俺はね、やっぱり哲学も純粋数学も役に立たねぇなって思っちまうんだよな。
だが、その瞬間、パラドクスに陥る。この思考自体が哲学的命題であり、その論理構造は数学的基盤に依拠している。
クソッ、頭の中で超弦理論とカラビ・ヤウ多様体が交錯し始めやがった。
11次元の時空間で、プランク長のスケールでの量子重力効果を考慮すると、存在そのものが確率的な様相を呈し、ハイゼンベルクの不確定性原理が存在論にまで拡張される。
昨日なんざ、スーパーでリンゴ買ってて、突如としてペアノの公理系からZFC集合論に至る数学基礎論の系譜が脳裏に浮かんだ。
そして、ゲーデルの不完全性定理とコーエンの強制法を経て、continuum hypothesisの独立性にまで思考が飛躍。
これって、日常的現実と数学的抽象の境界の曖昧さを示唆してんじゃねぇのか?
帰り道、ガキどもがニーチェの永劫回帰について議論してんの聞こえてきて、思わず「お前ら、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』読んだか?言語の限界が世界の限界だぞ!」って叫んじまった。
だが同時に、後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論も考慮に入れねぇとな。
あぁ、またフッサールの現象学的還元とハイデガーの存在論的差異の狭間で思考が揺れ動いてきやがる。
哲学者どもは、こんな認識論的アポリアの中でメシ食ってんのか。
数学者連中だって、ラングランズ・プログラムの壮大な構想の中で、数論幾何と保型形式の深遠な関係に魅了されてるんだろうな。
正直、俺もそんな純粋知性の探求に身を捧げられる連中が羨ましい。
日々の下らねぇ現実に囚われてりゃ、位相幾何学におけるポアンカレ予想の証明やら、P≠NP問題の解決なんて夢のまた夢だからよ。
ったく、人生ってのは、まるでリーマンゼータ関数の非自明な零点の分布みてぇだな。
複雑で、規則性を秘めてそうで捉えどころがねぇ。
でも、その美しさと深遠さに魅了されずにはいられねぇ。
くそっ、また「PrincipiaMathematica」と「存在と時間」を同時に読み返したくなってきやがった。