ユダヤの伝統では、「無力さ」「弱さ」は決して無意味ではなく、むしろ神と人との関係の核心にあると考えられています。
タナフの中では、神は人間を「土のちりから」(創世記 2:7)造られたと書かれています。
つまり、限界やもろさを持った存在として人間が創られたこと自体が神の意志なのです。
しかし同時に、その「ちり」に神の霊を吹き込んだとあります。これは、人の無力さの中にも神性が宿っていることを示しています。
「主は砕かれた心に近く、打ちひしがれた霊を救われる」(詩篇 34:19)
つまり、無力さや弱さを感じるその場所こそ、神との出会いの場になりうるのです。
タルムードでも、人間の弱さや不完全さは「試練」ではなく「成長のための条件」として語られます。
ラビたちは「強いのは誰か?自分の欲望を征服する者だ」(アヴォット 4:1)と言います。外的な力ではなく、内的な克己こそが強さとされるのです。
ですから、「なぜ無力に作られたのか」という問いは、「その無力さをどう神との関係で意味づけるか」「その無力さからどのように成長するか」という道に開かれている、とユダヤの伝統は教えます。