足利義政は、政治家としては「無能」と評価されることが多いです。その主な理由は以下の通りです。
・応仁の乱の勃発と収拾の失敗: 義政の治世に、細川勝元と山名宗全の対立に端を発する応仁の乱が勃発し、京都は焼け野原となり、戦乱は10年以上続きました。この大乱を止めることができなかったこと、またその後の社会の混乱を収拾できなかったことが、政治家としての最大の失策とされています。
・後継者問題: 実子(足利義尚)と弟(足利義視)の間で後継者争いが起こり、これが応仁の乱の一因となったとされています。義政自身がこの問題に対して明確な態度を示さず、優柔不断であったことも批判の対象となっています。
・財政の窮乏と奢侈:飢饉や土一揆が頻発し、幕府財政が窮乏する中で、義政自身は邸宅の造営(銀閣寺など)や美術品の収集に多額の費用を費やしました。このため、民衆の苦境を顧みない奢侈な生活を送っていたと批判されています。
・政治への意欲喪失:政治の現実から目を背け、「文化・芸術の世界」に傾倒していったとされています。真面目に政治をするのが馬鹿らしくなった、というような記述も見られます。