「Society for the Prevention of Cruelty to Dead Horses(死んだ馬への残虐行為防止協会)」について、アーサー・ケストラーの意図をさらに深く、鋭く考察してみましょう。
この架空の協会は、単なる皮肉や批判を超え、ケストラーが抱えていた知的・倫理的な危機感を象徴するものです。それは、人間の認識の歪み、集団的記憶の操作、そして知識人が陥りがちな「進歩」という名の停滞に対する、痛烈な告発と言えます。
ケストラーが最も懸念したのは、歴史の「終わり」を宣言し、不都合な記憶を葬り去ろうとする政治的・社会的な圧力です。彼は、ホロコーストやスターリン主義の残虐行為といった人類の深淵に触れる出来事を、あたかも「済んだこと」として扱うことで、その教訓を未来に活かすことを妨げるメカニズムを看破しました。
* 「死んだ馬」の定義の曖昧さ: 何が「死んだ馬」であるかを決定するのは誰か? その定義は、往々にして権力を持つ者や、特定のイデオロギーに囚われた集団によって恣意的に行われます。彼らは、自らの過ちや責任を追及されることを避けるために、「もう終わったことだ」というレッテルを貼ることで、議論を封殺しようとします。
* 「進歩史観」の罠: 多くの人は、歴史は常に進歩していると信じたがります。この進歩史観は、「昔の過ちは過去のもの」とし、現代の視点から見れば時代遅れで野蛮な行為として片付けがちです。しかし、ケストラーは、人間の破壊衝動や集団狂気といった根源的な問題は、時代を超えて存在し続けると見ていました。「死んだ馬」と見なすことで、その本質的な問題を直視する機会を失わせるのです。
ケストラーは、科学や哲学の領域でも、一度確立された(しかし、もはや妥当性を失った)理論やパラダイムが、一種のドグマとして機能し続ける現象を批判しました。
* 「共有された虚偽」の継続: 例えば、粗雑な還元主義や行動主義といった思考様式は、既にその限界が露呈しているにもかかわらず、多くの教科書や研究者の思考様式に深く根付いています。これは、過去の成功体験や、その概念に基づいて構築された学問的・社会的構造が強固であるため、新しい視点や批判が受け入れられにくい状態を示します。
* 「専門バベルの塔」の弊害: 各専門分野が細分化され、それぞれの領域内で完結しようとする傾向は、俯瞰的な視点や異なる分野間の対話を阻害します。その結果、「死んだ馬」と化した概念がそれぞれの専門分野の「聖典」として生き残り、他の分野からの批判を受け付けない閉鎖的な状況を生み出します。ケストラーは、ホロンの概念を通じて、この断片化された知のあり方に警鐘を鳴らしました。
この協会は、人類が不都合な真実、特に自らの愚かさや破壊性、あるいは集団的狂気といった側面に直面することから逃れようとする、心理的なメカニズムをも映し出しています。
* 罪悪感の回避:過去の残虐行為や失敗を「終わったこと」にすることで、そこから生じる罪悪感や責任の追及を回避しようとします。これは個人の防衛機制が、集団レベルで発動している状態です。
*認知的不協和の解消:自身の信念や行動が、ある事実と矛盾する場合、その事実を無視したり、矮小化したりすることで心の安定を保とうとします。ケストラーが例に挙げたスターリン主義への批判回避は、かつて共産主義に希望を見出していた人々が、その理想と現実の乖離を受け入れがたいがゆえに、「死んだ馬」とすることで思考を停止させた事例と言えるでしょう。
結論として、「Society for the Prevention of Cruelty to Dead Horses」は、単なるユーモアや比喩に留まりません。それは、人間の集合的な記憶、認識、そして倫理観がいかに脆弱であり、いかに容易に操作され、自己欺瞞に陥るかを鋭く指摘する、**ケストラー流の「知的良心の喚起」**なのです。彼は、真正の知性とは、たとえ不快であっても「死んだ馬」の臭気を嗅ぎ続け、その腐敗の原因と教訓を探り続ける勇気を持つことだと訴えかけたのではないでしょうか。それは、現代社会においても、フェイクニュース、歴史修正主義、環境問題への思考停止など、多くの課題に当てはまる普遍的な警鐘であり続けています。