総本山の対面所で
細井管長が
私に示された
「日応上人の
御宝蔵説法の原本」と
称する文書について、
少し触れておく。
後日、諸天の計らい
ともいうべき
不思議な経路で、
その全文を入手する
ことができた。それは
第五十六世日応上人の
「原本」ではなく、
第六十世日開上人の
御宝蔵説法本
であった。
細井管長が引用した
前後の文を
拝見すれば、
文意は明白であった。
「御遺状の如く、
事の広宣流布の時、
勅宣・御教書を
賜わり、本門戒壇建立
の勝地は当国富士山
なる事疑いなし。
又其の戒壇堂に安置し
奉る大御本尊、
今眼前に当山に在す事
なれば、此の処即ち
是れ本門事の戒壇・
真の霊山・事の寂光土
にして……」とある。
すなわち日開上人は、
広布の暁に国立戒壇が
建立されることを
大前提として、
その事の戒壇に
安置し奉る
戒壇の大御本尊
いまここに
ましますゆえに、
たとえ未だ
事の戒壇は建てられて
いなくとも、
「此の所即ち是れ
本門事の戒壇」と
仰せられているのだ。
すなわち
〝義理において
事の戒壇〟の意、
これを本宗では
「義理の戒壇」
あるいは
「義の戒壇」と
称してきたのである。
ゆえに日寛上人は
「義理の戒壇とは、
本門の本尊所住の処、
即ちこれ義理・
事の戒壇に当るなり。
乃至、故に当山
(大石寺)は
本門戒壇の霊地なり」
(法華取要抄文段)
と仰せられ、
広布以前の
戒壇の大御本尊
まします大石寺を
「義の戒壇」と
されている。
さらに
「未だ時至らざる故に
直ちに事の戒壇
これ無しといえども、
すでに
本門戒壇の御本尊
まします上は、
其の住処は
即戒壇なり」
(寿量品談義)
とも仰せられている。
「其の住処は
即戒壇なり」とは、
義において
戒壇ということ、
これを「義の戒壇」
というのである。
しかるに細井管長は、
日開上人が
前文に示されている
国立戒壇建立の
大前提を
故意にかくして、
正本堂を直ちに「事の
戒壇」といわれた。
これは明らかに
たばかりである。
「事の戒壇」は
「御宝蔵であれ
奉安殿であれ正本堂で
あれ……」ではなく、
一つしかないのだ。
ゆえに
近世の大学匠と
いわれた
第五十九世日亨上人は
「唯一の国立戒壇、
すなわち
大本門寺の本門戒壇の
一ヶ所だけが
事の戒壇でありて、
そのことは
将来に属する」
(富士日興上人詳伝)
と。
さらに
「この戒壇について、
事相にあらわるる
戒壇堂と、
義理の上で
戒壇とも思えるの
二つがある。
事相の堂は
将来一天広布の時に、
勅命で
富士山下に建ち、
上は皇帝より
下は万民にいたるまで
授戒すべき
所であるが、
それまでは、
本山の戒壇本尊
安置の宝蔵が
まずその義に当る
のである。
末寺の道場も
信徒の仏間も、
軽くは各々その義を
もっていると云える」
(正宗綱要)と。
また
第六五世日淳上人は
「御文(三大秘法抄・
一期弘法付嘱書)に、
王法と仏法と冥合して
国主が此の法を
御用いの時は
此の戒壇が
建立せられる、
それを事の戒法と
申すと仰せられるので
ありますから、
その時の戒壇を
事の戒壇と申し上げる
のであります。
従って、それ以前は
御本尊のまします
ところは
義理の上の戒壇と
申し上げるべきで
あります。仍って
此のところを
義の戒壇と申し上げる
のであります」
(日蓮大聖人の教義)
と。
いや細井管長自身、
登座直後の説法では
「事の戒壇とは、
富士山に戒壇の本尊を
安置する本門寺の戒壇
を建立することで
ございます。
勿論この戒壇は、
広宣流布の時の
国立の戒壇で
あります」
(大日蓮 昭和36年
5月号)
と言っている
ではないか。
しかるにいま定義を
勝手に変更して
「戒壇の大御本尊
ましますゆえに
正本堂は事の戒壇」
という。
これ自語相違であり
己義である。
なぜこのような
たばかりをしたのか
といえば、正本堂を
「御遺命の事の戒壇」
と云い続けてきた
学会・宗門の欺瞞を
隠すための目眩に
ほかならない。
しかし今、詰められて
本心を吐露せざるを
得なくなり、それが
御虫払会における
正論となった
のである。
だが――、
これより以後、
細井管長は態度を
二転三転させる。
私と会えば
貫首としての本心を
取り戻し、
池田と会えば
魔の手先となるという
変節を、
最後の最後まで
繰り返したので
あった。
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