あのひとの夢をみた。
起きて数分後、思い出した。
ずっと幸せだった。
ぴったり後ろにくっついてた。手を繋いだらしっかり握りかえしてくれた。あたたかい。
ずっと一緒にいられた。一緒に過ごしてた。
夢みたいな夢だった。
次は何年後に夢に出てくれるんだろう。このまま、起きなくてよかったのに
夢でも二度と現れないと思ってたのに。楽しい夢を見始めると、最後にはあのひとへ行き着いてしまう
起きて全部忘れても、夢の中での一時のあのひととの記憶だけ
必ず持ち帰って思い出してしまう
「トイレの混雑を平等にするのなら電車の混雑も平等にするべきなのだ。」
ここの根拠って何?
電車の場合、比較されるのは共有車両と女性車両であって、男性車両と女性車両ではないし、なおかつ共有車両での女性の性被害の多さが問題になっている。
権利運動をしている人々はその名の通り権利の話をしている。倫理的な理由でヴィーガンをやっている人間は、「動物がかわいそう」ではなく「食肉は動物の権利を侵害している」が基本的な主張で、もちろんそれを理解してもらうためのレトリックとして「かわいそう」と語ることもあるだろうが、基本的な主張のラインは感情ではなく、権利に関するロジック(残酷さを回避する権利が生得的に存在するとか、苦痛の表明は残酷さの存在を示すとか)をもとにした議論になっている。
マイノリティの人権についても同様で、かわいそうかどうかは問題にならない。言われているのはあくまで、マジョリティと同等の権利をマイノリティにも認めるべきだということだ。一昔前の冷笑家は「かわいそうランキング」などと揶揄したが、かわいそうさは関係ないし、そもそもマイノリティだからってかわいそうとは限らず、厚顔無恥なマイノリティだっていくらでもいる。ただ、いずれにせよ彼らは権利が制限されていて、それが不当だと言われているのだ。
「キモくて金のないおっさんはかわいそう扱いされない」とかも同時期に言われていたが、馬鹿げている。かわいそうかどうかは関係ない。マジョリティのおっさんは、現代日本で提供される制度や施設を基本的に何の制限もなく利用でき、その点で権利侵害を受けていないから問題にならないだけだ。もちろん貧困や病気のために権利が侵害されるなら、それはリベラルな運動のカバーする範囲に収まるだろう。そしてそれが焦点なら、反リベラルのレトリックとして掲げるのではなく、はっきりと何の権利が制限されているのかを語り、ともに権利運動に加わるべきだ。
「多様性を否定する多様性も認めよ」?それも問題外だ。権利に関する議論において、「他者の権利を侵害する権利」なるものは認められない。他人の意思を無視して殴る権利などというものは人権に入っていないし、自由に他人の所有物を盗む権利もないし、誹謗中傷やプライバシー侵害の権利もない。それらはそれ自体が他者の権利の侵害だからだ。多様性は、そもそもマイノリティが平等に生きる権利を確保するために掲げられているのであり、それを否定するというのはマイノリティの権利侵害になる。だから「多様性を否定する多様性」などという屁理屈はナンセンスだ。反DEIの人々がどれほど自分をかわいそうだと思っていても、そして仮に実際にかわいそうだとしても関係がない。
ついでながら、心理的な不安や恐怖もそれが合理性を欠く実体のないものである限り関係がない。外国人が増えるのが怖かろうが、トランスジェンダーの存在が怖かろうが、そしてその点でその恐怖の持ち主がどれだけかわいそうであろうが、それはその人自身で解決するしかない精神的な問題であって、マイノリティにマジョリティと等しい権利を保障するという観点には影響しない。
奇妙なことだが、リベラルな運動に携わる側は、基本的にはこの類のロジックで動いているはずだが、反リベラルはそれを「お気持ち」などと揶揄してきた。あれが怖い、これが怖い、肩身が狭くなった、気持ち悪いなどと、不安だなどと気持ちの話ばかりしているのはむしろ反リベラル側だろうに。
小学生くらいのころ「マンガというものはすべて楽しい本である」と思って親の部屋にあったザ・ワールド・イズ・マインを読んだら、ヒグマドンが怖すぎてクマがトラウマになった
親の蔵書には気を付けよう。親も蔵書の管理には気を付けよう。