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浅井昭衞先生 御略歴 | 人生の目的とは何か?  人生の目的は 成仏 にある。

人生の目的とは何か?  人生の目的は 成仏 にある。

将来、日本、中国、インド及び 世界中の人々が
必ず実践する究極の方法が、ここに書かれてます!!\(^^)/
他事(邪宗の執着)を捨て、
日蓮大聖人を信じ 南無妙法蓮華経と唱えましょう(^人^)

平成一二年

 

一一月八日、先生は

 

広布最終段階の

 

本陣として、

 

新本部会館を

 

埼玉県さいたま市に

 

建設された。

 

 

平成一六年四月、

 

先生は百万の

 

死身弘法を背景に、

 

「日蓮大聖人に背く

 

日本は必ず亡ぶ」を

 

著わし、

 

第二回・一国諫暁に

 

立たれた。

 

 

この諫暁で己れの悪事

 

が広く露見し、いたた

 

まれなくなった阿部日

 

顕は、国立戒壇を否定

 

し正本堂を「御遺命の

 

戒壇」とたばかった

 

「二冊の悪書」の幕引

 

きを図った。しかし正

 

本堂崩壊後も、なお国

 

立戒壇否定に執念を燃

 

やす阿部日顕の無慚無

 

愧を見て、

 

先生は平成一七年

 

三月二五日、阿部日顕

 

に対し顕正会の命運を

 

賭して公開対決を

 

迫られた。阿部日顕は

 

これを拒否した。

 

 

先生は重ねての

 

対決申し入れ書を

 

同年四月二七日に

 

送付された。

 

しかし阿部日顕は、二

 

度が二度とも悪口雑言

 

だけを並べ立てて

 

完全逃避した。

 

 

ここに先生は

 

「阿部日顕の三大謗法

 

に止めを刺して、

 

仏法を守護しなければ

 

ならぬ」と決意され、

 

平成一七年

 

八月二八日、

 

「最後に申すべき事」

 

と題した一書を

 

阿部日顕に

 

送付された。

 

その文末に云く

 

「これが小生の最後の

 

諫めである。もしこの

 

言を卑しんで一分の

 

改悔もなければ、後生

 

の大苦こそまさに

 

恐るべし。顕立正意抄

 

の仰せに云く『我が

 

弟子等の中にも信心

 

薄淡き者は、臨終の時

 

阿鼻獄の相を

 

現ずべし。其の時我を

 

恨むべからず』と。

 

以上、用捨は貴殿に

 

任す。

 

小生はただ謹んで

 

御本仏日蓮大聖人に

 

言上し、御裁断を仰ぎ

 

奉るのみである」と。

 

 

 

その三月後の

 

平成一七年

 

一一月七日、

 

戒壇の大御本尊の

 

御前にある大扉が

 

いかにしても開かず、

 

阿部日顕は御開扉中止

 

のやむなきに至った。

 

 

この現証に怖畏を

 

生じた阿部日顕はその

 

翌月、猊座を退いた。

 

 

「最後に申すべき事」

 

を送付してから

 

四ヶ月後の、

 

平成一七年

 

一二月一五日のことで

 

あった。

 

 

この戦いの直中、

 

先生は会歌

 

「遺命重し」を

 

作詞され、

 

平成一七年

 

八月二一日、

 

総幹部会において

 

発表された。

 

 

「雪嶺に

 

 身を捨つるとも

 

 大悲の恩

 

 いかで報ずべき

 

 みほとけの

 

 遺命おもし

 

 いのち尽くまで」

 

と。

 

 

平成二三年

 

三月一一日、

 

東日本超巨大地震の

 

発生を見て、先生は

 

「これ日本亡国の

 

先兆、広宣流布の

 

大瑞でなくて何か」と

 

判ぜられ、同時に

 

「2020年代こそ

 

広宣流布の決戦場」と

 

思い定められた。

 

 

そして

 

「20年代に突入する

 

までに、顕正会の

 

全組織を強き信心で

 

打ち固め、二百万の

 

弘通をそれまでに

 

成し遂げたい」と

 

念願され、巨大地震の

 

翌年から三者の

 

各部大会を、さいたま

 

スーパーアリーナで

 

順次開催された。

 

平成二四年に

 

婦人部大会、

 

二五年には

 

女子部大会、そして

 

二六年には

 

男子部大会を

 

開催され、

 

この男子部大会には

 

五万人が結集した。

 

 

さらにその翌年から、

 

日本列島を8つの

 

ブロックに分けて

 

順次地方大会を

 

開催された。

 

平成二七年に

 

南東北大会、

 

二八年には

 

九州大会と近畿大会、

 

二九年には

 

中部大会と

 

中国・四国大会、

 

三〇年には

 

北関東大会と

 

新潟大会、そして

 

令和元年の

 

北東北大会を以て

 

地方大会の

 

すべてを終え、同時に

 

二百万も達成した。

 

 

この間、平成二六年

 

一一月七日、

 

池田大作はついに

 

「本門戒壇の

 

大御本尊」を

 

六百万学会員に

 

捨てさせ奉った。

 

これまさに

 

第六天の魔王

 

その身に入るの正体を

 

自ら露わした

 

ものである。

 

 

この極限の大謗法を

 

見て、

 

先生は全学会員を

 

「入阿鼻獄」から

 

救わんと

 

「学会員を救う

 

特集号」を連々と

 

発刊された。

 

 

平成二七年

 

十月十三日、先生は

 

「何としても

 

全日本人に、

 

日蓮大聖人の

 

大恩徳と、

 

三大秘法の尊さ・

 

有難さを

 

わからせたい」――

 

ただこのご一念で、

 

二年の歳月をかけて

 

「基礎教学書 

 

日蓮大聖人の仏法」

 

を発刊された。

 

 

 

 

さらに翌二八年

 

七月一六日、

 

基礎教学書の

 

広告文を著わされ、

 

ここに

 

「遥拝勤行と広告文」

 

という広布最終段階の

 

信行を確立された。

 

 

 

日蓮大聖人御入滅後

 

七百余年、

 

未だに背き続ける

 

全日本人に対し、

 

先生は毎月の

 

総幹部会の講演を

 

特集号として発刊され

 

「日蓮によりて

 

日本国の有無は

 

あるべし」を徹底して

 

訴えられた。

 

 

中でも総理大臣以下

 

全国会議員ならびに

 

全国首長等 日本の中枢

 

約三万数千ヶ所には

 

本部から直接送付し

 

続けられた。ことに

 

安倍政権に対しては、

 

その数々の

 

悪政とともに、

 

御本仏日蓮大聖人を

 

無視して「神の国」を

 

作らんとした謗法を、

 

先生は六二度に

 

わたって諫められた。

 

 

これを無視してなお

 

「神国日本」に

 

執念を燃やしていた

 

安倍晋三は、

 

令和四年、ついに

 

銃弾に斃れ、

 

その野望は永遠に

 

潰えた。

 

 

一方、「正系門家の

 

御遺命違背こそ

 

亡国の根本原因で

 

ある」として、

 

先生は

 

学会・宗門の師敵対・

 

極限の大謗法に対し、

 

強烈な諫暁を

 

重ね続けられた。

 

 

その結果、

 

御遺命破壊の元凶たる

 

池田大作は、

 

平成二二年五月以降、

 

一切その姿を見せず、

 

今や

 

「生ける屍」となり

 

悪臨終、

 

細井日達・阿部日顕の

 

悪臨終も

 

明らかになった。

 

 

令和五年四月二八日、

 

先生は広告文を

 

一新された。そのとき

 

「顕正会の思いは

 

ただ一つ。

 

『早く全日本人に、

 

日蓮大聖人の大恩徳を

 

知らしめたい』

 

ただその忠誠心

 

だけで、この広告文は

 

作られた」と

 

述べられた。

 

その広告文の

 

発行部数は現在、

 

九千二五〇万枚に

 

及んでいる。

 

 

発足以来六六年、

 

先生は大聖人様の

 

「和党ども、

 

二陣三陣つづきて

 

迦葉・阿難にも勝れ、

 

天台・伝教にも

 

越へよかし」

 

 

との広宣流布の

 

大教令と、

 

日興上人の

 

「未だ広宣流布

 

せざる間は、

 

身命を捨てゝ

 

随力弘通を

 

致すべき事」

 

との御遺誡のまま、

 

死罪に等しき

 

解散処分を

 

受けるとも、

 

些かも弛まず

 

死身弘法に徹せられ、

 

そのひたむきな弘通は

 

二四五万に達した。

 

 

その根底にあるのは、

 

大聖人様に対し奉る

 

大忠誠以外にはない。

 

 

先生は

 

「大聖人様の御心に

 

適い奉る恋慕渇仰の

 

遥拝勤行は、やがて

 

必ず日本国に

 

満ち満ちる。そのとき

 

一国の総意のもと、

 

国家意志の表明たる

 

『勅宣並びに御教書』

 

も申し下され、御遺命

 

そのままの

 

『本門戒壇』すなわち

 

国立戒壇が

 

富士山天生原に

 

建立される。そして

 

その金剛宝座に、

 

ついに

 

『本門戒壇の

 

大御本尊』が

 

御出ましあそばす

 

――。すべては

 

大聖人様の絶大威徳に

 

よって成るのである。

 

 

顕正会員は

 

この荘厳なる光景を、

 

必ずや熱涙の中に

 

拝見させて頂ける」

 

 

「人類絶滅の

 

大戦乱から、

 

日本を、世界を、

 

お救い下さるのは、

 

大慈大悲と

 

絶大威徳まします

 

日蓮大聖人ただ御一人

 

であられる。これを

 

知る我ら門下の

 

弟子一同は、ただ

 

随力弘通に徹して、

 

日蓮大聖人の大恩徳を

 

早く全日本人に教え

 

なければいけない。

 

早く、大聖人様の

 

唯一の御遺命たる

 

国立戒壇建立を実現

 

しなければいけない」

 

と、

 

日蓮大聖人の

 

御遺命の大事を、

 

重ねて深く弟子に

 

打ち込まれた。

 

 

九月度総幹部会に

 

おいて、先生は

 

急速に大闘諍に向かう

 

世界情勢を凝視され、

 

全日本人に対し、

 

日本国の仏法守護の

 

重大使命と、

 

「日本の柱」たる

 

日蓮大聖人の

 

大恩徳を示され、

 

国立戒壇建立の実現を

 

強く促された。そして

 

「亡国の大闘諍が

 

起こるとき、

 

大聖人様は

 

広宣流布を

 

一時にあそばす。

 

何としても

 

大聖人様に

 

応え奉ろう」と

 

師子吼された。

 

 

この三週間後の

 

令和五年

 

一〇月一六日、

 

安詳として

 

御逝去された。

 

「浅井昭衞先生追悼号」 | 顕正新聞社 - 公式サイト (kenshoshimbun.com)

 

 

 

 

冨士大石寺顕正会 - 公式サイト (kenshokai.or.jp)

 

 


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