御虫払法要の二日後、
宗務院から回答文書が
送られてきた。が、
その内容は確認書を
ふみにじる無節操・
破廉恥きわまるもの
であった。
宗門はこの回答のため
に、細井管長が出席し
ての「指導会」なるも
のを三月二十六日に開
いたとのことである。
席上、細井管長は正本
堂の意義について、
なんと
「一期弘法抄の意義を
含む現時における事の
戒壇」
と定義し説明したので
あった。
「一期弘法抄の意義を
含む」といえば、
御遺命の戒壇を意味
するではないか。
宗務院の回答文書は、
この細井管長の「御指
南」なるものに尾鰭を
つけ、阿部教学部長が
書いたものであった。
こうあった。
「本年二月十四日、
貴殿と面談した際、
質問並びに要望の
あった三ヶ条の問題に
ついて回答して
おきたい」
と前置きして、
私が求めた宗門声明
三箇条を挙げ、
一々に回答があった。
第一の「正本堂は
三大秘法抄・
一期弘法抄に御遺命の
事の戒壇ではない」に
ついては
「猊下の『正本堂は一
期弘法抄の意義を含む
現時における事の戒壇
である』との御指南を
よくよく拝すべきであ
る。ここに一切尽きて
いるので多言を要しな
い」とあり、
細井管長の「指導会」
における速記録が同封
されていた。
一読するに、それは
またまた嘘とたばかり
を重ねた支離滅裂な
「御指南」であった。
たとえば、三大秘法抄
を引いての結びの一節
には、こうあった。
「我々の己心において
の有徳王・覚徳比丘の
王仏冥合の姿こそ、
我々の己心にあると考
えなければならないの
であります。これ実に
我々行者の昔の己心の
姿を顕わされていると
拝すべきであって、そ
の己心の上に勅宣並び
に御教書がありうるの
であります。即ち、広
宣流布の流溢への展開
の上に霊山浄土に似た
らん最勝の地、富士山
天生ヶ原即ち大石ヶ原
に戒壇建立があるべき
であります。故に、今
回建立の正本堂こそ、
今日における妙法広布
の行者である、大聖人
の弟子檀那が建立せる
一期弘法抄の意義を含
む本門事の戒壇である
と申すべきでありま
す」と。
ごまかそうと
するから、このような
意味不明の文言とな
る。阿部教学部長は
「この御指南に一切は
尽きている」といって
逃げた。
第二の「正本堂は奉安
殿の延長として、国立
戒壇建立の日まで、本
門戒壇の大御本尊を厳
護し奉る殿堂である」
については、「国立戒
壇」の文言だけを取り
挙げて、かくいう。
「国立戒壇の名称は、
身延派から出た国柱会
の田中智学一派が用い
た名称である。日達上
人猊下は、国教がない
から国立もあり得ない
と云われるのである。
特に猊下は今後国立と
いうことは使用しない
旨、昭和四十五年五月
三日、その他の時に公
表されている。したが
って、貴殿があえて国
立を主張するなら、猊
下の御真意に背き、ひ
いては本仏大聖人の仏
法に反することにな
る」と。
――「国立戒壇」を
身延系・田中智学の
説というならば、
国立戒壇を叫ばれた
歴代先師上人はすべて
田中智学の亜流になっ
てしまうではないか。
阿部は、身延僧だった
田中が富士大石寺伝統
の「国立戒壇」の義を
盗んで喧伝したことを
百も承知の上で、
この邪論を述べている
のである。
第三の「正しく御遺命
の事の戒壇とは、
一国広布の暁、富士山
天生ヶ原に建立される
国立の戒壇である」に
ついては、これまた
「天生原」だけを
取り挙げ
「貴殿はかって〝天母
山〟といっていたが、
変更したのかどうか。
天母山戒壇説ならば京
都要法寺の日辰の思想
であり、これを主張す
る者は興門亜流たる造
像系の学説に囚われる
ものといえる。またも
し〝天生原〟ならば、
現在の大石寺を中心と
する地域である。貴殿
が天母山戒壇建立にと
らわれることは、歴代
上人ならびに現法主上
人に対する明らかな背
反というべきである」
と。
――天母山と天生原と
どう違うのか。
天生原の中心にある
小高い丘を天母山と
いうのである。
これは天生原即大石原
とたばかる
詭弁に過ぎない。曽て
細井管長は、日寛上人
の報恩抄文段における
「事の戒壇とは即ち
富士山天生原に戒壇堂
を建立するなり」を
否定するため、
要法寺・日辰が大石寺
の義を盗んで「天生山
戒壇説」を唱えていた
ことを理由に、
「日寛上人は日辰の
影響を受けている」
などと不敬きわまる
言辞を吐いていたが、
いま阿部は、これを踏
襲しているのである。
このように、本回答は
すべて見えすいた嘘を
重ねて国立戒壇を否定
せんとしたものに
過ぎない。
それにしても、
何たる無節操・
破廉恥な回答か。
阿部教学部長は
確認書にも立ち会い、
また
拙宅を訪れた際には
「妙信講のいうところ
大聖人の御意に叶えば
こそ、宗門の大勢も
変った。
宗門がここまで
立ち直れたのも
妙信講のおかげ」と
まで述べていた
ではないか。この
豹変はなにごとか。
すでに阿部信雄は
自身の栄達を見据え、
池田に魂を売っていた
のであった。
実はこのとき、
池田大作は再び宗門に
猛烈な圧力をかけてい
た。
彼の胸には
「すべては猊下の
承認を得て
やったこと。
今さら変更されて
たまるか」との思いが
あったに違いない。
その圧力は
「月例登山会」を
激減させる等の
本山への経済封鎖も
伴っていた。
細井管長以下すべての
宗門高僧たちは、
この威圧に再び屈し、
そして
諂ったのであった。
基礎教学書 第十章 - 御遺命守護の戦い | 顕正新聞社公式サイト (kenshoshimbun.com)
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