1982年のこの年、日本レコード大賞を制したのは細川たかし「北酒場」だった。同年の代表的なヒットナンバーは研ナオコ「夏をあきらめて」、大橋純子「シルエットロマンス」、河合奈保子「けんかをやめて」、中島みゆき「悪女」などである。
新人アイドルは豊作の年で、後に82年組と呼ばれる、小泉今日子、松本伊代、シブがき隊、中森明菜、堀ちえみ、早見優、石川秀美らがデビューした年となった。
このうち最初にブレイクしたのは、松本伊代である。1981年10月21日にデビューし、デビュー曲の「センチメンタルジャーニー」がいきなり32万枚の大ヒット、ザ・ベストテンにも6位までランクインした。
シブがき隊もデビュー曲から25万枚を売り、ザベストテンの常連になったが、1位をとることはなく、田原俊彦や近藤真彦に比べればパンチに欠けていた。
他の者たちは中森明菜を除けばブレイク時期は翌83年までかかり、石川秀美はついにザベストテンにはランクインしなかった。
デビュー曲「スローモーション」は火が付かず、低迷したが、2曲目の「少女A」でブレイク、これはザベストテンで3位まで上がり、続く「セカンドラブ」で1位を獲得した。
中森明菜の凄いのはアルバムが売れたことだ。デビューから2ケ月後に発売された1stアルバム「プロローグ」は、「少女A」でブレイク前だと言うのに、オリコン5位までランキングを上昇した。アルバムが売れにくいアイドルとしてはこれは極めて異例なことで、その時点では明菜はザベストテンにも夜のヒットスタジオにも出演しておらず、知名度は低かったにも関わらず、売れ方のパターンとしてはいわゆる「アーティスト売れ」をした。
その後、年末の賞レースまでには、中森明菜は「少女A」できっちりとブレイクし、「セカンドラブ」では65万枚を売った(オリコンランキング)。集計の都合もあり、「セカンドラブ」は1983年の楽曲に振り分けられているが、ザベストテンには11月22日に初登場2位でランクインし、以後8週連続で1位を獲得している。
つまり年末のレコード大賞の時点では、中森明菜は単に「売れた」だけではなく、山口百恵、松田聖子級の「スーパーアイドル」が誕生したことは誰の眼にも明白だった。
100人に聞けば100人が、今年の最優秀新人賞は中森明菜以外には考えられないと答えていただろう。1位を獲ることをマストで課せられていた田原俊彦、松田聖子、近藤真彦は、シングルのリリース時期かかぶらないように、暗黙の了解で調整されていたが、このローテーションに以後、中森明菜も食い込むことになる。
ところが蓋を開けてみれば、新人賞に選ばれた5人は松本伊代、シブがき隊、堀ちえみ、早見優、石川秀美であり、ザベストテンにランクイン経験があるのは松本伊代とシブがき隊のみだった。前年にデビューした松本伊代は早くも息切れを起こしているのは明白であり、3曲目を最後にランクインから遠ざかっていた。この5人から選ぶのであれば実績から言えば現役のヒットチャート常連であるシブがき隊になるのは異論がないところで、実際、彼らが最優秀新人賞を獲得したのだが、そもそも新人賞に中森明菜が含まれていないことが問題だった。
82年が新人の当たり年であったのは確かであり、ここで名前が挙げられた新人たちは例年ならば確かに、新人賞を得ていてもおかしくはない実績と知名度があった。
前年の新人賞の受賞者は、近藤真彦は別格としても、竹本孝之、裕子と弥生、沖田浩之、山川豊らであり、それらと比べれば堀ちえみや早見優、石川秀美らがひけをとらないと思ったとしてもおかしくはない。
彼らもまさか中森明菜が入らないとは思いもしなかっただろうが、だからと言って自分が身を引くなどとは、背後のスタッフは考えもしなかっただろう。
「中森明菜?うん当然入って来るだろうね。石川秀美あたりが落ちるんじゃないの?」
「中森明菜?うん当然入って来るだろうね。堀ちえみあたりが落ちるんじゃないの?」
「中森明菜?うん当然入って来るだろうね。早見優あたりが落ちるんじゃないの?」
そう牽制しあいながら、結局、中森明菜がはじきとばされてしまったのである。
中森明菜の所属事務所は当時弱小事務所の研音で、所属レコード会社はアイドル売り出しの実績がなかったワーナーだったから、政治力で負けたと言われているが、この年の新人賞を巡るつばぜりあいがいかに激しかったかは、バーニング事務所の小泉今日子ですらはじきとばされたことからも伺える。奇しくも、82年組の中では圧倒的に別格となる中森明菜と小泉今日子が選に漏れたのだ。
小泉今日子はまだ初年度の実績は松本伊代以下、シブがき隊以下だったから、選外もやむなしと言うところだが、中森明菜をオリンピック金メダル級とするなら、シブがき隊ですらせいぜいインターハイ入賞くらいのレヴェルであるにも関わらず、そういう結果になってしまい、日本中が震撼した。
賞と言うものはしかるべき人にきちんきちんと与えないと自らの権威低下を招くのである。
思えばこの時から日本レコード大賞の権威の失墜が始まったと言える。
80年代ぎりぎり延命できたのは、その中森明菜が2度に渡って、レコード大賞を受賞「してくれたから」に他ならない。
彼女がこの結果に怒って、日本レコード大賞への参加拒否をしていれば、その権威はおそらくずるずると失墜していただろう。なぜ彼女がTBSに情けをかけたかと言えば、ザベストテンの放送局であるからに他ならない。
ザベストテンはいろいろな無理や制約がある中、とにかくランキングは絶対、ランキングさえすればどんな人にも出てもらうを貫いていたから、70年代前半や90年代であればおそらく政治力でゴールデンタイムの歌番組には出られなかったようなチェッカーズや吉川晃司も当たり前のように出演していた。そうした志に共感していた彼女は、ザベストテンに関しては衣装やバッグバンドでは圧倒的な持ち出しになるほどに、番組に協力的であったし、ランクインすればよほどのことが無ければ必ず出演していた。
今は昔の話である。