズ」が正しい構図なんだよ
会社は敵じゃないの
この2月15日で、「保育園落ちた日本死ね!!!」から10年なのだそうです。あの言葉から感じられたかもしれない強さとキャッチーさは、当時を経験した人にとっても、そうでない人にとっても、今もどこか引っかかりを残したものになっているかもしれません。今も同種の問題は解消されきってはいませんが、あの生活の叫びがなければ、今の親たちの働く権利はもっとあやうく、今よりもずっと奪われて遠ざけられたもののままだったかもしれないです。さて、私には、私たちの暮らしにおいて、あの時期くらいからネットとリアルの声の境界は溶けたのだったかもしれないと思えています。そして今では、どのメディアにもSNS由来の言葉を見ることができるようになりました。そのことで、一方では、社会を変えたり整えたりするための新たな回路が開かれました。その一方では、同時期にはすでに、「Naverまとめ」や「WELQ」で課題視された情報の汚染という問題がありました。この問題は、2026年の現在になってもあらわれる形を変えながらずっと続いていて、構造的な情報の歪みは私たちの日常に埋め込まれています。スマートフォンを通して加工された情報や状況があなたに届き、あなたから出ていくという今の情報環境においては、私たちはやはり、すべてを受け取ることはできず、すべてを知ることはできません。だからといって、それに自分なりの文脈を見出せないままで、それらを無関係なノイズだと切り離したつもりになったり、誰かの切実な声を迷惑だと断じることは危険なことです。そのようにすれば、あなた自身が、あなたの居場所を維持することを放棄することになったり、あなた自身が誰かにとっての無報酬の攻撃者に仕立て上げられているかもしれないということでもあります。しばしばいわれるように、社会運動と暮らしとは常に地続きです。生活と政治とが無関係なはずもないです。あなたのもとに何かが届いたり、あなたが何かの担い手になるということ自体が、とても社会的な営みのなかにあることだからです。そしてそれは、あなたの生活の営みそのものであるはずです。だから、他の人の声と自分の存在とに線を引いたつもりになることは、自分を攻撃することにも似てしまいます。そのような現在の問題として、「日本死ね」の言葉の攻撃性にとらわれて顔をそむけてしまうことが、自分自身を攻撃させた状況を許したままにすることになるというパラドックスが、私たちが集まれるある種の場所として、記念碑的に伝えられるべきだと感じます。10年経った今また、その手触りを再確認するために、これを書きます。
(※SNSの自分のアカウントに投稿するために書いたものだけれども、ある種の礼儀の示しかたかなと思って、少し文字の使い方とかを整えた上で、増田にも置くね。ソフトめのアジテイション文です。)
あれは上司にいきなり絞殺されても構いません、という服従の証だそうです…😟現代社会の闇ですね…
自分以外の他人が払え、という病気のくせにえらそうなツラすんなって
職人のちんぎん上昇もまぁ大きな要因なんだけど
自分が支払うのがいやなら
人にたくさん払うべき
なあ肉体ってあるか?
いやあるんだけど、ないという前提で生きててよくないか?
殊更意識することじゃなくないか?もはや肉体のあるなし、精神のあるなしを気にするやつはいない。
お前にも俺にも、太陽の居住権と月の土地の権利がある。でもそんなの話題に出すか?出さないよ。距離が遠い。
翻って肉体は、ゼロ距離だ。でも自分の目から見えないよな。赤子は手の存在に驚くし、前髪は放っておいたら視界の邪魔をしてきて意味不明すぎるが、基本気にしないよ。
だよな