近所のスーパーでいつもわたしの納豆を買ってるのだけど、今日みたら納豆売り場にわたしの納豆がひとつもなかった。伊藤だとか水木だとか知らない人の納豆しか置いてないので、店の人に「わたしの納豆ありませんか?」と聞いたら「ここにあるのはすべて店の納豆です」と言われた。話が通じない。
強力すぎて不幸アピールマンだけではなくサバイバーまで封殺してしまう
「世の中には辛くて苦しくて死を選ぶ人がたくさんいるのにあなたは生きている
それって結局、何だかんだ言って死ぬほどの苦しみではなかったんでしょ?」
もし大した苦しみではないから生き延びたのではなく自分が耐えきったから生き延びたのだと主張すれば、じゃあ問題ないじゃんってなるし
生きて苦しみを乗り越えたこと、それ自体を理由に苦しみを軽んじる、悪魔のようなロジックだ
ムスリムやLGBTが傷つく本を出版する必要があるのだろうか。
たとえ既に存在する本の翻訳だとしても、それを読んだムスリムやLGBTが傷つくことを許容できるのか。
ペニスで悩む男をどう慰めればいいの?
そうは言ってもさ。
実際、初めて裸をさらす前は、男性器のサイズなんて分かんないじゃん。
とか言われたら、どう慰めればいいのかな。
男の人に聞きたいんだけど、
って言われて慰めれられるのかな。
それで気を取り直してコミュニケーションを再開してくれる?
他のアイデアとしては
が思い付いたけど、逆にしぼんでしまいそう。
落ち込んでる人を慰めるのが苦手な私です。
知的障害の人がどうしても苦手。
中学生の時に障害のある人が働く作業所に体験授業で行ったんだけど、友達が知的障害の男性にレイプされそうになった。
引率の先生も作業所の職員も近くにいなくて、クラスの男子が必死に男性を友達から引き剥がそうとしたけど、男性の方が力強くて無理で。私は急いで先生と職員を探しに行った。
職員が男性を押さえた時には友達は服を脱がされてインナー破られて泣いてた。
その後は救急車やら警察やら来てすごく混乱した。警察からの質問に答えるのが辛かった。
あの時のことがトラウマで、障害ある人を見かけると避けてしまう。
軽度で普通に生活できる人、重度で生活するのにサポートが必要な人、色んな人がいるのはわかってる。
でも、どうしても皆同じに見えてしまう。
多様性、平等な社会って声高に言われる今、こんなこと誰にも話せない。
Pixel6 Pro使ってるんだけど、Pixelシリーズの文字打ってるときのタップ音がすきなのね。
「私の同性愛は思春期の気の迷いだった。荒れた生活を続けた末に自分はノンケだったと正気を取り戻した。若い頃にゲイコミュニティに入り浸って同性とセックスしたことを後悔している」
という「脱同性愛」のケースばかり集めた本が出版されたら、同性愛者は自分たちのアイデンティティを否定する攻撃だと感じるだろうし、その本が同性愛に否定的な親や教師の偏見を強化して同性愛指向を抑圧される子供が増えると危機感を覚えるのではないかな?
ベルギーワッフルは、小麦粉、卵、バター、牛乳、砂糖、イーストなどを混ぜて発酵させた生地を、格子模様が刻まれた2枚の鉄板で焼いた菓子です。ベルギーの首都ブリュッセルやリエージュのものが有名です。
ベルギーワッフルには、ブリュッセルワッフルとリエージュワッフルの2種類があります。ブリュッセルワッフルは長方形で、味は控えめです。そのため、ソースやフルーツ、ハムやスイーツなどをトッピングして食べるのが一般的です。
多くの人は、規制緩和によって派遣労働を推進したのは、小泉と竹中と思っていますが、労働者派遣法が成立したのは、1985年の中曽根内閣の時です(施行は翌年)。つまり、この規制緩和は、1980年代の土光臨調と中曽根行革にまで遡るということです。但し、当時派遣が解禁されたのは、専門知識を必要とする13業務に限定されました。
中曽根行革に続く行革は、橋本行革です。1996年、橋本内閣の時代に、対象業務が26業務に拡大されました。しかし、最大の規制緩和は、1999年の小渕内閣によってなされた改正で、この時に、派遣労働の対象が原則自由となり、禁止業務だけが定められるネガティブ・リストの形を取るようになりました。2003年に小泉内閣のもとで製造業務への労働者派遣が解禁されたとはいえ、なぜ非難されるのはもっぱら小泉内閣で、より抜本的な規制緩和に踏み切った小渕内閣ではないのでしょうか。おそらく、小渕内閣が公共事業を増やしたのに対して、小泉内閣は減らしたので、小さな政府を嫌う勢力は、小泉内閣だけを攻撃したいからでしょう。
派遣労働に関するもう一つのよくある誤解は、パソナ会長の竹中平蔵が、自社の利益のために派遣労働を推進したというレント・シーキング説です。竹中が大臣あるいは参議院議員の任にあったのは、2001年4月から2006年9月までで、パソナの特別顧問に就任したのは2007年2月、会長に就任したのは2009年8月です。そもそも、竹中は派遣労働を直接所管する厚生労働大臣には就任していないのですから、竹中が中心となって派遣労働を推進したというのはおかしな話です。もちろん、竹中は、政治家を辞めた後にも様々な政策を提案していますが、直接政治権力を持っているのではない以上、責任は、提案を受け入れる政治家にあって、民間人の竹中にはありません。