差別とかそういう話じゃなく、日本人は頭が変。変な考え方を学校や日常でインストールされている。
変な考え方というのは、非効率で夢想的な、あえてそこにある答を遠回りして避けるような、ストレートな論理の忌避のこと。
最初から包括的に条件を整理して、「論点は三つくらいある」など客観的なまとめ方をするのを、最早本能的とも言って良いくらいの刷り込みで避けている。
そのせいで、常に「たったひとつの真実」を求めながら、もちろんそんな単純な答はないので「より曖昧で常に揺れ動く答」をなんとなく信じて日々をやり過ごしている。
ある意味で言えば、これは科学的な問題にも常に文学的な答を求めようとしているとも言える。
ある意味で言えば、これこそが欧米にかつて(今でも一部に)神秘的と崇められた『禅』の、もしかしたら正体なのかもしれない。
でもそれが今では、経済や科学技術という、純粋に論理(計算)で突き詰めないとうまくいかない世界での遅れに繋がっている。
困ったことに、かつて讃えられたこれを、今でも日本の美徳として固執している層の存在が根強い。
論理的にストレートな損得勘定で社会構築をする欧米や中国などを、むしろ見下す心理にすら繋がっている。
ある種の宗教としてそれを認めることもひとつの多様性なのかもしれないが、一方で日本人は、そういう日本的な曖昧な考え方が、経済力や科学力の源泉でもあると信じて、今でも経済大国、科学立国であるつもりでいる。
日本はかつて経済大国、技術立国であったかも知れないが、それはむしろ社会の欧米化が進み、合理的な投資が行われる風潮が一瞬わき起こっていたからだ。
日本が宗教国家として、科学的なストレートな考え方を否定し、曖昧なものの見方を大切にする文化に固執すること自体は誰にも否定できるものではないが、それは経済的合理性を否定し、科学技術の発展を拒絶することとほぼ同義なのだという自覚くらいはもって主体的に選ばなければならない。
宗教的であることを科学的であると思い込むことまで認めるようになると、それは自滅的、加害的なカルト化に繋がりかねないことは、歴史に何度もあらわれている事実である。
単純かつ曖昧な科学的真理などというものを常に求めている日本の文化的風潮こそが、アンラーニングすべき異常な思考なのだということに、そろそろ気づかなければならない。
安心しろって お前如きがそういう話をインターネットで書き散らす程度には、普通に広まってる考えだよ。 ただ世代の考えってのは、その世代が死なないと変わらないからな。 お前...