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2025-12-15

社会人になってからガチでハマったことってある?

僕は、ロードバイクにハマった。

あれはホントガチだった。命かけてた。死ぬほど走って、本当に死ぬかと思うほどの激坂心臓死ぬのでは?と言い出しかねないほど激しく動かしたりした。

あれは本当の本気だった。大人の本気って怖いな、と思ったりした。

30歳のときロードバイクを買った。

特に深い理由があったわけではない。世の中の多くのことと同じように、このロードバイクも、僕が何か重要決断をしたというより、むしろ、そういう瞬間が自然とやってきたというだけだ。

妻は、最初、その購入に反対しなかった。ただし、あからさまに賛成もしなかった。その曖昧さが、実は妻の最大の抵抗だったのだと、今になってわかる。

運動するのは、いいと思うよ」と妻は言った。

その言葉には、何か別の意味が含まれていた。それは、「あなたは、何かしなければならない」という、一種同意と、同時に「でも、それが本当に大事なのか」という疑問も含まれていた気がする。

ロードバイク世界は、僕にとって、全く新しい世界だった。

自転車屋に入ると、店員が何かしら説明をしてくれた。フレームとは何か。ホイールとは何か。ギアとは何か。

最初は、僕はそれを、ただ聞いていた。聞いているだけで、理解していなかった。理解しようとも思わなかった。

だが、何度か通ううちに、その説明が、実は複雑な体系を持つ一つの言語だということに気づいた。

それは、まるで、異なる次元言語のようだった。この次元では、「速さ」とか「軽さ」とか「登坂性能」といった言葉が、非常に重要意味を持っていた。そして、それらの言葉を組み合わせることで、ある種の世界観が形成されていた。

僕は、その世界観に、徐々に引き込まれていった。

最初に乗ったロードバイクは、50万円だった。

給料の一月分。妻に報告したとき彼女沈黙は、今でも覚えている。

沈黙というのは、言葉よりも饒舌だ。

妻の沈黙は、「あなたは何をしているのか」という問いかけを含んでいた。あるいは、「あなたは、本当にそれが必要だと思うのか」という問いかけかもしれなかった。

だが、僕は、その問いかけに対して、答えを持っていなかった。だから、答えないことにした。

答えない。ただ、その質問を受け流す。それが、大人作法だと、その時点では思っていた。

ロードバイクに乗り始めると、世界が変わった。

いや、世界が変わったのではなく、むしろ世界の見え方が変わったというべきかもしれない。

河川敷を走る。時速20km。のんびりとしたペースだ。

だが、その中で、僕は何かを感じていた。それは、何か別の時間を感じることだった。

会社での時間は、常に「何かのための準備」である明日のための準備。来月のための準備。老後のための準備。

だが、ロードバイクに乗っているとき時間は「今」だけだった。

今、この瞬間の心臓の鼓動。今、この瞬間の脚の痛み。今、この瞬間の息切れ

その「今」だけが存在していた。

やがて、僕は「より速く」「より遠く」を求め始めた。

それは、自然な流れだったのだと思う。いや、むしろ必然的な流れだったのかもしれない。

人間は、ある一つのことに没頭すると、必ず「次のレベル」を求める。それは、欲望ではなく、本能だ。

トラバというアプリダウンロードした。走行データを記録するアプリだ。

そこに記録される、セグメント(特定区間)ごとのランキング県内で何位か。全国で何位か。

そのランキングが、僕に対して、常に「もっと速く走れ」と語りかけてくるようになった。

それは、静かな圧力だった。言葉ではない。ただ、数字による圧力

妻は、気づいていたのだと思う。

「また走ってるの?」

その一言が、段々と、痛ましい質問に変わっていった。

「帰り、遅い」

「また、バイクのパーツ買ってる」

子どもが、お父さんと遊びに行きたいって」

言葉たちが、積み重なっていった。

だが、僕は、それらに答えることができなかった。答えたくもなかった。

なぜなら、答えることで、自分が今していることの矛盾に直面しなければならなかったからだ。

走行会に参加するようになった。

地元ロードバイク好きたちが集まり、一緒に走る。

最初は、初級コース。だが、数ヶ月後には、上級コースに参加していた。

心臓が、飛び出しそうなペースで、激坂を登る。

脚が、もう限界だと叫んでいるのに、その先の何かが、「もっと頑張れ」と言い続ける。

それは、自分自身の声なのか、それとも、誰かの声なのか、もう分からなくなっていた。

その走行会で、出会った人がいた。

40代の男。その人も、僕と同じように、何かに取り憑かれている顔をしていた。

走り終わった後、その人が言った。

ロードバイクって、死と隣り合わせだよね」

僕は、何も返さなかった。

「走ってるとき、何か起こるかもしれない。心臓が止まるかもしれない。車が来るかもしれない。足が攣れるかもしれない。でも、その危険の近くにいることが、実は、生きている実感を与えてくれるんだ」

その人は、远い目をしながら、そう言った。

その瞬間、僕は思った。

「あ、この人は、僕と同じ世界にいる」

ある日、倒れた。

激坂を登っているとき

心臓の音が、規則正しくない。バクバクという音。

一瞬、「ああ、これで終わりかもしれない」と思った。

その瞬間は、不思議なことに、恐ろしくなかった。むしろ、何か自然に思えた。

肩に座った。心臓の音は、ゆっくり戻ってきた。

空は青かった。雲が、ゆっくり動いていた。

その風景を見ながら、僕は思った。

「あ、俺、本当にやばかったんだ」

妻が言った。「このバイク、売ってよ」

その一言は、他の言葉と違っていた。感情的ではなく、淡々としていた。

その淡々とした語調の中に、妻の疲労が満ちていた。

僕は、その瞬間、自分が何をしていたのかに気づいた。

自分は、世界と妻と子どもから、逃げていたのだ。

ロードバイクという、別の次元に逃げていたのだ。

バイクは売らなかった。

ただ、走る距離を減らした。週末だけ。1時間程度。

走行会も、やめた。

だが、ロードバイクは、今も玄関に置いてある。

土曜日の朝、僕は乗って、近所を走る。

もう、「死と隣り合わせ」の感覚はない。

だが、その感覚を完全に失ったわけではない。どこかで、それは存在している。

それは、たぶん、人間が一度何かに本気で向き合ったとき、そこに残される痕跡なのだと思う。

完全には消えない。ただ、遠ざかるだけだ。

大人になってからハマることの怖さは、そこにあるのだと思う。

子どもは、飽きる。ブームは去る。新しい関心が現れる。

だが、大人は、一度本気になると、それが人生のものになってしまう。

そして、気づいたときには、周りにいる人たちから、遠く離れてしまっているのだ。

戻ってくることは、できる。でも、完全には戻ってこられない。

そこに、大人の本気の怖さがあるのだと思う。

Permalink |記事への反応(3) | 19:49

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  • 観劇 あれは大人の趣味だね、めちゃくちゃ金かかるし まーじで金かかる 時間も取られる

  • AI

  • 大人になってからカメラにハマった 大人の財力にかこつけて月1〜2の頻度で機材を買ってたけどパタッと飽きた 俺はカタログスペックで機材を買うようになってしまっていた 結果、高性...

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