http://anond.hatelabo.jp/20100108021340
http://www.youtube.com/watch?v=ScLH8uCH90A
なんとなく。
自分が車いす利用者じゃないから「ああ、今はご案内中なのだね」ぐらいしか思わないけど、
もし自分がご案内されてる本人だったら「いちいちうるせーよ!どうせ自分はご案内されないと乗れないよコンチクショー」とか思ってしまいそう。で、車内に入った後も某のりピーみたいに「この恥ずかしめをどうしてくれるの!」とか感じるだろう。
「ご案内」以前はそんなに待たされる客の苦情が多かったのかな。
ちなみに個人的にはもし車いす当事者だったら「発車まで〜3秒前、2、1、発車しまーす」とかテレビ局の収録時カウントダウンされるほうがまだいいと思うけど、駅員が焦るし嫌だろう。
全員が満足いく表現ってないもんだろうか。
父が母を強姦して私ができた。
父はもてない男性で、そうでもしなければ女性と性交渉を持てなかった。
父と母との間にまったく面識はなかった。通り魔的な犯行だった。
多額の示談金と、責任をとって結婚し一生生活を保護する約束に目がくらんだ母は、
望んでもいないのに私を産んだ。
一時の性欲に駆られて私を作ったことを父は悔み、「おろしてくれ」と懇願したが、
男女雇用機会均等法制定以前、女性が一生食いつないでいける職業も少なかった母には、
母は育児を放棄した。触ることすらも。
直前まで流産を願っていたぐらいの父も当然私を育てる気にはなれなかった。
父方の実家に預けられ、やがて養護施設に預けられた。
両親はすでに離婚しているらしい。
父と母の顔はもう覚えていない。
両親を責めるつもりはない。
愛していない男にむりやり孕ませられて、その男のコピーを生きながらえさせることなどできようもないではないか。
見ず知らずの女に性欲に駆られて子供を孕ませ、
愛してもいない女と望んでもいないのにできた子供を一生養うことなど耐えられるわけもないではないか。
私は存在自体望まれていなかった。
思い出の記号なんでしょう、そっとしといてあげなよ。
これを新鮮に感じる人ってアスペとかそういう類の人だけじゃないかなー
どちらかというと4かな。
「医師から自分には、前にも(抑うつとか)後ろにも(うつ病とか)言葉のつかない『うつです。』と言われた。
医療費の申請書類をつくる際になり、『都合上うつ病と書きますね』と言われたけど、それでも「病」の診断はつけられていない・・・」
っていちいち説明するのも長いので。
SSRIは初診時のみもらって今は安定剤みたいなのだけ。でも効いていないかんじ。別機関のカウンセラーには転院を勧められている。
夫婦って、背中合わせで外の世界と戦っているようなイメージもあると思うんだ。
一人で居たときよりも互いに自分の得意な方位に注力できて、以前より戦い易いのに、総合的に見ると防御や攻撃の効果はむしろ上がってるみたいな。
相手のことを常に見てるわけじゃないし、自分を犠牲にしてるわけではないのに、相手にあげた余力が互いにすごく役立っているみたいな。
とか言ってる俺は未婚ですが、そんな仲を続けれたらいいなと思ってる。がんばりましょう。
電車に乗ってるとたまに「業務連絡、◯◯駅までお客様をご案内中です……ご案内終了しました。ドア閉まりまーす」なんてアナウンスがある。
そういうときはいつも、車椅子の人が駅員に助けられながら乗り降りしてる。
つまりは「いまこっちで◯◯駅で下車する予定の車椅子のお客さんの乗り降り助けてるから、運転手さんはドアしめちゃだめだよー」っていう業務連絡のアナウンスなんだと思うけど、私はどうも「お客様をご案内」って表現に違和感を覚える。
内容を明らかに伏せてるような?隠語的な?
と言っても、「車椅子のお客様をご案内中です」なんて言ったら、車椅子の人自身、毎回じゃ恥ずかしかったり「いちいち周囲に教えんなよ!」って思うかもしれない。
しかし、初めてそのアナウンスを聞いた人は「何を案内?」って思うはずだ。
中途半端に他の客に疑問を思わせるくらいなら、いっそ
「11番、11番でーす」とか想像も及ばないくらいワケわかんない業務連絡がいいんじゃないかなあ。
うーん。なんかもう少しすっきりする言い方はないだろーか
これへの理由として「収入がない(格差が増大した)」「バブル期を経験した人が意見している」という考えが度々持ち上がる。確かにそれもあるかもしれないけど、もしかしたら生産への敷居が昔よりぐっとさがったからというのも要因にあるかもしれない。
最近ではクオリティの高いものを望まなければこれといった専門知識や投資がなくてもクリエイティブな生産が可能。自分の依存する価値観を金銭やそれで発生する財産の取引ではなく別のスキルへ移し変える人が増えただけなのではないか。
職人気質を求められる仕事が多かった時代と比較しても現代人は結構「何でもできる」環境が揃っている。だからひとつの事にこだわる必要がない。
昔の彼女との燃え尽きる思い出がリフレインして、びくびくしてしまう。
なあ、増田どうしたらいい?
昔の彼女と出会ったのは会社の有志の勉強会で、仲のよい先輩に呼ばれて加わった。
勉強会といっても、いるのは僕と先輩と彼女だけで、おもにメーリングリストで先輩の出すお題にあれこれ答えて議論するというもの。話題は最近の売れ筋とか、キャンペーンを打つならどうするかとか、実際に役に立つ内容で、話し合っていたこと充実していたように思う。
彼女は論理的な発想よりも、感覚的なセンスが鋭い人でそれを言葉足らずのなんとか書き表そうとする。それを先輩と2人でフォローをしながら聞き出してくと、けっこう面白い方面から物事を見ていたり、繊細な捉え方をしていて感心してしまう。
この人はすごいな、あんまり社内で目立たないのは、うまくその感じを伝えられないだけなんだと、そのときは思っていたし、実際にそうだった。
3人の議論はとても前向きで、着実に成果が出ていたので、楽しんでいた。
先輩の問題設定の仕方がよかったのか、刺激的な、よい勉強会だったと思う。
勉強会は会社のメールアドレスでやりとりしていたのだけど、急用ができて私用のメールアドレスを伝えた。そうしたら彼女から携帯番号を教えて欲しいというメールがすぐさま飛んできて、伝えたらすぐ電話がかかってきた。すがるようだった。
「あの、助けてくれますか?」
返事もあやふやなうちに話を聞くと、その先輩からあらゆる方法で付き合えという圧力がかかってきていて、どうしたらいいのか分からないという内容。聞けば聞くほどこれまでなんかおかしいなと思っていたことが氷解していき、ああ、そういうことだったのかと愕然とする。
結局の所、その先輩は彼女をむりやりにでも自分のものにしたくてあらゆる手を使っていて、この勉強会に僕が呼ばれたのも、彼女とのコミュニケーションがうまくできないので、僕にフォローさせようとしていたのだと分かる。
さすがに憤慨する。
何件かの証拠を集めて、それでメールで先輩を問い詰めはじめる。
ああ、これは確定的だという証拠が出て、絶縁のメールを送る。
いや、たしか先輩が返事を返せなくなって、そのままになったという形だったか。
彼女とはその後付き合うようになったのだけど、まさか社内でそんな犯罪的なパワハラ&セクハラが行われていたとは思ってもいなかったから、しかも自分がそれに利用されていたのだから、もう社内が信じられなくなる。
全社中でそんな犯罪まがいなことが起こっているのではないかと疑心暗鬼になるし、なによりも彼女を守らなければと必死なる。当然僕の周りの人間関係も悪くなる。
会社の中でそういうモラルハザードが発生するとまずいのは社内秩序がずたずたになるところにあると思う。とくにはれたほれたの話はメガトン級のパワーをあらゆるところにばらまいてしまうわけで、しかもそれが連鎖的に発生していくので、とてもまずい。
罪のない上司に噛みつくわ、僕もあんまり冷静ではない時期があった。
まるで社内中がドラゴンの巣窟に見えるナイトのようなもので、そんなモラルハザードはぜったいに許さないという剣幕で社内を仕事で回っていたような気がする。ふたつ上の上司の取り計らいだったのだろうと思うのだけど、結局のところ僕はなにがあったのかを一切語ることもなく、社内でも不問という空気で徐々に沈静化していった。
彼女は、ちいさい頃に片親を亡くした、典型的な幸薄い印象の女の子で、それでしっぽを振るように惚れられた。
白馬の騎士とでも思ったのかとても熱烈で、僕に合わせるのがうまかった。
僕も彼女と付き合うようになって気付いたことがあって、それは、僕は一種の母性本能みたいなものがとてつもなく強いのではないかということだった。
母性本能というと母親が我が子に献身的に尽くしてしまうことを言うと思うのだけど、男の子が困った女の子を見て、突然ドラゴンに立ち向かう気になってしまうという、そういう男の子の本能のひとつが僕はとても強いのだと思う。
生々しい話をされ、どう思うと言われればそれは、おれの女に手を出すな、で当然あるわけで、彼女にとって世界中がそういう危険に満ちているように思えてきて、いてもたってもいられなくなる。
毎日のように電話をして安全を確かめるし、その電話は何時間も何時間も続く長い電話になっていく。彼女もそうやって尽くしてくれる僕に惚れ込んでいくし、僕と話しているときだけが安全で満ち足りた時間だと思うようになっていく。
そうして、彼女との電話を切るとたちまち不安になり、朝早く同じ電車に乗ろうなんて、そんな話なって、朝に会うようになる。彼女が夜遅いとなると、あわてて1時間も向こうの駅まで迎えに行ってしまう(そして彼女の家に泊まってしまう)。
そうやって、べったりと彼女に貼り付くようになり、彼女はなんて優しいんだろうとますます惚れ込んでいく。あっという間にふたりだけの世界へ直行してしまう。
たしかに、その時期はまるでドラマのような熱愛に身を任せていた。
書き始めたら、そんな馬鹿なと笑われるような思い出がいくらでもあったし、それはたしかに楽しいことであったとは思う。その当時はそんな恋愛が終わるだなんてみじんも疑わなかったし、それぐらいに輝いていたとは思う。
「心配している暇なんてない、もっと今の出会いに感動しようよ」
そうやってふたりではしゃぎあって、つきあい始めてからを指折り数えていた。
でも、世の中にいうように、燃えさかる炎は燃え尽きるのも早いもので、結局のところ4年続いた関係も最後はさんざんな結末となった。
ふたりだけの世界というのは、結局どこかで立ちゆかなくなると、いまでは思う。
君と僕だけの世界の終焉は、それに没頭しすぎて、ほかに歪みをもたらしすぎて、終わっていくのだと思う。
転職をして、仕事が忙しくなり始めて、やはりその歪みが出てくる。
彼女も僕もお互いにずぶずぶに甘えあっていて、お互いがなにかをしてくれないと立ちゆかないところまで来てしまっていた。その頃は同棲をしていて、毎日話し合っていたのだけど、どちらかに余裕がなくなってしまうと、昔のような甘い甘い甘い甘いそんな時間が保てなくなる。
この甘さというのは一種のインフレーションをしていくもので、一度ある一定量の甘さを甘受してしまうと、それよりも甘くないことが我慢できなくなる。恋愛感情依存症とでも名付けるべきなのかも知れないけれど、より強い甘さを求めはじめてしまうのだ。
それでやはり不満が出てきてしまう。
あの頃はあんなにしてくれたのに、好きでなくなっちゃったの?
それは仕事で鬱になり始めていたときで、それでも必死になって彼女に尽くしていたように思う。それでも、やはりひとりの人間には限界があって、お互いにお互いの求めることが負荷になっていってしまう。
だったら、これぐらいしてくれよ。
これは燃えさかる恋愛の罠で、繰り返すようだけど恋愛感情依存症の副作用だと思う。
お互いが生活の中で、それまで以上の甘さを提供できなくなり始めると、それがどんどんと物足りなくなっていき、不満としてたまっていってしまう。ある程度までは無限に甘さをむさぼり合えるのだけど、どこかで限界が来て、負荷となってしまう。
そうやって、甘さだけでなんとか回っていた生活が崩れはじめると、崩壊していくのは早い。
そこまで無理に無理を重ねていて、盲目的に恋愛だけを見ていただけに、それを固めるはずのあわゆるものが足りなすぎているのだ。現実的な部分の帳尻はついておらず、新しく持ち込まれる問題を解決する余力はなくなってしまっている。
結局のところ、崩壊の崩壊までいって、彼女は別れを切り出した。
僕は当時しがみついたけれど、今となっては彼女の判断は正しかったと思う。
あのまま行っても駄目だし、いま戻ってもやはり駄目だろうと、そうは思う。
それはおそらく、燃えさかっていたときの思い出が鮮明すぎて、やはり不満に思うことが出てきてしまうだろうと思うからだ。あの頃はなんのためらいもなく、無謀な火遊びに邁進していた。
お互いの余力なんて気にすることなく、お金だっていくらでも使っていた。
でもそれじゃあ、持たないんだよね、ってそう思う。
こんな話をするのは、4年ぶりに彼女ができたから。
仕事を手伝って貰ううちになんとなく惚れあって、もう彼女のことしか考えることができそうにない。
それでも、同じような結末になるのではないかと思うと、彼女になにか言われたらどこまででも尽くしてしまうのではないかと思うと、その結末を知っているだけに怖い。それは優しいのかも知れないけれど、破滅へ向かってしまう優しさで、自分など全部犠牲にしてしまって愛する彼女のために捧げてしまう優しいであることが怖い。
彼女と出会ったとき、もう彼女のことばかり考えてしまう自分がいて、仕事中にあれ彼女は目の前にいないと思ったときがあった。それで首を横に向けてみると、となりで、ふふーんと笑っている。あーそうか、隣にいたんだ、そう思ってちょっとほっとする。
よく、夫婦は向き合うよりも横並びで同じ方向を見る方がいい、という。
そのときの彼女は横並びで、前を向いてわたしはひとりで歩けると言っていた。
夫婦というのは長続きする男女関係の意味だと思うのだけど、最近向き合いはじめて火遊びをはじめてしまいそうで怖い。
一生がいいんだよな。
そこまで、嫌だ、一生じゃなくちゃ嫌だと思っているんだよなと、ずっと側にいるんだと思っているのだよなと思った。一生僕と一緒であって欲しいって。
この罠、どうしたらいいのだろう。
ずばりこれというのはないのだが、強いてあげれば
かなあ。
診察2~3回目くらいに「うつ状態」という診断書をいただいた。
その後は「うつの影響で不眠」というような言い方はされている。
金持ち父さんみたいな話やな。「ファイナンスインテリジェンス」とか……。
ネットワークビジネスのすすめでも書いているのだろうかね。
うつ病を名乗ってた(今は薬なしでも大丈夫になった)人間から返事するよ。
これだった。
世間では、中学受験の害悪だなんだというのはさんざんに語られていて、自分自身も小学校の三年生や四年生から塾に通い詰めて毎日夜遅くまで、なんてバカらしいことだと思っている。できればさせたくない。子供は、予想以上に伸びるし、しかし、ゴムのように突然切れる。切れるまでのタイミングがわからない。だから正直怖い。
それでも、やっぱり私立進学校に子供を通わせたいと思う(信じる)たった一つの理由がある。
それは、
だ。
自分自身が東大・京大に時に百人近くの進学者を出す私立進学校の出身だからわかるのだが、実際、私立進学校の効果というのは「良い大学」に入ることではない。むろん、「良い大学」への道は、公立の進学校や底辺私立校なんかに比べればはるかに整備されているだろう。それは明らかに感じられるし、たしかに「良い大学」に入ることはできたが、ぶっちゃけ、「良い大学」に入らなくても(極論するならそのまま高卒でどっかに就職しても)私立進学校に通った価値ははるかに巨大だと思っている。
というのも、私立進学校の「人脈」というのは、ものすごいスケールだからだ。語彙が無いのでものすごいとしかいいようがない。なんせ、「ただの友達」としてバカやらかしていた奴らが、次々大企業に入り、あるいは役員クラスになり、医者になり、大学教授になり、官僚になり、弁護士になり代議士になり……とにかく、中学・高校時代の「ただの友達」だったはずなのに、社会の中枢にグイグイ食い込んで行くのだ。
彼らを「人脈」として活用出来ることのメリットは言うまでもないが、さらにすごいのは、「人脈」を作るためのコストが、ほぼ中高時代の授業料のみ、という点だ。「何も考えず」・「ただぼけーっと友達と遊んでいるだけで」、社会の上層部で働くエグゼクティブと友達になれるのである。
もちろん、友達の全員がそううまく行くとは限らない。限らないが、一学年二百人ほどで、六年間過ごすのだから、ほぼ全員と顔見知り程度にはなれる。将来、この格差社会の頂点に食い込んで行くような連中と、中高時代から知り合いになれることの計り知れないメリットは、もうわかるだろうか。
なんせ、ホントに打算や計算抜きの「友達」が、「人脈」へと進化していくのだ。
俺自身、中学や高校で友達と遊んで、バカやらかしていたときには、そんなこと微塵も考えなかった。いつか社会に出るのだとはわかっていたけれど、それがどういうことなのか知りもしなかった。ただ毎日を、適当に遊んで、テストも適当にこなして、また遊んで暮らしていた。
にもかかわらず、彼らは「人脈」になった。
おまけに、私立進学校にはきちんと同窓会組織があり、OB同士のつながりの意識が強い。同級生の友人が「これから社会に食い込んで行く」奴らなら、OBは「すでに食い込んでる」人々だ。こうなれば勝手に人脈の雪だるまが転がっていくようなものだ。
この無敵のパスポートの効力を味わった今、なんだかよくわからないままに中学受験させられたことは、これ以上なくありがたかったと思うし、それを子供にも味わわせたい。
中学受験は一度しか来ない。